歌声の行方
「しばらく、こうしていても構わないか……?」
いつになく切迫した声と共に腰に腕を回され、セレナは驚きながらも夫の逞しい身体に頬を寄せる。
夫――ジーノがセレナに甘えてくるのはいつものことだけれど、ここまで不安そうな表情をしているのは久々のことだった。
日はまだ高く、ソファーの上とはいえ頬に吐息がかかるほど密着するのは少し恥ずかしいけれど、不安がるジーノを放っておくことは出来ず、セレナもまた彼の背中にそっと手を回す。
「何か、あったのですか?」
尋ねてみるが、ジーノは珍しく言葉にすることを躊躇っているようだった。
素直すぎるが故に、考えていることがすぐ口からでる彼にしては珍しいなと思っていると、不意に彼はセレナの喉に指先で触れてくる。
「……お前は、親のような有名な歌手になりたいと思ったことはあるか?」
ジーノの口からこぼれた質問はあまりにも意外なもので、セレナはぽかんとしてしまう。
「そんなこと、考えたこともありませんでした」
セレナの母は、音楽と芸術に溢れたこの街『フィレーザ』一の歌姫とまで呼ばれた歌手で、今なおその名声は広く知れ渡っている。
だが、セレナは母のような美しく澄んだ声質を受け継がなかった。そのせいで母や妹からはずっと蔑まれ、虐待されてきたため、自分が二人と肩を並べて歌手になるなんて想像したことすらなかったのだ。
「一度も、ないのか?」
「ジーノ様に声を褒めていただくまでは喋ることすら苦手でしたし、ましてや歌なんて歌えるわけがないと思っておりましたので」
今はジーノにねだられ、彼が自分のために作ってくれた歌を口ずさむことはあるが、人前で歌おうと考えたことはない。
それを告げると、ジーノはどこかほっとした顔でセレナの喉から指を離した。
「でも、どうして突然そんな質問を?」
「実はその、今日ミケーレにある打診をされてな」
「打診……ですか?」
「今度の劇の主役に、お前を使いたいと言い出した」
先ほどの質問の更に上を行く予想外の言葉に、セレナは目を見開く。
そこでジーノは、セレナを抱く腕を僅かに緩め、不満そうな顔で事の顛末を語り出した。
「ジーノ、僕は今猛烈に怒ってるんだ」
親友のミケーレがそう言って顔をしかめたのは、音楽室でミケーレのための曲を書いているときだった。
十歳以上年下だが、ミケーレはジーノの親友であり優れた戯曲作家でもある。
彼の作品に曲を提供しはじめてもう随分たつし、今作っていた曲も我ながら完璧だと自画自賛していただけに、ジーノはミケーレの怒りに戸惑った。
「お前がトロールと妖精が裸で決闘しているような曲だと言うからこのテンポにしたのだが、まずかったか?」
「曲の話じゃないよ! むしろ僕のわかりにくいオーダーから完璧な曲を作るジーノのことは尊敬しているし、正直その才能が時々怖いくらいだよ」
ただ……と、綺麗な顔にムッとした表情を張り付けながら、ミケーレはジーノに詰め寄った。
「僕が怒っているのは、セレナさんの才能を独り占めしてることだよ」
セレナを独り占めしている自覚はあったが、あえて『才能』と限定したミケーレにジーノは首をかしげる。
そんなジーノの様子に大きなため息をこぼしてから、ミケーレは拗ねたように唇を尖らせた。
「セレナさんのあの歌声、どうして隠してたの?」
「まさか、聞いたのか」
「その言い方、やっぱり隠してたんだ」
「隠すまでもなく、セレナは俺のためにしか歌わないから驚いただけだ」
どこで聞いたのかと純粋な興味で聞くと、ミケーレは庭で猫に向けて歌っていたのだと告げる。
「喋っているときは気づかなかったけど、セレナさんは歌い出すと別人だよ! 歌声は清らかで、美しくて、その中に潜む独特の艶めきが耳を離れないんだ!」
そこでようやく表情を崩したミケーレは、どこか恍惚とした顔でセレナの歌声を褒める。
一方で、ジーノは内心複雑だった。
彼女が褒められるのは嬉しいが、その歌声を自分以外の誰かが聞いたと思うと、胸がもやもやとしてしまうのである。
相手が親友のミケーレだからまだいいが、他の男だったら相手の耳を引きちぎってやりたいと思ってしまったかもしれない。
「ともかく、あの歌声を隠しておくなんてどうかしてるよ! 彼女なら、母親を超える歌姫にだってなれるかもしれないのに」
「だがセレナは、そんなことを望んでいないと思うぞ」
「それ、彼女が言ったの? 心の中では、少しくらい憧れがあったのかもしれないよ?」
尋ねられ、ジーノは思わず言葉に詰まる。
確かにセレナの夢については、話をしたことがあまりない。
セレナが抱く声に対する劣等感を思えば、歌手になりたいと思うわけがないと、ジーノが勝手に考えていただけだ。
「セレナさんがいいって言うなら、次の歌劇の主役は彼女にしたい」
「ちょっと待て、いきなり主役だなんて本気か?」
「元々新人を使うつもりだったし、オーディションに来た子たちよりセレナさんのほうがずっと可愛いし、歌も上手いし」
「だが演技はどうする」
「先生もちゃんとつけるし、僕の直感がセレナさんには才能があるって言ってるんだ」
まだ若いが、ミケーレは才能も審美眼もある戯曲作家で、その彼にそこまで言わせるのなら、きっとセレナの素質は本物なのだろう。
実際、彼が目をかけた素人歌手が、次々と名を上げているのをジーノは知っている。
だがそうとわかっていても、ジーノの口からは戸惑いの声ばかりがこぼれてしまった。
「だ、だめだ……! それだけは絶対にだめだ! セレナの歌声は俺だけのものだからだめだ!」
「セレナさんが嫌がるならともかく、ジーノが決めることじゃないでしょ?」
「それは……」
少し前のジーノなら『セレナは俺の妻だ。だから俺がだめだと言ったらだめだ!』と我が儘を押し通しただろうが、今の彼にはそれが難しい。
セレナの不幸な身の上と苦労を知った今は、可能な限りセレナの希望を叶え、幸せにしてやりたいと思っていたし、彼女に才能があることも薄々わかっていたからだ。
「ともかくセレナさんに聞いてみてよ。僕だって、彼女が嫌なら無理強いはしないから」
ミケーレの力強い言葉に最後まで反論することが出来ず、しかしすぐセレナに話を通すことも出来ず、結局彼は情けなくもセレナに縋り付いてうだうだ悩んでしまったのである。
「……だからもし、お前が望むのならミケーレに話をしようと思ってな」
ミケーレとのやり取りを語るジーノの顔には『俺としてはもの凄く不本意なのだが』という文字が透けている。
だがそれでも、ミケーレとのやり取りを打ち明けてくれたことが、セレナは嬉しかった。
『自分がしたくないことはしない!』と豪語しているジーノの性格を思えば、この話を持ち出すまでには相当の葛藤があったに違いない。
(でも私のために、頑張って話してくださったのね……)
そう思うと、不本意さがにじみ出ているジーノの様子は、どこか可愛らしくも見えてくる。
「安心してください。私は、歌手になるつもりはありません」
「遠慮をしているわけではないのか?」
「ええ。先ほども申しましたが、歌手になりたいと思ったことはないのです」
そして才能があると言われた今も、その気持ちは変わらない。
「誰かに声を褒めて欲しい思いは確かにありましたけど、だからといって人前で歌いたいとは思えなくて」
認めてもらえるなら、大勢の知らない人より特別な誰かひとりがいいと、セレナはずっと思っていた。
自分だけの特別な人が自分の声や存在を認め、愛してくれることが、セレナには一番大事なのだ。
「ジーノ様が褒めてくださるだけで、私は幸せなのです」
特別なたったひとりに褒めてもらえれば、何百人に褒められるよりずっと幸せな気持ちになれるに違いないとセレナは思っていた。
特に、歌手として成功しながらも、心を病んでいった母と妹を見てきた今は。
「ならば、お前の歌声は俺だけのものだ」
ほっとした顔をするジーノに、セレナは笑顔で頷く。
そのままどちらからともなく唇が重なりかけたとき、不意にジーノがはっと顔を離した。
「そうだ。あと、もう一つ約束してくれ」
「約束……ですか?」
「お前の歌は俺のだけのものだ。だからもう、猫にも聞かせるなよ」
「ね、猫?」
首をかしげたところで、セレナは猫に歌っていた所をミケーレに聞かれたという話を思い出す。
「なっ、なるべく人に聞かれないようにはしますが、猫もだめですか?」
「だめだ。お前が猫に歌っていると思うと、羨ましくなるから禁止だ。俺だけにしろ」
大真面目な顔で言われ、セレナは思わず噴き出した。
それにジーノが不満そうな顔をしたので、セレナは笑いながらも「わかりました」と頷いた。
「歌を歌うのは、ジーノ様の前だけにします」
「約束だぞ。お前の歌は一生俺だけのものだ。もし子どもが出来たら、そこは例外でもいいが」
そう言って今度こそ優しく唇を奪われ、セレナは頬を朱色に染める。
「まだ、気が早いのではありませんか?」
「早くはない。それだけのことをしているしな」
すっかり機嫌が直ったのか、ジーノのキスは更に続き、深まっていく。
「さあ、俺だけのために歌ってくれ」
耳元で囁かれた言葉にセレナは恥ずかしくなるが、彼女の身体はジーノの逞しい腕の中に閉じ込められ、逃げることなど叶わない。
「歌う余裕なんて、与えてくださらないくせに……」
拗ねたように言ってみたものの、ジーノが始めた愛撫の前にはあまりにささやかな抵抗だとわかっている。
だからセレナはジーノの腕とキスに身を委ね、甘い声で愛しい名を呼んだのだった――。
【了】