幸せの在りか
幸せというものがどんな形をしているのか、シリウスは考えたこともなかった。もっとも、今までの人生で幸せを望んだこともなかった。
前世の悲惨な記憶を持ったまま生きるのは辛く、彼から希望を奪っていた。一見すべてを手にしている大国の王太子も、空虚な心を埋めることはできないでいたのだ。
呪いのような前世の罪から逃れるには無関心を貫けばいいと思っていたシリウスだが、エジェリーに出会った彼の心には変化が起きた。
気づけば幸せを望んでいた。はじめて誰かを欲する感情も知った。
エジェリーへの強い執着心がどこから生まれるのかわからず苛立っていたこともあった。だがその気持ちはシリウスのものであり、前世の自分は関係がないと思い至るとますますエジェリーを強く望んだ。
笑顔が見たい、声が聞きたい。触れられる距離にいたいし、自分以外に笑いかけて欲しくない。自分だけを見てくれないのなら、いっそ閉じ込めてしまえばいい――とまで思考が堕ちかけていたが、彼はすんでのところで距離を置くことを選んだ。それがお互いのためなのだと信じて。
だからレオンがエジェリーの様子を尋ねてきたとき、あえて彼一人でベルガス領へ行けばいいと言ったのだ。まだひと月も経過していないのに、迎えに行くのは早すぎると判断して。
(もっと冷静にならなければ、きっと彼女を傷つけてしまう)
里帰りを望んでいたエジェリーの気持ちを最優先にして、自分の気持ちなど我慢すればいい。今後もずっと自分の感情を制御して、心を隠して彼女と接すれば、これ以上嫌われなくて済む。
だが、そう考えるのと同時に気づいてしまった。距離を置いているのは本当は怖かっただけなのではないかと。
自分から離れたくせに一日会わないと、次に会うことが臆病になる。最後に会ったあの夜の行いが忘れられない。嫌われていてもおかしくないほど、容赦なく抱いてしまったのだから。
これでは、ただ逃げているだけの情けない男ではないか。否定できず苦い笑みが零れた。
「情けないですね……」
レオンがエジェリーのもとへ行く。彼女にとってもう一人の兄とも言える彼を自然な笑顔で出迎える姿を想像して、不快な感情が胸の奥に渦巻いた。
いつまで逃げる? いつまで我慢する? 一体いつまで前世に振り回されるのだろう。
煩わしく鬱陶しい前世の記憶に蓋をして、大切な女性を傷つけないよう細心の注意をはらい、自分の感情は二の次にして常に心を制御する。それが本当に求めている幸せなのだろうか?
「……っ」
パンッ、と彼の中でなにかが弾けた。
「……いいえ、違います。私は、エジェリーには隣を歩いてもらいたい」
守りたい、大切にしたい。その感情は嘘ではない。
だけど望むのは、どちらかが我慢をして成り立つ関係ではない。自然体で笑いあい、お互いを支えることができる関係。その信頼関係を築くことが彼の理想であり、彼が求める幸せの形にもっとも近いのだ。
「エジェリー……」
彼女に会わなければ。レオンから様子を聞くなど冗談ではない。従弟とはいえ、ほかの男に大切な女性の話を聞かされるなど、考えただけで嫉妬に狂いそうだ。
何故それを許す気になっていたのか。少し前の自分の思考がわからない。
会いたい。会わなければいけない。そしてもう前世とも区切りをつけたい。
エジェリーがこれ以上悩む必要がないように。そして自分自身も前に一歩進みだせるように。なにか象徴になるものを彼女にあげたい。
そう思ったところで、ふと前世の記憶が脳裏を駆けた。シロツメクサの花冠の記憶だ。
シリウスは一度も編んだことがない。ユウリにつながることはあえてしようと思わなかったからだ。編み方はかろうじてわかるが、それが自分にもできるとは限らない。
だが、迷いは数瞬だった。抱えている仕事を急いで終わらせて、彼はレオンのベルガス領訪問時に間に合わせ、エジェリーの兄とともにシロツメクサが咲いている場所へと向かったのだった。
◆ ◇ ◆
空が白みかかってきた早朝。胸の中に抱くエジェリーのぬくもりが幻ではないことを確かめるように、シリウスは毎朝彼女の存在を実感する。白く滑らかなエジェリーの頬に指先で触れて、すやすやと眠る姿をじっくりと眺める。
「エジェリー」
囁く声は甘い。宝物を扱う手つきでそっと彼女の頭を撫でた。
婚約式が終わって数か月。シリウスはこれまでの睡眠障害が嘘だったかのようによく眠れている。短時間でも質のいい睡眠を得られているため、身体の調子も健康そのものだった。
シリウスの一日の始まりは、エジェリーの名前を呼ぶこと。そして一日の終わりも、彼女におやすみの挨拶をすると決めている。今の自分があるのも、すべてエジェリーが与えてくれたものだから、彼女に感謝の気持ちを込めて一日一日を大切に過ごしたい。
「私の幸せは、あなたの隣にいられることです」
お互いを思いやり自然体で笑いあえる関係が、理想の夫婦の姿だ。
幸せの形は目には見えないけれど、大切な人が笑顔でいられる日常を守ることが、きっと夫としての大事な役割なのだろう。そしてエジェリーの隣にいられれば、シリウスはずっと幸せだ。
寝ているはずのエジェリーも、それに同意するかのようにふわりと頬をほころばせた。