ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

甘いフレグランスはいかが?

 青い空に白い雲。風もなく波も穏やかな海の上を、大型の船が優雅に進んでいく。
 船内では多くの船員が働いているため、いつも賑やかだ。
 ローズマリーに見送られて出港してから一週間の時が流れた。
 擦れ違っていた想いが通じ合い、チェスターと晴れて両思いになることが叶ったサラは、砂糖菓子のように甘い生活が始まるのだと信じて疑わなかった。それはきっとチェスターも同じだっただろう。
 だが、実際はそう甘くなかった。
 船が港を出港して数時間で、サラは酷い船酔いを起こし、ベッドから離れられなくなってしまったのだ。
 一週間経った今も、洗面器を抱え込みながら吐き気に耐えている。
 時間を見つけては様子を見に来てくれるチェスターは、苦しむサラの背を大きな手で優しく撫でてくれた。
「……忙しいのに迷惑をかけてごめんなさい」
「気にするな。オレが頼み込んで一緒に来て貰ったんだから、サラが気に病む必要はない」
「違うわ。私が自分の意志で乗ったの。チェスターに頼まれたからじゃない」
「そう言って貰えるのは嬉しいが、あまり強がるな。顔色が真っ青だ」
「……船に乗ったの初めてだから、こんなに揺れが辛いなんて知らなかったの」
「船酔いは誰もが通る道だからな」
 波に合わせて船が上下左右に揺れる。
 地面の上とは違う海の上特有の不安定さに逃げ出したくなる時もあるけれど、大海原の真ん中を航海しているため、逃げ場もない。
 こみ上げてくる気持ち悪さに顔を顰める。
 ベッドに腰掛けたチェスターは、ベッドサイドのテーブルの水差しに手を伸ばすと、コップに注いでサラに渡した。
「水分はこまめにとっておいた方が良い。酔いが治まるまで、もう少しの辛抱だ」
「もう少し我慢すれば、船酔いしなくなるの?」
「しなくなるというよりも、揺れに体が慣れるんだ。オレも最初は苦労したが、今は嵐の中でも平気でいられる」
「……そうなるまでにどれくらいかかる?」
「オレは三日ほどだったな。ジェドは一ヶ月くらいかかっていた」
「ジェドにも苦手なことがあったのね」
 コップを受け取り無理やり水を飲み込む。
 カラカラだった喉に水分が流れると、少しだけ気持ちの悪さが治まった気がした。が、やはり気がしただけだった。
 大きな波に乗り上げたらしく、コップの水が零れるほど船が揺れる。
 再びベッドに突っ伏して唸るサラを励ますように、チェスターは背中を撫で続けた。
 そこへ、コンコンと扉がノックされ、ジェドの声が聞こえてきた。
 サラは辛さに身体を動かせず、視線だけを扉へ向ける。
 扉を開けたジェドは手にしていた書類の束をチェスターに差し出すと、涼しげな目でサラを見下ろした。
「重症だな」
「初日よりは症状は軽くなっているが、慣れるまでにはもう少しかかりそうだ」
「普段煩いやつが静かだと調子が狂う」
「そこは素直に心配していると言っていいんだぞ」
「心配はしていない。サラが静かだと、チェスターが隙を見つけて仕事を抜け出すから困っているだけだ」
「仕事はどこにいてもできるから問題はない」
「資料が必要になるたびに取りに行かされる俺の身にもなってみろ」
「日頃の運動不足が解消できるぞ。これも全部サラのおかげだな」
 渡された資料をめくりながらそう答えるチェスターを、ジェドが呆れたように睨んでいる。
 サラは自分がどうすればこの場を収められるか分からず、曖昧に苦笑いを浮かべることしかできなかった。
 この場にアンジェリカがいたら上手に二人を諫めてくれたかもしれないが、彼女は都合が悪くなり船には乗らずに陸路で帰路についたと聞いている。
 もし一緒に船に乗っていたとしても、気まずい雰囲気になってしまいそうだったため、別行動に至ったのはある意味良かったのかもしれない。
(アンジェリカはチェスターのことが好きだったから、婚約したって嘘をついたのよね。でも、チェスターは私を選んでくれたんだし、堂々とできたらいいんだけど……)
 正直、まだチェスターの隣に胸を張って立てる自信はない。
 けれど、これからジェドにマナーと教養を徹底的に教え込んでもらえたら、自然と自信も湧いてくるはずだ。
 資料を確認し終えたチェスターは、膝の上でトントンと紙の束を揃え直してジェドに渡した。
「問題はない。このまま進めてくれ」
「分かった」
「それと、検討して欲しいと頼んだ件はどうなった?」
「これだけ順調に航海が進んでいるなら、一つくらい立ち寄る港を増やしても問題はないだろう」
「良かった。なら、なるべく一番近い港に立ち寄ってくれ。苦しそうなサラを見続けるのは心苦しくてたまらないんだ」
「特例は今回だけだ。それを忘れるな」
「大丈夫。分かっている」
 出て行くジェドの背中を見送り、扉が閉まったのと同時にチェスターを見上げる。
 チェスターはサラの視線を受け止めると柔らかく笑い、サラの髪を指に絡めた。
「……チェスター、今のは?」
「予定にはない港に立ち寄りたいと、ジェドに頼んでおいたんだ。陸地で休憩すれば少しはサラが楽になると思ってな」
「……私、チェスターの足を引っ張りたくないの。私は大丈夫だから、予定通り進んで」
「サラが臥せっていると、オレは心配で離れられなくなる。つまり、サラが早く元気になることが、ジェドにとっても船にとっても一番都合がいい」
「……」
「この海域からなら明日の朝には陸地に着けるはずだ。もうしばらく頑張ってくれ」
 チェスターの優しさに胸が温かくなる。
 申し訳ない気持ちも相まって、目が潤んでしまった。
「チェスター……あのね…」
「ん?」
「……ありがとう」
「どういたしまして。陸についたら、サラの元気な笑顔を見せて欲しい」
「うん。約束するわ」
 ゆらゆらと視界が揺れる。
 本当に船酔いに慣れるのだろうか?
 不安はつきないが、チェスターもジェドも同じ経験があるのなら、きっと大丈夫なのだろう。船室の小さな窓から入り込んだ日差しが、テーブルの上の水差しをキラキラと輝かせている。
 目を閉じると波の音が聞こえた。
 気持ち悪さをどうにかしようと深い呼吸を繰り返す。
 潮の匂いは嫌いじゃない。
 チェスターに慰められながら、次第に日が暮れていくのを感じる。
 太陽で照らされていた室内が薄暗くなり、ランプに火が灯される頃には、窓の外には真っ黒な海とこぼれ落ちてきそうな美しい星空が広がっていた。

***

 目覚めはいつもチェスターの腕の中で始まる。
 天気の良い日は暑くて目が覚める事もあるくらい、チェスターの体温は温かい。
 いつまでも微睡んでいたくなる穏やかな朝をチェスターと迎えられる幸せにはにかむと、いつもと違って気持ち悪さがなくなっていることに気がついた。
 吐き気もしないし、めまいもない。 
 どうやら船の揺れに体が順応したようだ。
 まだ寝ているチェスターの髪にソッと手を伸ばす。
 何度か髪を撫でると、チェスターの睫毛が震え、彼が起きたことを知った。
「おはようチェスター」
「……おはよう。気分はどうだ?」
「それがね、とっても良いの。揺れに慣れたみたい」
「そのようだな。昨日までと顔色が違う」
「約束だった笑顔もできるよ」
「吐き気は?」
「平気」
 寝起きのチェスターの声は掠れている。
 逞しい腕に抱かれながら笑うと、チェスターは嬉しそうに目を細めた。
 そしてゆっくりと顔を寄せ、サラの目尻に唇を落とす。
「元気になったのなら、もうキスを我慢する必要はなさそうだな」
「我慢してたの?」
「ずっとな。本音を言うと、毎日キスをしたくてたまらなかった」
 照れてしまう台詞を恥ずかしげもなく言うチェスターは、そのままサラの唇を奪うと、やんわりと下唇を甘噛みしてくる。
 これは口を開けというチェスターの誘いの仕草だ。
 甘えられているような雰囲気にクスクスと笑いながら、深いキスを受けいれる。
 久しぶりの濃厚なキスに甘い痺れが体を走った。
「んっ、チェスター…苦しい」
「もう少しだけ」
 苦しいと訴えたからなのか、キスは触れるだけのものに変わる。
 ただ、飽きもせず何度も重ねられるから、何だかおかしくなって笑ってしまった。
「サラが元気になって良かった」
「ご心配をおかけしました。すっかり元気になったから、私のために港に寄らなくても大丈夫よ」
「サラ、窓の外を見てみろ。何が見える?」
「え?」
 チェスターにそう言われ、体を起こして窓をのぞき込んだサラは、どこまでも続く水平線とは違う景色に目を丸くした。
 どうやらサラが起きる前に港に到着していたらしい。
 お祭りをしているかのような賑やかな街の様子に胸が躍った。
「着いちゃってたのね」
「この港は毎日のように市場が開催されている。せっかく元気になったなら行ってみないか?」
「いいの? ジェドに怒られない?」
 人々の楽しそうな気配にウズウズしながら伺いを立てると、チェスターは大きく頷いてくれた。
 サラは嬉しくなって立ち上がる。
「やった! 早く行こうチェスター!」
「喜んでくれるのは嬉しいが、迷子にだけはならないでくれ」
「分かったわ! ちゃんとチェスターの側にいるから安心して」
 あれだけ毎日のように船酔いに苦しんでいたはずなのに、慣れてしまえば少しの揺れなど気にもならなくなっていた。
 身支度を整え、チェスターと一緒にジェドの部屋を訪ねる。今まで心配をかけたお詫びをして外出の旨を伝えると、門限なるものが決められてしまった。
 午後四時という早すぎる門限は、チェスターの粘りで午後六時までのばすことができたが、まるで本物の父親のようなジェドの態度には、チェスターと顔を見合わせてしまったほどだった。
 船からタラップを伝って港へと降りると、サラは奇妙な違和感に困惑して眉根を寄せた。
「なんでだろう。すごく変な気持ちがする。身体がふわふわするの」
「船の揺れに慣れるとそうなる」
「これも慣れる?」
「船酔いよりはすぐに慣れるから安心しろ」
 チェスターにエスコートされ歩き出す。
 海側から吹き付ける風が、ふわりとスカートをなびかせた。
 市場は想像よりも港に近い場所で行われていた。
 海を越えて届けられる異国の品々は、田舎では一生縁がないだろう物ばかりが揃っている。食べ物に骨董品。珍しい動物に宝飾品。ありとあらゆる物がこの市場に集まっていた。
「わぁっ!」と小さく歓声を上げる。
 怪しげな髭をたっぷりと蓄えた商人が売るのは、これまた怪しげな商品の数々だ。中には何が入っているのだろう? 怪しげな包みがいくつも置かれている。
 健康的に日焼けをした女性が売っているのは異国の雑貨のようだ。
 桟橋に敷物を広げて座り込んでいる人の手元には占い用のカードが並んでいて、お客さんは真剣に結果を聞いている。少々顔が強張っているから、あまり良い結果ではなかったのかもしれない。
 異国情緒たっぷりな市場は、サラの知らない言葉が使われていた。
 知らない言語は意味が分からないせいで音楽のようにも聞こえる。
 チェスターは異国の言葉が分かるようで、あちこちからかけられる商人の言葉をサラに訳して教えてくれた。
「サラ、この果物を見たことがあるか?」
「ないわ! これ、果物なの?」
「香りを嗅いでみろ。見た目の予想を裏切る甘い匂いがするだろ?」
「え? あ! 本当だ。良い匂いがする」
 鼻先に出された茶色い芋のようなそれを嗅ぐと、確かに果物特有の甘い香りがする。
 チェスターはその果物を差し出して店主に何やら話しかけると、店主の返事に大きく笑って頷いた。
「何を言ったの?」
「この場でカットはしてもらえるか聞いたら、二個まとめて買うならできると言われたんだ。商売上手だろ」
「それで笑ったのね」
 屋台の中で手早く切られた果実は、地味な外側からは想像できない真っ赤な断面をしていて、とても瑞々しい。
 店主は一口大の実を竹串に刺し、レモンの果汁をかけた。
 初めての果物に、サラは興味津々にかぶりつく。
「美味しい!」
「気に入ったか?」
「うん! すごく美味しい。初めて食べる味がするわ」
「サラには馴染みがないかもしれないが、この果物はオレの故郷の特産品なんだ。もっとも、見た目が貧相だから売れ行きはあまり良くない」
「確かに見た目は芋みたいだもんね。でも、こんなに美味しいんだから、味を知る人が増えたら人気が出るよ」
「そうだと嬉しいんだが、船で運ぶ果物はそれだけ値が上がってしまうから、一般客が買うのは難しくなる。金を持つ客は見た目も重視するから、地味な物は必然的に敬遠されてしまう」
「商売って難しいんだね」
「その分、やりがいはあるがな」
 そう話すチェスターの顔は生き生きとしていて、今の仕事に誇りを持っていることがよく分かった。
 サラはじっくりと果物の甘みを噛みしめる。
(私もチェスターの仕事を手伝えたりするのかな?)
 一緒の船に乗って、同じ時間を過ごせて、お互いに頼り合える関係になれたらとても幸せだ。
「サラ」
 呼びかけられて顔を上げると、唇が軽く重ねられた。
 突然の出来事にポカンと口を開く。
「チェ、チェスター! こんなところで何をするの!」
「果汁がついてて美味しそうだったから、味見をしただけだ」
「味見って、チェスターのその手にあるのと同じ味に決まってるでしょ!」
「そうか? オレにはこっちの方が美味しく思えるが」
 唇を指の腹でぷっくりと押される。
 気障ったらしいふるまいにカァッと顔を赤くすると、チェスターが楽しそうに笑ったので、サラはムッと唇を尖らせた。
「チェスターのそういう意地悪なところが嫌い」
「オレがキスをしたくなる顔をするサラが悪い」
「ジェドにチェスターに苛められたって言いつけようかな」
「言いつけられてもジェドを丸め込む自信があるから平気だ」
「へぇ、そうなんだ」
 チェスターは片手をサラの顎にかけ、唇を合わせやすいように上げさせる。 
 完全に意地悪モードに入ったチェスターを見上げながら、サラは視線を彼の背後へと移した。
「だそうよ、ジェド。チェスターはジェドを軽く黙らせられるみたいよ」
 慌てて背後を振り返ったチェスターが見たのは、凍てつく表情を浮かべたジェドの姿だった。
「ジェ、ジェド……いつから…」
「ついさっき来たんだが、お前の言い分はしっかりと聞こえた」
「いや、あれは……言葉のあやで、本気でそう思っているわけじゃないんだ」
 チェスターはジェドの背筋が凍りそうな冷たい声に臆しつつも、人好きのする笑みを顔に貼り付ける。
 だがジェドは、チェスターの笑顔に騙されるような性格ではない。
「今すぐサラの外出許可を取り消してもいいんだぞ」
 という脅しの一言に、チェスターはさりげない動作でサラを自分の元へと引き寄せてジェドから遠ざけた。
 無表情のジェドを前に冷や汗を流すチェスターの袖を、サラは軽く引っ張る。
「チェスター。ちゃんと謝ったほうがいいと思うよ」
「……少し調子に乗りすぎた。すまなかったジェド」
「私にも謝って」
「次からはキスする場所を考える」
「やけに素直だな」
「サラとの時間を無駄にしたくないからな。オレが折れれば済むなら、いくらでも折れてやる」
 道の真ん中で立ち止まったサラたちを、周囲の人が避けるように歩いている。
 この場にいたら邪魔だと思い、場所を変えてはどうかと提案すると、二人はそのまま少し先にある壁際へと足を進めた。
 嵐が来た時に街を守るために築かれた堤防沿いは、嬉しい事に日陰になっていて炎天下の桟橋よりも幾分涼しい。
 サラは額に滲んだ汗を手の甲で拭う。
 チェスターはジェドに一言断りを入れて近くの露店へ向かうと、暑さで頬を火照らせるサラにミント味の飲み物を渡してくれた。
「ありがとう」
「どういたしまして。ジェドが仕事の話を持ってきたから、少しだけ待っていてくれ」
「分かったわ」
「露店を見に行っても構わないが、オレの目の届く範囲にいてくれ」
 返事の代わりに頷く。
 チェスターはサラにニコリと微笑むと、すぐに表情を真剣なものへと切り替えた。
(仕事の話ってなんだろう?)
 本当はサラも話に加わりたかったが、チェスターたちの様子を見て諦める。
 今の自分では二人の邪魔になるだけだ。
 手持ちぶさたになったサラは、周囲を見回し露店へ向かって歩き出す。
 せっかくの珍しい市なのだから、色々見て回らないと損だろう。
 いくつかの露店を順番に眺めていると、棚に飾られた可愛らしい小瓶に目が惹かれた。
(これはなんだろう? 可愛い)
 飾りガラスで作られたキレイな入れ物の中には薄っすらと赤みがかった液体が入っていて、赤色のリボンで飾られている。
 サラの見ている商品に目敏く気づいた店主がベラベラと話しかけてくるが、いかんせん言葉が分からない。
 思わず愛想笑いを浮かべると、店主はその小瓶をサラへと押し付けてきた。
 反射的に受け取ってしまい慌てると、後ろからチェスターがサラの手元をのぞき込んでくる。
「チェスター。ジェドとの話は終わったの?」
「ああ。それが欲しいのか?」
「えっと……可愛いなって思って…高い?」
「いや。子供の小遣いでも買える値段だ」
「おねだりしてもいい?」
「勿論だ」
 立派な髭の店主はニコニコとサラたちの様子を見守っていて、チェスターが声をかけると待ってましたと言わんばかりに喋り出す。
 チェスターはコインを何枚か店主に渡しているが、サラの国とは通貨が違うため、値段の予想ができない。
「ねぇ、チェスター。この商品が何なのかも聞いて欲しいの」
「知らずにねだったのか?」
「見た目が気に入ったの」
 サラの言葉にチェスターが笑い出す。
 正体不明の商品を見た目だけで選んだことが、チェスターからしたら面白かったのだろう。
「これは香水だ」
「香水? この国の香水は入れ物に凝ってるのね」
「さっきも言っただろ。見た目が良い方が高い値段で売れる」
 バラの花がモチーフになった飾りはとても繊細で美しかった。
 チェスターにお礼を言って頭を下げる。
 彼は香水を嬉しそうに両手に持つサラの姿を愛おしそうに眺めると、エスコートのために腕を差し出し、まだ沢山ある露店へとサラを誘ったのだった。

***

「今日はありがとう。とっても楽しかったわ!」
 夕方になり船に戻ってきたサラは、まだ興奮覚めやらぬ様子で上機嫌だ。
 やはり海の上よりも陸地の方が安心感がある。
 久々に羽を伸ばしたおかげで、今夜はぐっすり眠れそうな予感がした。
「気分転換にはなったか?」
「うん! 香水も買ってくれてありがとう。大事にするね」
「社交界では、贈り物は贈り主に分かるように身につけるのがマナーだぞ」
「そうなの? ちょっと待ってね」
 他の荷物を部屋の隅に置いて、香水を手にすると、手首に軽く吹き付ける。
 とたんに体だけではなく部屋の中に甘い香りが広がった。
 ローズマリーが教えてくれた香水のつけかたを思い出しながら、首筋にも香りを移す。
 素敵な香りに包まれると笑みがこぼれるのは、きっと自然なことなのだろう。
 幸せな気持ちでガラス瓶を見つめていると、背中からチェスターに抱き寄せられた。首筋に顔を近づけられてスンっと匂いを嗅がれ、少し恥ずかしさを感じる。
「チェスター……」
「美味しそうな香りだな」
「またそうやって変なことを言い出すのね」
「いや。変なことは言っていないぞ。その香水は、異性を誘うために女性が身につける物だからな」
「……え…」
「サラの誘いを断るわけにはいかないだろ」
 首裏をチュッと吸われ、慌てて身を引こうとするが、がっしりと抱きしめられて逃がして貰えない。
 チェスターは器用にもサラを捕まえたまま向き合うように抱きしめ直すと、その体を机の上に押し上げてしまった。
「チェ、チェスター、待って!」
「こっちのほうも随分我慢していたからな。歯止めがきかない」
「あっ……」
 服のリボンが解かれ、露わになった鎖骨をチェスターの舌がなぞっていく。
 熱い感触に腰が震えた。
 時折甘噛みしたり、肌を吸ったり、サラの反応を楽しむように施される丁寧な愛撫は、優しすぎて物足りない。
 チェスターが我慢していたように、サラも彼に触れたい欲求があったのだ。 
 艶やかな吐息が漏れる。
 机に触れていた手をチェスターの肩に回すと、彼の欲に濡れた瞳がサラをとらえた。
「チェス、タ……んっ…」
 唇が重なり深いキスを交わす。
 甘い痺れに体が震え、もっと触れて欲しいとねだるような甘い声が溢れた。
 キスなんて何度もしているはずなのに、一向に飽きる気配はない。
 それはきっと、相手がチェスターだからだろう。
 好きな人との触れあいは、いつもドキドキして、幸せな気持ちになれる。
 ふと、別れ際に言われたローズマリーの言葉を思い出す。
「今度はあの男の手を離しちゃ駄目よ」
 そう言われて、サラは「離さない」と答えた。
(ローズマリーに嘘を言っちゃったわ。離さないんじゃない。私はもう、チェスターから離れられないの)
 このまま幸せに溺れたい。
 サラの気持ちを知ってか知らずか、チェスターが幸せそうに微笑むから、サラもつられて笑った。
 二人の旅は、まだ始まったばかりだ。

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