どうか、幸せに
隣国へ向かうルカを見送った後、アルフォンスは森の中にある古い聖堂に足を踏み入れた。
建物を覆うように成長を続ける蔦(つた)のせいで聖堂内は薄暗かった。けれどその薄暗さのおかげで、現実から隔離された神聖な場所のように感じられ、非常に居心地が良い。
「……来ていたのか」
扉を開けてすぐ、礼拝台前の長椅子に人影があるのに気づき、アルフォンスは小さく笑った。
その人物は素早く立ち上がりながら振り返り、無表情でアルフォンスを見る。
「あなたはまずここに来ると思っていました。ご子息とのお別れはお済みですか?」
顔にも声にも感情を込めない彼――エドガルドに、アルフォンスは大げさに肩を竦めた。
「ああ。彼はすっかり捻くれて育ってしまったね。でも、幸せそうだった」
それが救いだ、と言葉にせずともエドガルドは分かっているようだった。彼はしっかりと頷き、うっすらと笑みらしきものを浮かべる。
「きっと、この後も幸せに暮らすでしょう。その年でまだフラフラとしているあなたに似なくて良かったですね」
王弟に対してこの物言いである。そこが気に入っているので、アルフォンスは彼を咎めない。
「本当に。素晴らしい伴侶がいてくれて安心だよ。彼は良い家庭を作るのだろうね」
笑いながら、アルフォンスはエドガルドの近くの椅子に腰を下ろす。
「ええ。痛みを知っている人間は他人に優しくできますから、彼は誰よりも家族を大事にすると思います」
「ああ」
悔しいが、ルカと接した時間はアルフォンスよりもエドガルドのほうが長い。きっと彼のほうがルカのことを知っているだろう。その彼が言うのだから、きっとそうなる。
「それはそうと、殿下。お一人で行動するのはお止めくださいとあれほど……」
「あ、そうそう。君を正式に近侍にすることにしたから」
エドガルドの言葉を遮り、アルフォンスはさらりと告げる。すると、めずらしくエドガルドがぎょっとした顔をした。
「……は? この仕事を終えたら自由にしてくださる約束だったはずですが?」
確かにそういう約束だった。けれど、計画を立てた当初とは事情が変わったのである。アルフォンスに予想外に父性が芽生えてしまったせいで、エドガルドには極秘でやってもらわなければならないことが増えた。
アルフォンスは静かに切り出した。
「王弟の近侍になれば、収入が倍以上になるよ」
「だから何ですか? 金には興味はありません」
眉をしかめるエドガルドを無視して、アルフォンスは憂い顔を作った。そして、ひじ掛けをぽんぽんと指で叩きながら口を開く。
「この先、男爵家がなくなったら、使用人たちは路頭に迷うんだろうねぇ。仕事がなくなった彼らは、その後大変な思いをするかもしれないねぇ。そこですかさず?王弟の近侍?という安定した職で高給取りの君が手を差し伸べたら、弱った彼女(・・)は君の手を取るかもしれないよねぇ」
エドガルドの渋い顔が、途端にきりっとした凛々しいものに変わる。
「よろしくお願いいたします」
もう少し悩むと思ったが、即答だった。
アルフォンスは心の中でにやりと笑う。彼が男爵家の侍女を気に入っていることは、すでに調査済みなのだ。
エドガルドの返事に満足したアルフォンスは、ピアノに視線を戻して目を細めた。
「……願いはもう彼に託した。だから、私はもう少し自由を満喫するよ」
何か言いたそうな顔のエドガルドを視界の端にとらえたが、瞼を下ろしてそれを見なかったことにする。
瞼の裏には、ピアノを弾くルカの姿が浮かび上がった。
――君なら、笑顔溢れる家庭を築くことができる。だから、これからの人生、どうか幸せに……。
どうか、幸せに。
何度祈っても足りない気がして、アルフォンスは頭の中でその言葉を繰り返した。
***
「ぶえっくしょいっ!」
女性のものとは思えないくしゃみをしたニーナは、馬車内にあった大判のストールを慌てて手に取った。
「ちょっと冷えてきましたね! ルカ様、これを巻いて温かくしてください! 風邪をひいたら大変ですから!」
ルカの首にストールをぐるぐると巻きつけながら言うと、彼は眉を寄せてこちらを見た。
「……暑い」
文句を言いながらも、ルカはストールを外すことはなく、座席の下に置いてある荷物に手を伸ばす。
馬車に乗った時から置いてあったので、きっとこの旅に必要な荷物なのだろう。
「君も何か羽織らないと……」
袋の中を探っていたルカは途中で言葉を切り、大きな布を二枚取り出した。
そのうちの一枚を無言でニーナに羽織らせてから、巻物のように丸めてあるもう一枚をくるくると広げ始めた。
「これ……!」
ニーナは目を瞠る。細長い布には、黒い糸で鍵盤が描いてあったのだ。
「夜中とか……ピアノを弾けない時用に自分で描いたんだ。エドガルドが俺の荷物の中からこっそり取り出しておいてくれたらしい」
ルカは嬉しそうに布の鍵盤をなぞった。簡単に糸を縫いつけてあるだけで刺繍とも言えないものだが、ルカが頑張って縫ったのかと思ったら微笑ましい。
そういえば、自分たちの荷物を積んだ馬はエドガルドが捕らえたのだった。いや、彼が用意した馬なのだから、馬が自分でエドガルドのもとへ?戻った?のかもしれない。
その馬の背にあった荷物は全部没収されたと思っていたが、エドガルドはこれをルカに返してくれたのだ。
「……ということは、私の全財産も……!」
期待を込めて、足下の荷物をあさってみたが、ニーナの全財産が入った袋は見当たらなかった。
「残念だったな。これから二人で働いて、また一から貯金していこう」
がっくりと肩を落とすニーナの背に手を当て、ルカは優しく慰めてくれる。
二人で、という言葉を聞いて、ニーナは一気に気分を浮上させた。
そうだ。これからは二人で生きていくのだ。二人で働いて、二人で生活して、二人で助け合って……。想像するだけでわくわくする。
「はい!」
元気に返事をすると、ルカは笑って頷いてくれた。
「よし。じゃあ、まずは隣国に着くまでにやることがある」
「何ですか?」
首を傾げるニーナの手を掴んだルカは、その手を布の鍵盤の上に置いた。
「君は、指が短いな」
何をするのかと戸惑っているニーナに、そんな失礼なことを言う。
「手が小さいと言ってください」
むっとして言い返せば、ルカは真面目な顔を作った。
「分かった。手が小さい君でも弾ける曲を教えるから、俺の指の動きを見て」
言い終わると同時に、ルカは滑らかに鍵盤の上に指を滑らせた。ゆっくりと動く指を目で追っていたのはほんの数秒だが、その動きが流麗でうっとりとしてしまった。
「分かったか?」
顔を覗き込まれて、ニーナははっと我に返る。慌てて何度も首を縦に振ると、「やってみろ」と布の鍵盤を渡された。
数秒の動きだったので、たどたどしくも何とか再現はできた。けれど、ルカの指の動きとは何かが違う。
「君の音は、踊っているようで……君らしい」
笑いを含んだ声で言われ、ニーナはきょとんとした。
「音なんて出ていませんよ?」
確認するように布の鍵盤を触ってみるが、やはり布はただの布だ。
「ああ。でも、俺には分かるんだ。早く本物のピアノを君と弾きたい」
ニーナの手にルカの手が重なる。彼の指が、鍵盤を押す順番を確認するように動いた。
「え!? 一緒にピアノを弾いてくださるのですか!?」
今まで、ニーナがルカのピアノに触ることは許されなかった。彼はピアノだけは、自分で掃除も整備もしていたのだ。
そんなルカが、一緒にピアノを弾きたいと言ってくれた。心を許してくれた証である気がして、ニーナは驚きとともに溢れるほどの喜びを感じた。
「一緒に弾こう」
大きく頷きながら肯定してくれたルカに、ニーナはがばっと勢い良く抱きついた。するとルカも力強く抱き締め返してくれる。
二人での生活に、『一緒にピアノを弾く』が加わった。
それは、なんて幸せなことなのだろう。
お互いに心を許し合って、尊重し合って、ともに歩んでいく。
――ああ。神様、お願いです。どうか、ルカ様とこの先ずっと一緒にいられますように。……どうか、ずっとずっと幸せでありますように。
ニーナは嬉しさで滲んだ涙をそのままにルカにしがみつく。離れないように、しっかりと腕に力を込めた。