夫婦の決めごと
クリスタは義妹であるアデリナの料理を食べて満足していた。
初めてこの店に来たのは、ゲープハルトと気持ちが通じ合って一月後のことだった。そのころゲープハルトはクリスタがひとりで屋敷から出ることを禁じていた。誘拐未遂という事件があったのだから、彼が警戒するのも当然かもしれない。だからそのときも、ゲープハルトと連れだっていた。
その後もゲープハルトと何度か一緒に来て、ようやく彼抜きで――と言っても侍女と護衛も一緒だが――この店にくることを許されたのが最近だ。
来店時間を指定されるけれど、素晴らしい料理を得られるクリスタに不満はない。
アデリナの料理を初めて食べたとき、あまりの美味しさに一生忘れられないほどの衝撃を受けた。
特に、この店の看板料理である黒シチューは焼きたてのパンにもとてもよく合うため何度もお代わりしたくなる。
気付けば食べ過ぎていて苦しくて動けなくなったことは一度や二度ではない。
ゲープハルトの妻として、アデリナの義姉として、そんな醜態は褒められることではないと充分解っている。だから最近は、腹八分目で止めるよう心掛けている。
この日もクリスタはお気に入りの黒シチューに、カリカリに揚がった鶏肉ののったサラダを食べ、ひと心地ついていた。
食堂は昼下がりの時間帯になると客足が落ち着くらしく、その時間から夜の部の開店までは、クリスタの訪問が許可されている。
クリスタは平民と過ごすことは領地で慣れているし、気取らない会話も出来ると思っている。だから当たり前の開店時間に来て食事をすることに躊躇いはないのだが、それを止めてこの時間を決めたのはゲープハルトと、食堂の店主であるアデリナだ。
店主が決めたのなら、客のクリスタは従うまでだが、困ったような笑顔で説明をされたときは首を傾げた。
アデリナが「クリスタ様は、ちょっと……どんなみすぼらしい服を着ても、とても平民には……なれませんから」と言ったからだ。
確かに、クリスタの明るい髪は平民には珍しい色だろうし、顔形も整っていると思う。
しかし、義妹のアデリナも周囲の注目を集めるほどの美しさだ。
きっと豪奢なドレスに身を包めば、貴族令嬢としてまったく違和感はないだろう。
だからクリスタだって同じような格好をしてもおかしくないはずなのに。クリスタのその言い分は、いまだ受け入れられないままだった。
それにアデリナは――
クリスタは、一児の母とは思えない体型を保つアデリナを見て、自分の姿に視線を戻す。
今日の格好は、平民の暮らす町に馴染むように、質素な装いにしてある。素材は上質なものだが、色も抑えてあるし、飾りひとつ付けていない。使用人と同じとはいかないが、豪商の娘のように見える服装のはずだ。
今のクリスタはお腹が満たされて膨らんでいるのでそこは普段とは違うところだろうが、アデリナと見比べたのはそこではない。
「クリスタ様?」
視線に気づいたのか不思議そうに首を傾げたアデリナに、クリスタは思わず口から言葉が漏れ出ていた。
「……やっぱり、食べているものが違うのかしら……毎食この食堂でいただいたら、大きくなるかしら?」
「はい?」
呟きに似たクリスタの言葉にアデリナはさらに困惑しているようだが、この義妹を見れば見るほど、自分との違いに気落ちしてしまう。
クリスタは自分の胸を押さえながら、心を決めて尋ねた。
「どうしたらそんな胸になるの?」
「――――っ?!」
一瞬で顔を真っ赤にした義妹は、一度硬直したものの、すぐに思い出したようにその豊満な胸を腕で隠した。
「な、あのっ、えっと、クリスタ様……っ?!」
まるで己のものを盗まれないように警戒しているような仕草だが、クリスタももいだりはしない。
「私も昔、聞いたことがあるのよ……男の人って、大きなほうが好きなんでしょう?」
「――っはい?!」
顔を赤くしたり青くしたりと忙しいアデリナだが、胸中では盛大に叫んでいた。
誰だ、貴族のお嬢様にそんなことを吹き込んだのは! と。
クリスタは領地で平民に混ざるのも厭わなかったため、男性たちの遠慮ない会話を耳にすることも多かった。当時は自分には関係のない話だと聞き流していたが、ゲープハルトという夫が出来た以上、今になって気になり始めていた。
ゲープハルトから不満を言われたことはないが、もしかしたらもっと大きな胸のほうが好きだと思っているのかもしれないと考えている。
空気を食むように口をぱくぱくさせて戸惑っているアデリナを前に、クリスタが胸が大きくなる方法を考えていると、大きな笑い声が響いた。
「あはははは! さすが義姉さんだね!」
他に客のいない食堂にいるのは五人だ。店主のアデリナと客のクリスタ。夜の部の仕込みをしている従業員たちは厨房に入っていて、店の隅に控えているクリスタの侍女がふたりと、残るひとりはアデリナの夫でゲープハルトの実弟でもあるディートハルトだ。
愛妻家のディートハルトはそれまで妻たちの会話に口を挟まずにいたようだが、どうにも我慢出来なくなったようだ。
ゲープハルトによく似たディートハルトは、クリスタより年下だと言われても違和感を覚えるほど成熟した外見をしているが、妻のアデリナの前では甘える姿を見せる。そのときだけ、年相応に見えるのだった。
そのディートハルトが、お腹を抱えて笑っている。
楽しそうでなによりだが、クリスタもはしたないことを聞かれてしまった、と頬を染めた。
アデリナは遠慮のない夫を窘めようと、赤い顔で怒っているようだが、アデリナのことが大好きなディートハルトにはそんな表情も甘く映るようだ。
「ゲープハルト兄さんは果報者だね。こんなにもいい奥さんを貰ったんだから」
「そ、そうかしら?」
「そうだよ。ゲープハルト兄さんはクリスタ義姉さんが今のままでも不満なんてないだろうけど……もっと喜ばせたいって思うなら、そうだな、寝台の上で下着を着けないで待っているといいんじゃないかな?」
きっととても喜ぶよ、と微笑むディートハルトに、アデリナは真っ赤な顔で慌てて夫の口を塞ごうとしているが、クリスタはしっかりと聞いた。
そして首を傾げた。
何故なら、夫婦が一緒にいる夜は、下着は着けないことが普通だと教えられていたからだ。
「下着は……着けたことがないわ?」
「……えっ?!」
アデリナたちの驚いた顔を見て、クリスタははっと気付いた。
そして食堂の隅に控えていた侍女を勢いよく振り返る。
彼女たちの顔も見物だった。
『しまった、ばれた』
心の中でそう言っているだろうことがはっきりわかる表情に、クリスタの顔が青ざめる。
「――――っ!!」
クリスタは声なき絶叫をした。
いったい、なんてはしたないことをしてきたのか。
もう恥ずかしくて、ゲープハルトに顔を見せられない――
クリスタは嘘を教えた侍女を詰り、このまま食堂の子になりたい、となかなか帰ろうとせず、周囲を困らせることになった。
ゲープハルトはその日、陽が落ちてから帰宅したが、クリスタの出迎えがなかったことに目を瞬かせた。
「――クリスタは?」
出迎えた家令のロイターに訊きながら、クリスタがいるであろう二階の部屋へ足を向けている。
彼女の出迎えがないことなど初めてで、ゲープハルトは何かあったのだろうかと考えを巡らせる。
確か今日は、昼間にディートハルトのところへ行っていたはず。
庶民向けの料理であるというのに、アデリナの食堂が気に入ってしまったクリスタのために、月に何度か通うことをゲープハルトは許している。もちろん警備は厳重にしてあるが、何かあったのだろうかと心配になる。
「ゲープハルト様、よろしいでしょうか?」
ゲープハルトは、ロイターの声に足を止めた。
「何だ?」
「実は、エリンとナリー――奥様付きの侍女たちが、申し開きをさせてほしいと申しております」
「――何?」
そこでゲープハルトは、ロイターの後ろに控えていた侍女に目を向けた。
このふたりは今日も一日クリスタと一緒だったはずだ。何があったのかは彼女らに聞く方が早いだろうと、ゲープハルトは話すように促した。
「申し訳ございません! 実は――」
「――奥様に、クリスタ様に、バレてしまいました……」
「……何をだ?」
侍女たちはしょんぼりと肩を落としているが、ゲープハルトは隠し事などない潔白な自分を知っているから眉根を寄せる。
「それが……」
そこでゲープハルトは初めて、夜にクリスタが下着を着けていない理由を知った。
まさか侍女がいたずら心でクリスタにそんなことを教えて、クリスタも信じてしまうとは、ゲープハルトが予想出来るはずもなかった。
「――そうか、あれは、お前たちの仕業か……」
「――申し訳ございませんっ」
ふたり揃って深く頭を下げる侍女たちを見て、ゲープハルトはしかし、怒ってはいなかった。むしろ、笑ってしまいそうになり、口元を押さえたほどだ。
結婚してからこれまで、どうして下着を着けていないのか疑問だったのは確かだが、それを口にしてクリスタが下着を着けてしまうのが嫌だったので、ゲープハルトも放置していた。
しかし今日、クリスタはそれが普通でなかったと知り、今更ながらに恥ずかしがって部屋に籠ってしまっているのだという。
「――ふ、まったく」
呆れたような声を出したつもりだったが、笑いが隠しきれていない。
頭を下げ続ける侍女に、ゲープハルトは微笑んだまま告げた。
「気にすることはない。なかなかいい仕事だったぞ。これからも頼む」
「で、ですが……」
事実を知った今、クリスタが下着を身に着けないでいることはないだろう、と侍女は困惑しているが、ゲープハルトは笑みを深くした。
「お前たちの気遣いを無駄にはしない。俺に任せて今日は下がりなさい」
「…………はい」
ゲープハルトの顔を見て、侍女たちは一瞬躊躇う様子を見せたものの、諦めた様子で頷いた。
楽しそうな足取りで寝室へ向かうゲープハルトを、侍女たちは今日もクリスタ様は大変ね、と内心思いながら見送った。しかし自分たちのせいでもあるから、明日の朝は心を込めてお世話をしよう、と決めたのだった。
翌朝、遅い時間になって起き出したクリスタに、侍女たちはもう一度謝ったが、主人はまったく怒っていなかった。
怪訝に思い確かめれば、ゲープハルトが教えてくれたのだという。
「……あのね、こういうことは、夫婦ごとに決められているそうなの。その、うちは……私たちは、その……ふ、服を、着ないで、するのが普通なのだけど」
そこまで言ったクリスタは恥じらい、頬を染めていたが、その先は内緒話をするように声を潜め、さらに顔を赤くして言った。
「……その、ディートハルト様とアデリナのふたりは、ふ、服を着たまま……するのが、お好きなのですって」
「――――」
「…………」
いったい何を吹き込んだ。
侍女たちは一瞬目を据わらせたが、クリスタは打ち明けたことでどこかほっとしたのか、恥ずかしそうではあったが嬉しそうに笑っていた。
「だから私たちは、これまでと同じでいいそうなの……夫婦って、いろいろあるのね。まさかアデリナたちにそんな趣味があったなんて……本当、驚きよね」
だから何を吹き込んだ!?
侍女たちはこれまで自分たちの主人のことを、愛妻家過ぎるのが少々困りものだけれど、評判通り清廉潔白で真面目な素晴らしい人だと思ってきただけに、自分たちの中で何かが崩れていくのを止められなかった。
それにクリスタにしても、自ら作物の品種改良ができるほど頭の良い人であるのに、素直にゲープハルトの言葉を信じてしまうなんて、純粋すぎて心配になった。
けれど侍女たちはそんな気持ちは顔には出さず、これまでと同じように侍女としての仕事に徹した。
どんな性格だろうと、クリスタとゲープハルトは主人と仰ぐに相応しいふたりなのだ。
それに見ていて飽きないしね。
侍女はふたり、内心を隠してにこりと笑い合う。
使用人たちは、この夫婦の他とは違う決めごとがこの先どれだけ増えていこうとも、職場で楽しく働くために、決して口出ししないことを誓った。