もう一つの秘密
柔らかな身体と、甘い匂い。外装ばかりが美しく、弱さを武器にして誰かに寄生する計算高い生き物―――『女性』はそういう生き物だと、ずっと思っていた。
軽蔑と呼ぶには冷め切った感情を持て余し、ロイは眼前の令嬢たちを見下ろしていた。胸の内に巣くう感慨を、偽りなく表現するならば『面倒臭い』だ。
自信があるらしい豊満な胸をあざとく押しつけ、隙なく施された化粧で本心を隠してこちらを窺う媚びた視線が煩わしい。きっとか弱さを装った顔の裏側では、相手の男が自分にどれだけの贅沢をさせてくれるのかを、したたかに計算していることだろう。そう思えば、愛らしいと言えなくもない彼女の顔立ちが、急に厭わしいものに感じられるのだ。
だが同時に、他人を見透かす気分になっている自分自身にも嫌悪感をもよおす。所詮は思いこみで他者を貶めているだけなのだから、相当に下劣と言わざるを得ない。
ロイは己の中にある黒々とした澱にうんざりしつつ、上面の笑顔で女性陣に応えていた。周りを取り囲むのは、子爵令嬢に伯爵家の若妻、王族の血を引く未亡人まで様々だ。けれど共通しているのは、誰もが頬を染めつつ互いを牽制しあっているということ。
ウォーレンスで成功を収め、ロイはようやく過去と決別し生まれた国へ戻った。仕事は充実しており、満足している。今や爵位は持たずともないがしろにされる存在ではないし、こうして貴族たちの集まりにも顔を出し、歓迎される立場になっている。昔、劣等感や無力さで押し潰されそうになった自分は、もうどこにもいない。
ロイは彼女たちが望む回答を、彼女たちの欲する仕草と表情でにこやかに口にした。つまりは、極上の笑顔でもって、紳士然として優雅に会話を交わしていた。
本当は、今すぐこのくだらない夜会から逃げ出してしまいたかったのに。
傍らでは、友人のセドリックがそつなく対応している。彼は多少プライドが高く負けず嫌いな面があるけれど、根は悪い男ではない。最近何かとロイに敵対心を燃やしていることを除けば、付き合いやすい男だ。
そんな彼の前に、一際美しい女性が進み出てきた。
蜂蜜色の艶やかな髪に、サファイヤのような澄んだ青の瞳。知性と美を兼ね備えた眼差しが、ほんの一瞬挑戦的に煌めく。
「初めまして。シェリル・クリフォードです」
そう名乗った彼女に、ロイは特別興味を抱いたわけではない。以前、セドリックが語った『弟のような幼馴染』とは正反対の、いやに華やかで貴族らしく、毅然とした女だと思っただけだ。
―――だが、この女性も一皮むけば他と同じ。平穏な生活を得るために自分を高く売ることだけしか考えていない。美しいのは見せかけだけに決まっている。
ウォーレンスに渡った当時は、マグノリアのことを思い出させる『幼馴染』という言葉さえ嫌でセドリックの話は適当に聞き流していたから、良い印象など持ち合わせていなかった。だから、自分の中に生まれた微かな羨望など見て見ない振りをした。女性を普通に慈しむことのできるセドリック。……羨ましいなどとは、絶対に認めたくなかった。
完璧なレディ、シェリル・クリフォード。大輪の花に似た、芯の強さを瞳に宿す聡明な女性。『秘密』を抱えながらも、震える自分の脚でしっかり立つ健気な可愛い人。
それが、自分の凝り固まった考えを、打ち砕いてくれる存在になるとは想像すらしていなかった―――
「疲れましたか?」
向かいに座るシェリルが、そう言って視線を絡めたまま柔らかく微笑んだ。外は夕暮れ。走る馬車の中にも、赤く熟れた夕日が差しこんでくる。
「いや、貴女こそお疲れでしょう。こういう時は、女性の方が準備に時間がかかるものですからね」
心地よい馬車の揺れで、暫しロイの意識は途切れていたらしい。数度の瞬きの後、背筋を正した。
今日は、友人であるセドリックの結婚式だった。相手は侯爵家の末娘。文句のない良縁だ。祝福に駆けつけた者たちも、名だたる貴族と名士ばかりだった。
彼の深窓の令嬢である花嫁はとても可憐で、気をつけなければ折れてしまいそうなほどに儚い。噂通りの庇護欲をそそられる可愛らしさは、セドリックにはとてもよく似合っていた。まさに、最初から誂えたかのような二人。ロイは幸せそうな友人を思い出し、口角を上げた。
「素晴らしい結婚式でしたね」
「ええ。あんなに招待客が多いとは思いませんでしたが。まさか皇太子様までお忍びでいらっしゃるなんて。あのお方がウォーレンスに留学していらした頃から三人にお付き合いがあったとは知りませんでした」
「よく、三人で飲みにいきましたよ。しかし、派手好きなセドリックらしい」
国外からも大勢の来客があり、式は厳かに執り行われた。その後に設けられた宴も大いに盛り上がり、帰路についたのはつい先刻。
見送りの際、誇らしげに、けれど新妻を気遣いつつ手を振るセドリックは、早くも頼りがいのある夫の顔をしていた。
「ふふ……何だか私も幸せな気分だわ」
「私もです。だからなのか、先ほど昔のことを思い出していました。―――シェリルと、初めて出会った日のことを」
「え? どうせ、最初の印象と違って、本当はじゃじゃ馬だと言うおつもりなのでしょう?」
ロイは拗ねた振りをする妻へ腕を伸ばし、彼女の滑らかな頬に触れた。つるりとした白い肌は、いつでも極上の弾力と触り心地がする。束の間その感触を楽しんでいると、シェリルは擽ったそうに首を竦めた。
「ロイ様……」
「じゃじゃ馬だなんて、とんでもない。いかに自分が愚かで、狭い世界にしか生きていない、見る眼のない男だったかを反省していたのです」
彼女を、どこにでもいる少しばかり綺麗なだけの女としか見られなかったかつての自分。思いこみに閉じこもり、少ない経験を引き合いにして斜に構えていたあの頃。思い出すだけで、恥ずかしくて殴り倒したくなってくる。それでいて、本心では『愛したい』という欲求を捨てきれなかったのだから。
「シェリルのおかげで、自分がどれだけ愛し愛されることに飢えていたのかを、思い出しました」
今では片時も彼女と離れたくない。できることなら、屋敷の一室に閉じ込めて、他の誰の眼にも触れないようにしてしまいたいぐらいだ。そうしないのは、自由なシェリルが好きだから。自分の頭で考え、道を切り開いてゆく彼女を尊敬しているからだ。
けれども、ロイの根底にはシェリルを監禁し拘束してしまいたいほどの激情が確かにある。日がな一日、彼女を腕に抱き、その瞳に映る権利を独占できたら、どれほど素晴らしいだろう。想像するだけで沸騰するほど頭も身体も熱くなる。
本来、ロイの執着心は強いのだ。長年押し殺し続けたが故に歪んだ自覚もある。もしも彼女に知られたら―――と思うとひやりと冷たいものが背筋を這った。
隠すことには慣れている。しかし、シェリルはいつだって簡単に仮面の内側を見透かしてくるから要注意だ。
知られたくない。彼女の前では余裕ある、寛容な男でいたい。―――今はまだ。
「貴女だけです。私を解放してくれたのは」
「それは私の台詞です」
だが、これくらいの甘えは許されるだろう。
ロイは愛おしい妻を引き寄せ、唇を啄んだ。柔らかく瑞々しい果実を食むように甘噛みし、舌先で形を辿れば、シェリルは睫毛を震わせた。もう結婚して数年経つのに、彼女は未だに初々しい反応を示す。物慣れない様子が、堪らなくこちらの嗜虐心をそそるなどとは考えもしないのだろう。そんなところも可愛らしい。
赤く色づいた耳殻を指でなぞり、そのまま首筋も擽れば、シェリルは微かに甘い声を漏らした。
「ん、……ふ、ぅ」
「舌を伸ばして」
従順に、そしてどこか恨めしそうに唇を開く彼女の後頭部を固定して、深く口づける。粘膜を擦り合わせるキスに、シェリルが身じろぎするのも構わず、ロイは尚更強い力で抱き締めた。
「……ぁ、んッ」
馬車の狭い空間の中、濡れた水音が淫靡に響いた。茜色に染まる箱の中、二人の影が重なってゆく。振動さえも利用して、彼女の纏うドレスの裾をたくし上げれば、しなやかな脚が曝け出された。
「ちょ……ロイ様、こんな所で……」
「帰るまで、待ちきれません。家ではビアンカが待っていますから」
おそらくお留守番をさせられて機嫌を損ねているだろう娘のこと思い浮かべ、ロイは宝物である妻を自身の膝の上へと移動させた。独身時代と変わらぬ体形を維持する彼女は、今でも羽根のように軽い。
「せっかく久し振りに二人きりですから……遠回りして帰りましょうか? 以前行った宿に寄っていきませんか?」
「駄目です。ビアンカが待っています」
生真面目なシェリルは毅然と答えたが、瞳の奥は潤み、掠れた声音には色香が滲んでいた。ロイは彼女の鼻先に唇を落とし、つれない妻に誘惑の言葉を吐く。
「では夜は、私を構ってください。今日は大勢の男たちに話しかけられていましたね。貴女は、私のものなのに」
セドリックの結婚を祝う気持ちは勿論あるが、シェリルとすごせる貴重な休日を潰されたのも事実なので、二人の時間はきっちりと取り返さねばならない。まして、沢山の男どもが彼女の麗しい姿を眼にし、声を聞いたのかと思うと嫉妬に駆られてしまいそうだった。
焦げる胸を微笑でごまかし、ロイは殊更優しく取引を持ち掛けた。
「明日は、家族でピクニックに出かけましょうか。休暇は全て、貴女たちとすごすために使う予定です。でも今夜は……シェリルが私を癒やしてくれませんか?」
「で、でしたら、ゆっくりお休みなればよろしいのに……この連休を作るために、随分無理をなさったのでしょう?」
準男爵という爵位を得、仕事が一層忙しくなった自分の身体をシェリルが案じてくれるのは嬉しいが、それもこれも彼女が傍にいてくれるから頑張れることなのだ。気力を補充するつもりで、ロイはシェリルの首筋に顔を埋めた。
「元気を分けてください。ビアンカのためにも。ね? 今夜はどうか私だけを労わって」
休む気など微塵もない淫らな誘いを正確に汲み取った彼女は、ますます頬を赤らめた。視線をさまよわせつつも、拒むことはしない。罠にかかった獲物をいたぶる気分で、ロイはシェリルの晒された首筋に噛みついた。
「きゃ……」
出会ったころと同じ、ほっそりとした彼女だが、唯一変わった点がある。それは、ふっくらとした二つの膨らみだ。胸部の布地を押し上げて揺れる乳房は、詰め物のおかげではない。努力の成果で実った天然ものだ。別段、人並外れて大きいわけではないが、今では無粋なパッドなど必要としない程度になっている。
様々なドレスに挑戦できるようになったシェリルは喜んでおり、当然、笑み崩れる彼女を見られるロイも嬉しい。―――が、以前にも増して異性の注目を浴びるようになったことは腹立たしくて堪らなかった。
「汚い視線に晒された貴女を、消毒しなければ……」
「はい?」
「いいえ、独り言です」
不思議そうにこちらを見るシェリルに何度も口づけ、服の上から柔らかな双丘を堪能した。
これは自分が育てたもの。触れることも見ることも、ロイだけの特権だ。子供であるビアンカにだって、一時的に貸しているにすぎない。
溢れ出す独占欲を瞬き一つで封じこめ、物わかりのいい紳士の仮面を被る。愛していると囁いて、腕の檻を更に狭めた。許されるなら、このまま誰もいない場所で永遠に睦み合っていたい。お互いだけを見つめ、邪魔されずに―――
解き放たれた欲求は、こんなにも強欲で歪なものだ。だが、シェリルが知る必要はない。これから先も、ひたすらに幸せであって欲しい。後ろ暗いロイの劣情など、気がつかなくていいのだ。
「ロイ様、私幸せです」
「私もです」
うっとりと微笑む彼女は、澄ました表情ではなく、年齢よりも幼く見えて愛らしい。自分だけが眼にすることを許された気を許した様子に、胸が痛くなるほどの幸福を覚えた。信頼しているからこその、近い距離。シェリルの一番柔らかい最深部に迎え入れられた喜び。
だからどうか一生気づかないで欲しい。
自力で羽ばたける力強さを持つ彼女を敬愛しながらも、その羽をもぎ取ってしまいたいと夢想する、穢れた男の心には。