始まりの地へ

「列車は間もなく、終点ルーベルング駅に到着します」
　巡回してきた車掌が告げた懐かしい故郷の名前に、グレイスはそっと目を開く。
「もうすぐですよ」
　耳元で囁かれた声に顔を横に向けると、車窓には小さな頃に見たのと同じ、のどかな田園風景が広がっていた。
「ごめんなさい、私すっかり寝入ってしまっていたみたい」
「構いませんよ。私にもたれながら眠るあなたは、可愛らしかったですし」
　甘い言葉に頬を染めながら、車窓とは反対側へと視線を移すと、そこには夫であるカーティスの美しい笑顔があった。
　彼と結婚し、様々な出来事を経て想いは通じ合ったけれど、今もグレイスはカーティスの言葉や笑顔に照れくささを感じてしまう。
　カーティスと再会するまでは男性と親しくする機会もほとんど無かったし、唯一の友達は幼い頃から大切に育ててきたサボテンだけという残念な青春時代を送ってきたせいだ。
　そんなグレイスのもとに再び現れたカーティスはあまりに美しい容姿で、なおかつ目を奪われるような甘い笑顔ばかりを向けるものだから、つい彼女は顔を赤くしてしまう。
　彼がもたらす胸の高鳴りは決して不快なものでは無いけれど、いつか彼の笑顔をなんでもないような顔で受け流せる日が来るのだろうかと、グレイスはよく思う。
「あなたが寝てくれていたおかげで、その美しい髪に七回もキスができましたしね」
「な、七回もしたの？」
「嘘です、本当は十回です」
　そして……と、カーティスは突然グレイスに顔を寄せ、彼女の唇を奪う。
「起きたら、ここにもキスしようと思っていたんです」
　コンパートメントの中に二人きりなのをよいことに、カーティスのキスは外でする戯れよりずっと深かった。
　結婚してしばらくたつけれど、グレイスはカーティスの不意打ちのキスにも、ついドキドキしてしまう。
　普段から甘い言葉や笑顔を向けてくる回数が多いし、誰よりもそれを受け止めているのはグレイスなのに、まだまだ彼の行為には慣れそうもない。
「もうすぐつくのに、腰が砕けてしまいそう」
「私が抱えておりますよ」
「十二年ぶりに故郷に帰ってきたのに、それはちょっと情けないわ」
「なら、もう一度だけ」
　今度はついばむ程度に抑えられたキスを受けていると、電車は懐かしい故郷の駅へ緩やかに停車した。


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『一度、あなたのご両親のお墓参りに行かせてもらえませんか？』
　そんな提案をされたのは、カーティスの会社が携わる、大きな事業が一段落した時のことだった。
『客船の運航も順調ですし、今ならロンデリオンを離れることも可能なので』
　そう言って微笑むカーティスに、グレイスはすぐさま頷いた。
　ロンデリオンにきて以来、日々の忙しさに呑まれて未だ故郷には帰れていない。
　墓参りをしたい気持ちはあったけれど、故郷にはあまり良い思い出が無く、祖母のマーガレットも墓参りの提案にいい顔をしなかったので今まで足を運べていなかったのだ。
　そして今回の帰郷を決めたときも、祖母は「言っておいで」と見送るだけだった。
　グレイスに大きな秘密を打ち明けて以来、マーガレットはだいぶ穏やかになったけれど、それでもやはり故郷の地には複雑な思いがあるのだろう。
　それを察したグレイスは「お婆さまの分もお花をお供えしてくるわ」と無理に誘わず、カーティスと彼からもらったサボテンの『リトルエリック』と三人だけで故郷へと向かう汽車に乗り込んだのだ。
「それにしても、ここは昔と変わりませんね」
　汽車から降りると、カーティスがしみじみとそうこぼす。
　懐かしいホームは相も変わらずひと気が無く、変わったことと言えば、元々古びていた駅舎やベンチにさらに年季が入ったことくらいだ。
「あなたの乗る列車を追いかけたあの日が何だか懐かしいです」
「もう、あれからずいぶんと時間がたったのね」
「この駅とは違い、あなたも私も色々と変わりましたね」
「私っていうより、主にカーティスがね」
　容姿も性格も、カーティスは昔とは別人のように変わった。
　病弱で内気だった少年は、美しくて社交的な紳士となり、今は大企業を経営する社長でもある。
　それに比べると自分は昔から何も変わらないと思いながら、手にしていたリトルエリックを抱きしめていると、グレイスの考えを読んだように、カーティスがこちらをじっと見つめてくる。
「あなただってずいぶん変わりました。前は私よりサボテンばかり見つめていたのに、今はこうして美しい瞳を、私に一番に向けてくれる」
　甘い声音で言われると、照れくさくてカーティスからリトルエリックの方へと視線を移してしまう。
　けれど前のように、サボテンに話しかけなくなっただけ大進歩かもしれない。
　美しく聡明なカーティスの輝きが眩しすぎて、再会した頃は、唯一の親友であるサボテンにすがることで何度となく心の平穏を保っていたけれど、近頃は心の中だけで自分の気持ちを落ち着かせる事が出来るようになっていた。
　今回は両親に紹介するためにリトルエリックを持ってきたけれど、サボテンを抱いていなくても普通に暮らせるようになったことは、グレイス自身も大きな成長だと思っている。
「でもやはり、そうやってサボテンを抱きしめるあなたは本当に愛らしい」
　とはいえカーティスは、グレイスが落ち着く間もなく甘い言葉を重ねてくるから、やっぱりサボテンが側にある方が落ち着く場面は多い。
「もしかして、わざと照れさせるために言っているの？」
「照れた顔が見たいと思っているのは否定しませんが、私の言葉は全て事実ですよ。照れたグレイスの顔が、私は大好きなんです」
　にっこり微笑んで、カーティスはグレイスの腕を優しく取る。
　そのまま腕を引かれながら歩いていると、記憶の中よりかなり老け込んだ駅員が二人に小さく会釈する。
　故郷を出て以来、初めて会う領民の姿に少し緊張したけれど、側にいるカーティスが優しく肩を抱き寄せてくれたお陰で、足が止まることは無かった。
　マーガレットほどでは無いにしても、グレイスも故郷には良い思い出があまりない。だからここに来ることには少しだけ躊躇いもあったけれど、いざ来てみるとそれほどの戸惑いは無い。
（カーティスが側にいてくれるおかげかしら。何だか、心が楽な気がする）
　無駄にドキドキさせられるのは困るけれど、おかげで余計なことまで考えずにすむし、寂れて見えていた景色が、少しずつ色づいていくようにも思える。
　だからグレイスはカーティスを見上げ、胸の中でこっそりと彼に感謝した。


　そして二人は馬車へと乗り換え、グレイスの両親の墓がある墓地へと向かった。
　流れる景色もまた過去とあまり代わり映えしないが、鉱山都市として有名になっているだけあり、以前よりは活気が増した気がする。
　カーティスの話では、街と鉱山の権利が別の貴族に移って以来、鉱山の運営方法にも手が入り、以前のような事故や問題は劇的に減っているらしい。
　そして街を治める貴族はカーティスの知人でもあるようで、彼やグレイスがかつて住んでいた屋敷なども、今は全てその知人が管理しているようだ。
「そろそろですね」
　街の中心地を過ぎ、かつてグレイスの屋敷があった丘陵地帯の手前で馬車はゆっくりと停車する。
　カーティスに手を取られながら馬車を降りれば、そこには広い墓地が広がっていた。
　記憶にあるより少し広くなったそこをカーティスとともに歩き、グレイスは墓地の一番奥にある両親の墓の前へと進む。
　元々は屋敷の置くに一族の墓があったのだけれど、屋敷を手放さなければならなくなってしまったため、泣く泣くこちらの墓地に埋葬したのだ。
　そして金も既に底をつきかけていたため、立派な墓石を選んであげられなかったことが今でも心残りだったのだけれど……。
（あれ……）
　両親の墓は、かつてとその装いを変えていた。
　墓石は大理石作りの立派な物に変えられ、汚れ一つついていない。
　その上、あたりにはいくつもの花が供えられており、誰かがここを定期的に訪れている様子だった。
「ここ、前とずいぶん違うわ」
「街に住む人たちが時々足を運んでいるそうですよ。私の両親の事が明るみに出て以来、あなたのご家族たちも被害者だとわかったのでしょう」
「だからこんなにお花が……」
　かつてはいわれの無い理由で糾弾される側だったけれど、どうやらその誤解は少しずつ解けていたらしい。
「この墓石も、かつての償いにと領民達がお金を出し合ってくれたようで」
「それなら、お礼を言わないと」
　そう呟きながら花を供え、グレイスは両親の名前を指でそっとなぞる。
「でも、私も親不孝者よね……。街の人たちは足を運んでくれていたのに、娘の私が一度も来ないなんて……」
「あれだけの目に遭って、簡単に故郷に帰れるわけがない。それにあなたが帰って来られないとわかっているからこそ、あなたを追い出してしまった人々はこうして償っているのでしょう」
　そう言って、カーティスはグレイスの側に膝をつき、肩をそっと抱き寄せる。
「あなたが気に病むようなことは何も無い。ただ胸を張って、帰ってきたとご両親に報告すればいいんですよ」
　力強い言葉とカーティスの微笑みを見つめていると、落ち込んでいた気持ちがゆっくりと浮上する。
　たしかに、グレイスが王都からここまできたのは、両親に暗い顔を見せるためではない。
（お父様とお母様を心配させないように、笑顔で今までのことをお話ししようって決めたのに、私ったらダメね）
「ありがとう。やっぱり、カーティスと一緒にきてよかった」
　笑顔を取り戻しながらリトルエリックを墓石の横に置き、グレイスは今まで起きたことを心の中で反芻する。
　ロンデリオンでの暮らしや、カーティスとの再会、そして自分の身に起きた、驚くような出来事など、伝えたいことは多すぎて困るほどだ。
（でもやっぱり、一番はこれよね）
　グレイスは、寄り添ってくれるカーティスの手を取り、そろいの指輪を両親に見せる。
「お父様お母様、私カーティスと結婚したのよ」
　一番の報告を言葉にしたとたん、カーティスの腕がグレイスを強く引き寄せる。
　そしてそのまま頬に口づけを落とされ、グレイスは思わず頬を赤く染めた。
「おっお父様とお母様の前なのに」
「お二人の前だからこそですよ。これからは私が責任を持って大事にするという、意思表示です」
　本当は自分から色々と話すつもりだったのに、カーティスはいつもの饒舌さでグレイスと結婚できた喜びや、彼女の美しさを勝手に語り出す。
「もうそれくらいにして、何だか恥ずかしいわ」
「でもまだ全然語り尽くしていませんよ」
「あっあとは自分で言うから！」
　グレイスの言葉にようやくカーティスはだまる。
　だがまたいつしゃべり出すかわからないので、グレイスは慌てて言葉を紡ぐ。
「カーティスは前とすごく変わったのよ、それに、私は振り回されてばかりいるの」
　そしてグレイスは、彼との不思議な再会を両親に語り出す。
　その傍らにはカーティスが時折口を挟みながら寄り添い、今までの出来事と結婚の報告は日が暮れるまで続いたのだった――。

【了】