永遠の約束
小間使いの目を盗み、部屋を抜け出したアントニエッタは小走りに中庭を突き切る。
一番奥にある天使のブロンズ像までたどり着くと、ようやく足を止めて、乱れる息を整えた。
「見つからなかったわ」
辺りを見回して誰もいないことを確かめると、ほっとした気持ちが言葉に出た。
もうすぐバルベリーニ家に輿入れをする彼女に自由な時間は少ない。
花嫁衣装の準備や、装飾品の拵えに立ち合わなければならず、残り少ないファルネーゼの館での日々を感慨深く過ごすことは叶わない。父は娘の自分を愛しているわけではないが、ファルネーゼ家の威信にかけて、アントニエッタに豪華な花嫁道具を持たせるつもりなのだ。
「そんなものは要らないのに……」
いつだって本当にほしいものは手に入らない。
哀しい諦めを胸に秘めてアントニエッタはブロンズ像の裏に回り込み、芝生に膝をついた。
そこだけ丸く盛り上がった地面に、濃い黄色のマリーゴールドが咲いている。
「あなたの目の色に似ているわ。ボーノ。とっても綺麗よ」
襟元から銀のクロスを引き出して、アントニエッタは胸の前で手を組んだ。
目を閉じると、彼女は天に召された愛猫ボーノのために祈り始めた。
* * * *
腕の中で息を引き取ったボーノを抱き締めてアントニエッタは泣き続けた。
自分が助けて取り戻した命なのに、何故消えてしまったのか。
まるで裏切られたような気持ちに襲われて、彼女は身を捩って呻いた。
「どうして側にいてくれないの……こんなに愛したのに……どうしていなくなるの?」
ひどく哀しむアントニエッタに、父と母は軽蔑を隠さない。
「気味の悪い子……。たかが猫にこんなに感情を動かすなんて貴族の血とは思えないわ。まるで平民みたいね」
母の声は冷たく、嫌悪に満ちていた。
「おまえに似て多情なんだろう。銜え込んだのが男か猫かの違いだ。おまえの血を引いたこの娘が、猫ではなく男を引きずり込むのも遠い将来ではないだろうな」
まだ幼い彼女にその意味は理解できなくても、とうてい娘に向けるものではないことはわかった。
もし、父と母が彼女を抱き締めてくれたなら、この辛さも少しは薄れたと思う。
これほどの哀しみを嘲われて、アントニエッタの嘆きはただ深くなるばかりだ。
世界中で自分をわかってくれる人は一人もいない。
孤独をいやしてくれたボーノを失った今、自分にはもう誰もいない。
子どもとは思えない絶望に襲われて泣くアントニエッタを、クリストファーロの温かい腕が引き寄せた。
「泣きたいだけ泣いていいんだよ、アントニエッタ。哀しいのは当たり前なんだ。君はただとっても優しいだけなんだよ……。だから、安心して哀しんで大丈夫だよ」
泥のようにまつわりつく闇の中に、そのとき細い光が見えた。彼だけが自分をこの怖ろしい暗闇から連れ出してくれる。
「大好きよ、お兄さま……お兄さまだけがアントニエッタをわかってくれるのね……いい子じゃないのに……」
兄の胸に縋ってアントニエッタは言った。
彼女の哀しみを潰すみたいに、力のこもった彼の腕が心強い。
「お兄さま……どこへも行かないで。いい子でいるから……我が儘を言わないようにするから」
言葉はなかったが、いっそう強く抱き締めてくれた腕が答えだと思った。
母は呆れたように部屋を出て行き、父は侮蔑の視線を注ぐ。
「案外よく似た兄妹だな」
「父上――」
アントニエッタを抱き締めたままクリストファーロが一瞬声を尖らせたが、父は馬鹿にしたように鼻を鳴らして、召し使いを呼んだ。
「その汚らしい猫を館の外に捨てておけ。野良犬が食い荒らしてくれるだろう」
「おとうさま! やめて! ボーノを連れて行かないで!」
猫の入ったバスケットを持ちあげた召し使いにアントニエッタは手を伸ばした。
「アントニエッタ……大丈夫、僕に任せて」
ぎゅっとアントニエッタを抱き締めたクリストファーロが耳元で囁いた。
その夜、眠れないままボーノの行方に胸を痛めていると、窓を叩く音がした。
「アントニエッタ……開けて」
クリストファーロの声に、アントニエッタは窓に駆け寄ってカーテンを開け、鍵を外す。
「手を伸ばして、こっちへおいで」
言われたとおりに手を伸ばすと、彼がアントニエッタを抱え上げて外に出してくれる。
「お兄さま、どうしたの?」
「静かにして。黙ってついておいで」
片手にランプを持った彼に手を引かれて、彼女は中庭を突き切った。
「ここだよ」
一番奥にある天使のブロンズ像の裏にまわると、クリストファーロはランプを掲げた。
「ボーノ!」
深く掘られた穴の中に、白い絹の上に寝かされた愛猫がいた。
「ここがボーノのお墓だ。君と僕しか知らない。ここならいつでも来られるだろう?」
「お兄さま……」
感謝を込めて見あげたアントニエッタの額にクリストファーロはキスをした。
* * * *
何度ここに来たことだろう。寂しいときも、楽しいときも、アントニエッタはここに来てボーノに話しかけた。
次にここに来られるのはいつだろう。
目を閉じていろいろなことを考えていた彼女の肩に、「アントニエッタ」という声と一緒にクリストファーロの温かい手が置かれた。
「……私がいなくなったらお兄さまがボーノのために祈ってくれる?」
ふり仰いだ彼女にクリストファーロが頷く。
「約束するよ。アントニエッタ」
アントニエッタは彼の手に掴まって立ちあがり、視線を合わせた。
「ねえ、お兄さま……もし、私が死んだら、ここに埋めてほしいわ。そうしたら毎日お兄さまに来てもらえるもの」
何の希望も展望もない結婚に追い詰められたアントニエッタは、そう口にする。
もしかしたら、もう生きてこの館には戻れないかもしれないと、そんな予感さえした。
「君にもしものことがあっても、冷たい土の中になんか入れないよ。そのときは、僕がずっと抱き締めて側にいる。永遠に君と共に過ごそう」
どこか狂気を感じさせるその言葉には、アントニエッタにだけわかる限りない愛が溢れていた。
「……ありがとう、お兄さま――愛しているわ。お兄さまだけを」
クリストファーロを思えば、何も怖くない。
アントニエッタはその胸にもたれて、この先のことを忘れようとした。
了