ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

いつかきっと

 ──雲一つない青空の下、その日はアリシアとコリスのもとに客人が訪れることになっていた。
 その人が来ることを、コリスは一週間ほど前の手紙で知った。
 それから一週間はソワソワしながら過ごし、今日は朝から何度も屋敷の前の道を行ったり来たりしてアリシアに呆れられた。
 けれど、どうしてもじっとしていられない。
 お昼を少し回った頃に再び外に出てみると、屋敷に近づく一台の馬車を目にして、コリスは弾けんばかりの笑顔になって両手を振った。
「ポール兄さま!」
「コリス!」
 馬車は玄関先にいたコリスの前で停まり、すぐさま兄のポールが姿を見せた。
 実に二年ぶりの再会だ。満面の笑みを浮かべた兄の胸に、コリスは迷わず飛び込んだ。
「お…っとと。なんだ、相変わらずだな。少しは淑女らしくなったかと期待していたのに」
「今日だけよ。久しぶりに兄さまと会えたんだもの。疲れたでしょう? お腹は空いてない? ここまで何日かかった? 兄さま、早く中に入って休んで」
「あぁ、わかったから一つずつ聞いてくれ。……うん、まぁでも、元気そうで何よりだ」
 苦笑しながらもコリスをしっかり抱きとめた兄はホッとしたように頷く。
 その優しい眼差しの奥にはさまざまな想いがあるのだろう。
 ともあれ、まずは一休みしてもらおうとコリスは早速兄を屋敷に招き入れたのだった。


「──兄さま、ひとまずここで休んでいてね。今、何か飲み物を用意するから」
「ありがとう。……ところで、アリシアさまの姿がないようだが」
 兄を応接間に案内すると、コリスはすぐに廊下に引き返そうとした。
 だが、少し疲れた様子でソファに座った兄は不思議そうに呟く。
 さほど大きくない屋敷なのに、応接間に案内されるまで人の気配がしなかったことを疑問に思ったようだった。
「それが、『ちょっと行ってくる』と言って、二時間ほど前にふらっと出かけてしまったの。もうすぐ帰ってくるとは思うのだけど」
「ふらっと出かけたって……」
「えぇ、たぶんそこの裏山に行っているのだと思うわ」
 そう言ってコリスが窓の向こうを指差すと、兄は目を丸くして立ち上がった。
「えっ!? 屋敷の裏のか? そんな、お一人で山登りなど……」
「あ、でも今日はセドリックさまが追いかけていかれたから、そんなに心配しなくてもすぐ戻られると思うわ」
「いや、そういう心配をしているわけでは。……まぁ、人がついているなら少しは安心か」
 兄は窓際に立ち、そこから見える裏山に目を凝らしている。
 腕を組んで「もし怪我などされたら……」とぶつぶつ言っているので、アリシアの身を案じているようだ。
 兄の中のアリシアは二年前の姿で止まっているから、余計に心配してしまうのだろう。以前のアリシアはとても線が細く、またその“王女”としての美貌は都で噂になるほどで、彼を男だと見抜いた者など誰一人としていなかった。
 ──そういえば、私も少し前までは同じような心配をしていた気がする。
 しかし、アリシアがふらっと出かけるのは割とよくあることなのだ。
 出かけるときは必ず声をかけてくれるし、コリスも一緒に行くことも多い。行き先は大体いつも同じということもあって、いつの間にか気にしなくなっていた。
 心配する兄の背中に目を細め、コリスは今度こそお茶の準備をするために応接間を出る。
「……あ、戻ってきたのかしら」
 すると、廊下を少し進んだところで、誰かの話し声が聞こえてきた。
 アリシアたちが帰ってきたのだと思い、コリスは出迎えるつもりで玄関ホールに向かった。
「──本当になんとお礼を言っていいのか。こんなに身体が軽く感じることなんて、もう何年もなかったんですよ」
「それはよかった。今日はわざわざ礼を言いにここまで?」
「ええ、ついでに元気な姿を見ていただこうと思って」
「そうか。確かに顔色もずいぶんいい。もう普通の生活に戻ってもよさそうだ。ただし、身体が動くからといって無理をしすぎないようにな」
「はい。あ、先生。これ、今朝うちの畑でとれた野菜なんです。よかったら皆さんで召し上がってくださいな」
「これはありがたい。とても瑞々しいな」
「喜んでいただけてよかったです。ではこれで……。先生と会えなくなるのは寂しいですが、また何かあったらよろしくお願いしますね」
 何度も頭を下げて去っていく老婦人と、それを見送るアリシアの後ろ姿。
 どうやら以前診察した患者が礼を言うためにアリシアに会いに来たようだ。
 玄関を開けてそのやり取りを見守っていたコリスは胸が温かくなり、笑顔を浮かべていると、不意にアリシアがこちらを振り返った。彼はコリスに笑いかけようとしていたが、すぐさまハッとした様子でぽつりと呟いた。
「コリスの兄上……」
「え? あ、ポール兄さま」
 いつ間に来ていたのか、コリスの後ろには兄のポールが立っていた。
 兄は呆然とした様子だった。長かった髪を襟足まで切ったアリシアの姿に驚いたのか、それとも今の老婦人とのやり取りに対してだろうか。
 アリシアは口元を引き締めると、こちらに近づき、コリスたちの前に立った。
「このような遠いところまで、ようこそお越しくださいました。ご到着されていたとは思わず、挨拶が遅れて申し訳ありません」
「あ…ッ、い、いえそんな…ッ」
「長旅でさぞお疲れになったことでしょう。これを摘みに行っていたのです。お茶にして飲むと、ほのかに甘い果物の香りがして疲れを癒やしてくれるのですよ。一緒にいかがですか?」
「えっ、まさか私のためにわざわざ摘んできてくださったのですか!?」
 驚く兄にアリシアはふわりと笑いかけ、摘んできた薬草を傍にいたセドリックに渡す。
 一緒に裏山に行っていたということもあって細かい指示は要らないようだ。セドリックは当たり前のように薬草を受け取ると、ポールに軽く頭を下げてから廊下の奥へと消えた。
 そのままアリシアは兄と並んで広間へ向かう。
 コリスは二人の後ろを歩いていたが、兄の背中が妙に強ばっていることに気づく。
 緊張しているのだろうか。先ほどまでは普通だったのに…と思いながら、コリスはくすくすと笑ってしまった。
 広間で少し休んでいると、ほどなくセドリックが先ほど摘んできた薬草のお茶を持ってきた。
 部屋に漂う爽やかな甘い香りは緊張をもほぐす力があるのだろう。
 兄は早速そのお茶を口に含み、ゆっくり息をつくと、前に座るアリシアに顔を向け、おもむろに口を開いた。
「──アリシアさまは、本当に医者をされていたのですね。コリスからの手紙で知ってはいましたが、先ほどのやり取りを見て改めて驚いてしまいました」
「あぁ、先ほどの……。そう、ですね。自分の知識がこんなふうに役立つとは思いもしませんでしたが、まだ手探りながら何とかやっています」
「しかしお元気そうでよかった。かなり酷い怪我をされたと聞いていたもので、こうしてまたお会いできて嬉しく思います」
「……そうですね。一人ではこのような場所に辿り着くことさえできませんでした。結果的に、あなた方からコリスを奪うようなことになってしまいましたが……」
「そっ、そんな…っ! 我々は誰一人としてそんなふうには考えておりません!」
 アリシアの言葉にポールは驚き、慌てて首を横に振る。
 今日彼がここへ来たのは、二年が経ち、ようやくさまざまなことが落ち着いてきたので、家族を代表して妹の様子を見に来ただけなのだ。
 これまでのアリシアの不幸や、二年前に起こった王宮での出来事について、コリスの家族はすべて知らされており、コリスが戻らない理由も理解してくれている。アリシアに同情することがあっても責めるなどありえないのだ。
 アリシアの隣りに座っていたコリスは彼の手をきゅっと握り締める。
 すると、アリシアはこちらに目を向け、無言でコリスを見つめて軽く手を握り返すと、気持ちを切り替えた様子でまたポールに視線を戻した。
「皆さん、お元気でいらっしゃいますか?」
「あ、はい。皆、相変わらずです。父も母も一緒に来たかったと残念がっていました。あまり大所帯ではいろいろ障りがあるだろうと、私だけ来ることになりましたが、いずれ皆を連れて来られればと思っています。二か月ほど前に陛下がお倒れになったこともあって、我々の動きに目を光らせるどころではないでしょうし」
「……あの男が、倒れた?」
「えぇ、それと同じくして王妃さまも神経症が悪化して、お加減がよろしくないとか……。にもかかわらず、お二人の心配をする者は周囲にほとんどおらず、近いうちにクロードさまが王位に就かれるのではと、国民の間ではそちらの期待のほうが大きいようです。普段の横暴な行いの罰だ、などと言う者もいて、なんとも皮肉な話です」
「……」
 兄の話にアリシアはこくっと喉を鳴らし、コリスの手を強く握った。
 少なからず動揺しているのが伝わってくる。
 王が倒れた。
 王妃も普通の状態ではない。
 それはアリシアにとってこの上ない吉報だったが、彼の横顔は心なしか強ばっていた。
 僅かに凍り付いた部屋の空気に、兄は自分の発言のせいだと思ったらしく、慌てた様子でお茶を飲み干すと、やや明るい声音になって話を変えた。
「そっ、それから、近況報告なのですが……、妻に子供ができたんです」
「本当!? ポール兄さま」
「あぁ、先週わかったんだ。来年の春頃に生まれるそうだ」
「それは楽しみですね。おめでとうございます」
「あっ、ありがとうございます…っ!」
 アリシアにお祝いの言葉をもらい、兄は嬉しそうに頭を下げている。
「……兄さまに赤ちゃんが」
 時の流れは本当に早い。
 知らないうちに少しずつ進んでいく。
 隣に目を向けると、アリシアの顔は優しく綻んでいた。先ほどまでの強ばりが嘘のように消えていたことにホッとして、コリスも心から兄の幸せを喜ぶことができた。
 その後はたわいない話をし、夕食にはセドリック自慢の手料理が振る舞われ、穏やかで楽しい時間を過ごした。
 そのときに、アリシアが自分で薬を作っていることや、裏山から薬の材料を調達しているとコリスが我が事のように自慢したところ、兄がそれに興味を示し、アリシアとの距離が一気に縮まったのはかなり嬉しい出来事だった。感心した様子で頷きながら話を聞く兄に、アリシアはキラキラと目を輝かせ、見る間に心を開いていくのがわかるほどだった。


「──それでは、先に休ませていただきます」
 夕食のあと、一時間ほどが経った頃。
 話は尽きなかったが、長旅で疲れているだろうからというセドリックの気遣いで、兄は早めに休むことになった。
「あ、ポール兄さま。部屋まで案内するわ」
「あぁ、頼む」
 兄を追いかけるようにコリスも席を立つ。
 同じく自室に戻ろうとするアリシアが小さく頷くのを一応確認してから、兄と共に広間を出た。
 兄はあと三日ここにいる予定だ。
 だから、話は明日もまだまだできる。それでも、もう少しだけ兄の傍にいたい気分だった。
「兄さま、本当におめでとう。赤ちゃん、楽しみね」
「ん? あぁ、そうだな。がんばって良い父親にならないとな」
「兄さまなら絶対なれるわ。そのままで充分!」
「なんだ、コリスはお世辞がうまくなったみたいだ」
「もう、せっかく褒めたのにっ」
「ははっ、そうだな。ありがとうコリス」
 そう言って、兄はぽんぽんと昔のようにコリスの頭を撫でる。
 温かく大きな手が懐かしくてじわりと涙が浮かぶ。
 それを隠すようにコリスは笑顔を浮かべ、兄の袖をさり気なく掴んだ。
 少しは成長したところを見せたかったのに、こんなふうに甘えたら笑われてしまうと思ったが、兄は穏やかに微笑むだけだった。
「……なぁ、コリス」
 程なくして、兄は静かに切り出した。
 その横顔を見つめると、兄は前を見たまま息をつくように続けた。
「元気そうでよかったよ……。本当に……」
「ポール兄さま……」
「ちゃんと、幸せなんだな」
「はい…」
「そうか。それならよかった……。この二年、おまえとアリシアさまが大変な思いをしているというのに、我々家族は何もしてやれなかった。あとで聞かされた話はあまりに残酷で、本当に現実に起こったことなのかと耳を疑ったものだ。……王女として過ごした十八年、その後の壮絶な二年は誰にも想像できないほどの苦しみだっただろう。そして、そんな彼を傍で見守り続けたコリスはさぞや苦しい思いをしているだろうと……」
「……っ」
「だから今日は…、アリシアさまといるおまえを見られて本当によかった。二人とも、とても幸せそうだったと……、自信を持って皆に報告できる」
「……兄さま…っ」
 兄は立ち止まり、僅かに瞳を潤ませながらコリスを見下ろす。
 ずっと心配してくれていたのだ。
 父も母も同じように心配してくれていたに違いない。
 兄の袖口をきゅっと掴んだまま、コリスは涙を浮かべて頷く。皆の家族として生まれて来られたことを心から誇りに思った。
「……湿っぽい話はここまでにして、もう寝ることにするかな。さすがに五日も馬車に揺られての長旅は疲れた。この部屋でいいんだろう?」
「えぇ、おやすみなさい、ポール兄さま。ゆっくり休んでね」
「あぁ、おやすみ。また明日」
 この先は突きあたりだったので、すぐ傍の部屋が自分の休む場所だとわかったようだ。
 互いの頬にキスをすると、兄は軽く手を振って部屋に入っていく。
 頼もしい背中。いつだって兄は家族のことを第一に考えてきた。
 必ずやいい父親になるに違いない。
 そう確信しながらコリスは滲んだ涙を拭う。無性にアリシアに会いたくなって、彼の待つ寝室へと向かう足が自然と速くなった──。


+  +  +


 寝室に行くと、アリシアはベッドに横になって燭台の灯りだけで読書をしていた。
 好きな本に夢中になるのは今も変わらない。
「アリシアさま、目を悪くしてしまいますよ」
「……ん、…あぁ」
 コリスが声をかけると彼は曖昧に頷き、切りのいいところまで読んで、ようやく本を閉じた。
 ベッドの端に座り、コリスはアリシアを見つめる。
 彼は不思議そうに首を傾げ、琥珀色の美しい瞳を瞬かせた。
「どうかしたのか?」
「……いえ。ただ何となく、今日はいつもより幸せだなって思ってました」
「コリスの兄上が来てくれたからな」
「それもありますけど」
 言いながら、コリスは彼の手を取り頬に押し当てる。
 この温かさを傍に感じられて幸せだなんて、久しぶりにしんみりした気持ちになってしまった。
 その様子を見ながら、アリシアはぽつりと呟く。
「コリスの兄上は……、やはり私を責めないのだな」
「え? どうしてですか?」
「大事な妹を私のような男に奪われて、一刻も早く返せと言うのが普通だと思うのだが……」
「そんなっ、そんな酷いこと言うわけありません!」
 コリスは驚き、少し大きな声になってアリシアの言葉を否定した。
 普通がどんなものかはわからないが、少なくとも自分の家族にそんな冷酷なことを言う者はいない。絶対だと断言してもいい。
 目を丸くするアリシアの手を握り締め、コリスは言い聞かせるように続けた。
「おかしなことをと思われるかもしれませんが、私の家族は、アリシアさまのことをどこかでもう家族のように思っているんだと思います。二年前に一度会ったきりでも、私の大好きな人だから皆もアリシアさまを好きなんです。きっとそうなんです」
「……家族? 私がか?」
「そうです」
 コクンと頷き、アリシアをじっと見つめる。
 彼は瞳を揺らし、僅かに息を震わせながら「そうか…」と呟いた。
 それきり彼は口を閉ざし、幾ばくかの沈黙が流れたが、ややあってアリシアはどこか遠くを見るような眼差しでコリスから目を離した。
「……いつか私も、おまえたちのようになれるだろうか。いつか、すべてを過去にできるだろうか。王女だったアリシアは二年前に死んだ。私はあのときに生まれ変わった。それなのに、あの男が倒れたと聞いたとき、思いだしたのは憎しみだけだった……」
「アリシアさま、それは……」
「あぁ、わかっている。そう簡単に割り切れることではない。だが、そろそろ考えを変えてみたいと思ったのだ。たとえばあれは、おまえと出会うために必要な十八年だった……と」
「……っ」
「そう考えようかと思ったのだ……」
「アリシアさま…っ」
 彼は涙を浮かべるコリスに顔を近づけ、そっと口づけを落とす。
 見つめ合い、触れるだけのキスを繰り返し、やがて互いの舌を絡めて想いを確かめ合った。
「……コリスの兄上がいる間は自重しようと思ったんだが、どうも二人きりになるとだめみたいだ」
 そう言って苦笑を浮かべる彼を見上げ、コリスもくすりと笑う。
 微かに情欲を宿した瞳に見つめられ、コリスはアリシアの首に腕を回し、また見つめ合って何度も口づけを交わし合った。
 熱っぽい眼差し。甘い吐息。力強く抱きしめる腕。
 彼のすべてが愛おしかった。
「……いつか……、おまえの家族に会いに行きたい。……そのときは、おまえとの結婚を認めてもらって……、本当の家族になれるといいな」
「……ッ、……はい、……はい…っ!」
 コリスはこくこくと頷き、ぽろぽろと涙を零す。
 彼はそれをすべて唇で拭い取ると、花が綻ぶような微笑みを浮かべた。
 ──いつかきっと……。
 時々そうやって未来について口にするようになったことを、アリシアは気づいているだろうか。
 そのたびにコリスは思う。
 彼の未来は拓けたのだと、そんなふうに思うのだ。
 数え切れないほどの夜を過ごし、これからも自分たちの未来は続いていくのだろうと……。

 翌日、アリシアは兄を誘って裏山に出かけたようだった。
 そこで何を話したのかはわからない。コリスも聞きだそうとは思わなかった。
 けれど、二人の距離がかなり縮まったことは間違いなさそうだ。
 屋敷に戻ったとき、二人は子供のように無邪気に笑い合い、まるで本当の兄弟のようだった。

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