まるで、吐息のように
「母上。こちらにいらしたのですね」
振り向くと、そこにくすんだ金髪の少年が立っていた。
アデルの顔には自然と笑みが浮かんだ。
母親らしい、慈愛に満ちたやさしい微笑みだ。
「ダリル。どうしたの? 何か用ですか?」
ダリルはアデルの問いには答えず、アデルのすぐそばに歩み寄った。
ダリルの視線の先では、緑の葉が生い茂る中、時を忘れたように、小さな薔薇が、ぽつん、と一輪だけ花をつけている。
「母上はこの薔薇園がとてもお好きですね」
ダリルは、指先でその薄紅色の花びらを、そっと撫でながら言った。
「気がつけば、いつも、ここにおいでだ。だから、僕は、母上のお姿がない時には、一番にここを探すことにしているんですよ」
心の奥で漣が立つ。
その漣がアデルの声音を曖昧にする。
「そうね……。そう、かもしれないわね……」
アデルは一度だってこの薔薇園を好きだと思ったことがない。
今でもここは大嫌いだ。
この薔薇たちは知っている。
血のつながった弟に愛されたモードリンの苦悩を。
欲しいものを手に入れるためだったら、どんなおぞましいことも厭わなかった兄弟の愚かさを。
そして、復讐にすべてを賭けた男の情念を。
ここは呪われている。
あれから十六年も経つというのに、いまだ、罪に囚われたままの花園。
それでも、気がつけばここに来てしまうのは、きっと、アデルも、また、罪びとだからなのだろう。
この手が白くなり、もう二度とウォードを摘むことがなくなっても、アデルの心に染みついたあの青は決して消えることはない。
心に漂う痛みをかき集め、深い場所にしまい込むと、アデルは、笑顔を作り、ダリルを見上げた。
いかにも聡明そうな輝きを宿したブルーグレーの瞳は、思っていたのよりも随分と上からアデルを見つめ返している。
「まあ。ダリル。もしかして、また、大きくなったのではありませんか?」
ダリルは、幼いころから、同年代の少年たちと比べ背が高かった。
十五歳となった今は、大人と遜色のないどころか、大人の中に混じっても目立つほどの長身だ。
「もうすぐ十六歳ですからね」
誇らしげに胸を張ったダリルは、しかし、すぐに、残念そうに肩をすくめる。
「とはいえ、叔父上には、まだまだかないませんけど」
「……叔父上……」
「いつになったら、僕は叔父上を追い越すことができるのかなぁ」
アデルは思わず眉を曇らせた。
「およしなさい。ダリル。あの人を『叔父上』と呼ぶのは」
アデルがたしなめると、ダリルは子供っぽく唇を尖らせる。
「よいではありませんか。父上の弟なのだから、僕にとっては、正真正銘、血のつながった叔父です」
「でも……」
「母上のおっしゃりたいことはわかっています。叔父上は、お祖父さまが身分の低い下女に手をつけ産ませた子供だから、王族ではない、ってことでしょう?」
「……そうです……」
声が震えた。
「ダリル。あなたは王であり、ギデオンはいち家臣に過ぎません。王として、そこのところを弁えなくては……」
おかしなことは言ってない。
むしろ、これが正論だろう。
だが、ダリルは頑なだった。
「いやです。いくら母上のおっしゃることでも納得できません」
「ダリル」
「僕は父を知りません。父には、もうひとり、オーウェンという名前の弟がいたそうですが、その方も、海で遭難し、いまだ行方不明だ」
「……ええ……」
「ねえ。母上。わかってください。僕には叔父上しかいないのです。ずっと僕のそばで僕を見守ってくださった叔父上のことを、父の代わりと思って何がいけないのです?」
そう言われると、もう、何も言い返せなくなる。
ダリルから父親を奪ったのは、間違いなく自分だ。
この子に当たり前のしあわせを与えてやることができなかった。
「……淋しい思いをさせてごめんなさい……」
ようようの思いで吐き出した言葉に、ダリルはほんの少し頬を赤くした。
自分の言動はいささか子供じみていたと、今ごろになって自分を恥ずかしく思ったのかもしれない。
背伸びをしたい年ごろなのだ。
その姿に、アデルは、思わず、同じ名前をした弟の姿を重ね合わせていた。
今、どこにいるのかもわからない、生きているのかさえ杳として知れぬ弟。
あるいは、弟のダリルもこんな少年だったのだろうか?
自分にもうひとり叔父がいることなど知りもしないダリルは、精いっぱいのおとなびた声と表情でアデルを慰めようとする。
「母上が謝られるようなことではありません。憎むべきは、父上の生命を奪った病なのですから」
「そうね……。そうね……」
「すみません。母上。つらいことを思い出させて」
「いいえ。いいのよ」
「母上は、今でも父上のことを心から愛しておいでなのに……」
違う。違う。違う。
アデルとメイナードの間には愛なんてかけらもなかった。
あったのは、うそにうそを重ねた謀と、歪んで出口を失った執着だけ。
(ああ。この子がほんとうのことを知ってしまったら)
そう思うと、アデルの胸は張り裂けそうに痛む。
何も答えることなく口をつぐんでしまったアデルを見て、ダリルは何を思ったのだろう?
その瞳は、アデルを離れ、再び薄紅の薔薇に向けられている。
「母上。母上の目からは、僕はそんなに子供に見えますか?」
「……いえ……。そのようなことは……」
いや、まだ子供だ。
生まれた時から王としての厳しい教育を受けてきたせいか、年齢の割にはしっかりした子だとは思うけれど、でも、母親にとって我が子はいくつになっても子供なのだ。
「ごまかさないでください」
ダリルの声は少し拗ねているようだった。
「いつも叔父上のことを臣下として扱えと厳しくおっしゃるのは、つまり、僕が父親を恋い慕うように叔父上に甘えてばかりいるとお考えだからではないのですか?」
ダリルの視線がアデルの上に戻る。
穢れを知らぬまなざしが、アデルから言葉を奪う。
「僕が叔父上を慕うのは、何も肉親の情からばかりではありませんよ」
ダリルはきっぱりと言った。
「僕は、生まれ落ちた瞬間から、この国の王でした。目を開くことも、言葉をしゃべることも、這うことさえできないころから王でした。そんな僕に代わり、宰相としてこの国を治めてきたのが叔父上です」
ウェルズワースは、メイナードの葬儀と、まだ赤子だった新王ダリルの戴冠式を終えたあと、力尽きるようにしてこの世を去った。
ウェルズワース亡きあと、ウェルズワースの遺言により宰相の座を引き継いだのがギデオンだ。
以来、ギデオンは宰相として、この国の平和と安定に力を尽くしてきた。
就任当初こそ、ギデオンの生まれを取りざたし、あれやこれやと口さがないことを言う者もいたが、今では、その能力を疑う者は宮中には誰ひとりいないだろう。
「叔父上がいなければ、今ごろ、この国は他国の領土となっていたでしょう。人が大勢死に、台地は荒れ、民は苦しんだに違いない」
ダリルのブルーグレーの瞳がきらきらと輝きを放った。
「他国に先駆け奴隷を解放したのも叔父上の功績です。叔父上は稀有なまでに有能な政治家だと思います。僕は叔父上を尊敬しています。僕も叔父上のような為政者になりたい」
希望に満ちたその表情を見ていると、なんだか、不思議になる。
(この子は、いったい、誰に似たのかしら?)
この、歪みのない、素直な、明るさ、力強さを、いったい、誰から受け継いだのだろう?
たぶん、アデルではない。
だとしたら……。
まぶしくて細めた目の端に、人影がよぎった。
黒い影。
砂色の髪に灰色の瞳。長身。
ギデオンだ。
ドキリとした。
どんなに長く一緒にいても、あの静かでありながら穏やかさとは無縁な苛烈さを秘めたまなざしに触れられた途端、胸が騒ぐ。
「叔父上」
ダリルの声はどこか無邪気だった。
アデルには父に甘える息子の声に聞こえた。
「叔父上。今、ちょうど、叔父上の話をしていたところだったのですよ」
ギデオンは、灰色の瞳を少しも揺るがすことなく、ダリルに向かって恭しく頭を下げる。
「陛下。私は家臣です。陛下の忠実なる僕でございます。どうぞ、ギデオンとお呼びください」
ダリルが少し困った顔をした。
「たった今、母にもそう言われていたところなのですが、叔父上までそんなことをおっしゃるなんて」
「王太后さまがおっしゃるとおりでございます。陛下におかれましては、王としてのお立場をどうぞお弁えくださいませ」
ダリルの唇から盛大なため息が漏れる。
「やれやれ。叔父上は、いつも、母上の味方なんだから」
「私は道理の味方でございます」
「はいはい。おふたりがとても仲よしであることはわかりましたよ」
アデルとギデオンは、顔を見合わせ、そっと、そっと、微笑み合う。
『仲よし』
そんな言葉では語りきれない絆が、確かに、ふたりの間にはある。
「あーあ。二対一では分が悪い。僕は退散しようかな」
ダリルが言った。
アデルは問う。
「何か用があったのではありませんか?」
「母上を午後のお茶にお誘いしようかと思いまして」
「あら。わたしでよろしくて?」
「もちろんですよ。僕の部屋に用意をさせます」
「では、のちほど参りますね」
「よろしければ、叔父上もご一緒に」
だが、ギデオンは、いつものように、小さく首を横に振ってそれに答えた。
「叔父上。たまにはつきあってくださってもよいのではないのですか?」
「そうさせていただきたいのはやまやまなのですが、何分、処理せねばならぬ案件がございまして」
ダリルは『仕方ないなぁ』とでもいうように肩をすくめる。
ギデオンの言い訳がただの方便であるということは、既に、ダリルも承知しているのだ。
結局、それ以上は無理強いすることなく、ダリルは去っていった。
少しずつ小さくなる背中を見送りながら、アデルは小さくため息をつく。
「子供が大きくなるのは早いわね……。なんだか、あっという間の十五年間だったわ……」
ギデオンに視線を向けると、ギデオンも、また、ダリルの背中をじっと見つめていた。
「近ごろ、あなたに似てきたって、よく言われるの」
「もったいないことでございます」
「きっと、王家の血が濃いのでしょうと、皆さま、おっしゃってくださるわ」
ギデオンは何も言わない。
胎児が少年となるほどの年月を経ても、その灰色の瞳は寡黙だ。
「あの子は……」
言いかけて、アデルは言葉を飲み込む。
「あの子は?」
続きを促すように、ギデオンの灰色の瞳がアデルに向けられた。
今も変わらぬそのまなざしがアデルの中に忍び込んでくる。ゆるゆるとアデルを侵蝕し、閉ざされた記憶を暴く。
出会い。
初めて触れられた時の石鹸の甘い香り。
蜜月のようだった森の中の小さな館での暮らし。
そして、あの秘密の夜のことも……。
「……っ……」
下腹の奥が、きゅうっ、と疼いた。
漣のような震えが背筋を這い上り、頭の芯でくるくると回って弾ける。
両足の間の秘密の洞はしっとりと濡れていた。
蜜にぬめる花びらは、もっともっととねだるように、ひくひくと蠢き震えている。
「……ふ……」
耐え切れず、アデルは小さく吐息をこぼした。
とろりと濡れたまなざしを向ければ、ギデオンが密やかに笑う。
灰色の瞳の奥に宿るのは、どこか淫蕩な昏い焔。
その瞳が言っている気がした。
『俺を覚えているか?』
アデルは、灰色の瞳を見つめたまま、心の中で答える。
『覚えているわ』
そう。忘れられるはずがない。
アデルの肌には、ギデオンの指先が、唇が、滾る熱が、刻んでいった快楽のすべてが、今も刺青のようにくっきりと残されている。
あられもなく足を開き、淫らな声を上げながら、その大きな背中にすがりついたアデルが、今もアデルの中のどこかにいる。
『言っただろう? 俺たちは同じ運命の輪につながれている』
『そうね』
『もう、離れられないんだ』
ささやきと共に、ギデオンと交わしたすべての夜が肌の上によみがえってきた。
幻想の愛撫がアデルの肌を焼く。
気持ちいい。気持ちいい。
あの日の、あの時の、甘い疼きが幾重にも重なって、身体の芯を溶かす。
『あぁ……、ああぁ……、あああああ……』
陶酔が押し寄せてきた。
『いく。いっちゃう。きちゃう』
ぶるり、と身を震わせ、アデルは指の先まで染みとおるような官能を味わう。
やっぱり、ギデオンがいい。
ギデオン以外に、この快楽を与えてくれる人はいない。
だって、この身体をこんなふうに仕込んだのは、ほかでもないギデオンなのだから。
アデルをじっと見つめていたギデオンの瞳が、すっ、と細くなった。
冷静な仮面がわずかに剥がれ落ち、その下から獰猛な野獣のようなまなざしが現れる。
熱い瞳。
アデルの好きな……。
一瞬の陶酔が過ぎ去ると共に、秘密は再びアデルの中に固く封印された。
次第に熱の失せていく頭で、アデルは『あの子は?』と問い返されたことを思い出す。
あの時、自分が何を言おうとしていたのか、もう、わからなくなっていた。
きっと、言う必要のないことだったのだ。
アデルは、小さく首を横に振りながら、まるで、吐息のように、言葉を唇に乗せる。
「なんでもないわ……。なんでもないの……」
途端に、くらり、と眩暈がした。
「あ……」
いまだ身体に残る甘い余韻のせいだった。
「陛下」
ギデオンが、アデルに駆け寄り、そっと手を差し出す。
アデルは、それを手振りで断り、ふらつきながらも身を起こした。
「大丈夫よ」
「さようでございますか?」
「心配は無用です」
きっぱりとアデルがそう言い放つと、ギデオンは、再びアデルから離れ、恭しく頭を垂れる。
これでいいとアデルは思った。
(これでいいのよ)
くちづけも交わさない。
抱き合うことはもちろん、指一本触れることすらかなわない。
それでも、ギデオンと自分は、つながっているのだ。
誰にも知られぬところで、深く、深く……。
『ねえ。そうでしょう? ギデオン』
まなざしで語りかけると、ギデオンが瞳でうなずいた。
もう、言葉もいらなかった。
ただ立ち尽くすふたりの間を、一陣の風が通り過ぎていった。
了