初恋の結果
「アディ、初恋の男がいるんだって?」
「……は?」
その日の仕事を終えたアデリナは、食堂二階にある居住スペースに上がったとたん、ディートハルトに笑顔でそう問いかけられ、すぐには反応が出来なかった。
それは、先日起こった事件がようやくひととおり解決して、食堂「黒屋」を再開できてしばらくのことだ。
あの事件ではひどい思いをしたが、なんとかアデリナも大事な食堂も無事だった。貴族のはずのディートハルトは護衛を辞めず、そのまま食堂に居座ることになり、アデリナはそのことに驚きながらも嬉しさを隠しきれずにいた。そんな、おだやかな日常を取り戻しつつある時だった。
すっかり気を抜いていたせいか、ディートハルトの突然の言葉に呆けてしまったアデリナだが、にこやかな彼の顔を見ながら、ふいにヘルガが今日の帰りに意味深な笑みを浮かべていたことを思い出し、はっと気付いた。
ヘルガってばもしかして――
初恋の人については誰にも言っていないはずなのに、なぜかヘルガにはバレていた。それを言ってしまったのだろうか。
彼に知られれば困ったことになると、アデリナはもう知っている。
だから黙っていたのもあるが、それはもう過去のことだから、どうでもいいことだとも思っていた。
「誰?」
「え……っと」
にこやかに問われて、アデリナは戸惑う。
笑顔だけれど、その目が笑ってはいないのがアデリナにはわかったからだ。
アデリナはもちろんディートハルトのことが好きだ。けれど、彼のアデリナへの想い――というより嫉妬心は、アデリナの想像を軽く超えている。アデリナにとってはどうでもいい過去でも、きちんと説明しないと納得しないだろう。こんな状況に置かれたアデリナは、心の中でヘルガを盛大に罵っていた。
「別に怒ったりしないよ」
「…………」
纏っている空気がすでに不穏だ。
これで「怒ったりしない」と言うほうがおかしい。
いや、確かに怒らないのだろう。強制的に座らされたのが寝台で、あまりに近い距離にいるディートハルトを見れば、彼が「怒り」以外の行為をしようとしているのはアデリナにだってわかる。
これはどうにか上手く答えないと、明日が大変なことになる。
「もう過去の男だろ。今は僕だけなんだから、気にしないよ」
「…………」
これが「気にしない」という男の顔だろうか。
アデリナは目を合わせないよう気をつけながら、考えを巡らせる。
しかしいい加減、沈黙に逃げるアデリナに耐えかねたのか、ディートハルトは頬に音を立てて口づける。
「アディ」
アデリナが顔を上げたところで、今度は唇に触れた。
「僕を好き?」
「……うん」
真っ直ぐな視線で問われると、頷く以外の答えなど見つからない。
六つも年下で、まだ成人したばかりのはずなのに、ディートハルトの経験値はどんなことにおいてもアデリナを上回っていて、少しばかり面白くない。
でも、この理想そのものの顔で、甘い視線に射貫かれれば、逆らえというほうが難しい。
きっとそんなこともお見通しなんだろうと思うと悔しいが、この顔に勝てないアデリナにはどうしようもなかった。
「僕もアディが好き。だから気にしないけど……その男より、僕のほうが格好いいのかなって思っただけだよ」
「……あの人より、ディートのほうが格好いいわ」
思わず答えてしまったあと、笑みを深くしたディートハルトの顔を見て、しまった、と思った。
「ん、どの人?」
気にしないなんてやっぱり嘘だ! という心の中で叫びもむなしく、アデリナはその夜、遅くまでディートハルトに攻められることになったのだった。
「だから……っん! もうずっと前の、ことで……顔も、覚えてない……ん、から、あっ」
寝台で四肢を絡めるように重なり合う。ディートハルトは、アデリナ自身よりもアデリナの身体のことを知っているかのように、あっという間に狂わせる。
そうして、訊きたいことをいとも簡単に答えさせてしまうのだ。
ひどいと思いながらも、素直に答えてしまう自分に呆れるが、結局アデリナは、約1年前に従兄に絡まれた時、助けてくれた青年の話をしてしまっていた。
すると、執拗に胸に吸い付いていたディートハルトは、何かを思い出したかのように動きを止め、ぱっと顔を上げてアデリナを覗き込む。
「アディ……」
「……え?」
「なんだ、それ、僕だよ」
「…………は?」
ディートハルトの言葉が、アデリナにはすぐに理解できなかった。彼は、先ほどまでとはまったく種類が違うとわかる嬉しそうな笑みを浮かべている。
「……え? はい?」
アデリナは顔を顰める。
しかしディートハルトは喜びいっぱいにアデリナに抱き着いた。
「なんだ、あれかぁ……なーんだ、アディも僕に一目惚れだったんだ。一緒だったんだ」
「え……はい? えっと?」
何度も頷き繰り返す彼の言葉の意味をようやく理解する。
あの日、クルトに絡まれたアデリナを助けてくれた青年はディートハルトだったらしい。
「――え? 本当に?」
驚きつつも、うろ覚えな青年の姿を思い出してみる。あの青年はアデリナより大きく、逞しく、強そうで、それでいて落ち着いていたから年上だとばかり思っていた。
しかしにこやかにアデリナに覆いかぶさり見下ろしてくるディートハルトを見つめていれば、いつの間にか思い出の姿に重なっていく。
アデリナより大きく、逞しく、強く――落ち着いてはいないけれど、あの青年そのものだ。
「――えええっ!?」
「やっぱり僕たちは、運命で結ばれてるんだよ」
「ええぇ――……」
ぎゅう、と強く抱きしめられ、アデリナはディートハルトの肩越しに天井を見上げた。温かで逞しい身体に包まれながら、あの青年がディートハルトだったと実感して、顔が熱くなる。
「アディ、顔が真っ赤だ」
「だ、だって!」
指摘されなくてもわかっている。
もう二度と会うことはないだろうと思っていた、勝手に恋をした理想の人。
まさかそれが、目の前で嬉しそうににやけるこの人だったなどと、誰が想像できただろう。
アデリナが赤くなっているのは、恥ずかしさと同じくらい嬉しさが湧き上がっているからだ。
そしてそれも、ディートハルトには知られているのだろう。
「嬉しい、アディ。アディの過去も、未来も全部僕のものだ」
「……!」
その通りだ!
その事実は嬉しい。
けれどアデリナはディートハルトのように素直に喜びを表せなかった。
なぜなら、あの日のトキメキが再び胸に湧き上がり、緊張と動揺で思考が上手く巡らなくなってしまったからだ。
「あ、あの、え……っと、あの」
「アディ……あの日から遠回りした分、今日は頑張るよ」
「……はい!?」
アデリナの戸惑いをよそに、ディートハルトはいつもと同じ――いや、いつも以上に張り切っているようだ。
力強く宣言されて、アデリナは動揺している場合じゃないと気付いたものの、すでにディートハルトに抱かれている身体は逃げようがない。
「明日は……ちょっと寝坊しようかな」
「だ――」
駄目! というアデリナの強い非難の声は、ディートハルトの唇に吸い取られた。
卑怯だと心の中で罵ったものの、甘い愛撫でアデリナを狂わせることに長けたディートハルトには敵うはずもなかった。
それに、あまりにもディートハルトが嬉しそうで、アデリナも仕方ないかな、と受け入れてしまった。
結局は、好きな人が嬉しいことは、同じように嬉しい。
しかしそれが、翌朝のアデリナを盛大に後悔させることになるとは、夜のアデリナにはまだ解らなかった。
アデリナは、この、体力だけはあるディートハルトに甘い顔は禁物だと、この日しっかりと理解したのだった。