紫の蘭と銀の蝶
蘭花と楚興が結婚してまもなく一年を迎えようというころ。
蘭花はふたりで暮らす屋敷の院子(にわ)を楚興と散歩していた。
陽光が満ちた春爛漫の院子には、白や桃色の海棠が競うように花を咲かせている。
花の色に負けじと鮮やかな紫の上衣と裙を着た蘭花は、隣を歩く楚興をおずおずと見上げた。
「楚興、あの……本当に無事でよかったわ」
「昨日から、何回そう言っているんだ」
楚興があきれたように肩をすくめるから、頬を染めて手を揉み合わせる。
「だって、ずっと心配していたのよ。秋から戦場にいたでしょう? やっと帰って来られたわけだから――」
「俺は無事に帰る気満々だったぞ」
「そうなの?」
小首を傾げると、楚興は自信に満ちた表情でうなずく。
「追いつめた敵は砦にこもったが、援軍が来るわけじゃない。壊滅させるのは、時間の問題だった」
「そう……」
戦功を語る楚興の言葉には、力が満ちている。敗北など寄せつけなさそうな顔つきは頼もしいけれど、蘭花は一抹の寂しさと――恐ろしささえ感じてしまう。
「蘭花?」
うつむいた顔を覗かれて、蘭花は無理に微笑んで彼をねぎらった。
「楚興は立派だわ。いつだってお父さんの――ううん、皇帝陛下のために勝利を持って帰ってくれるんだもの」
楚興は一瞬黙ってから、意味深に口角を持ち上げた。
「大丈夫か? 頬がひきつっているぞ」
頬を指先でつつかれて、真っ赤になった。おまけに足がもつれて、みっともないことによろけてしまう。
楚興が驚いたように目を見張って、肩を支えてくれた。
「どうしたんだ、蘭花?」
「だ、だって、いきなり頬に触れるから」
「頬以外のところもいつだって触れているだろう」
「そうだけどっ」
ふたりは夫婦だから、確かに密に触れあっているけれど、油断したときの?攻撃?には思いのほか動揺を誘われてしまうのだ。
「今から頬に触れるぞと予告するほうがいいのか?」
「そんなことはしないでいいから!」
まだ心臓がどきどきとうるさい。胸を手で押さえていると、楚興が肩を引き寄せた。
「楚興?」
「……帰ってきてよかった」
穏やかに目を細められ、胸の奥がうずいた。戦場にいる間、彼も蘭花のもとに帰ることを願っているのだろうか。蘭花が一刻も早い帰還を祈るのと同じように。
「わたしも楚興が無事に帰って来てくれて、うれしいわ」
「無事というわけでは……。流れ矢が当たったしな。昨晩も傷を見ながらさめざめと泣いただろう」
「そうね、そうだったわ!」
首まで朱に染めて言い返した。
昨晩、楚興の肩の包帯を閨で巻き直しながら、あまりの痛々しさに涙をこぼしたのは事実だ。
「泣かれるとますます泣かせたくなるから、気をつけろ」
「も、もう、どういう忠告なの、それはっ」
勢いよく言い捨ててから歩きだし、季節の花が彫られた敷石に導かれるまま亭につく。
すでに茶菓の用意がされていて、蘭花は誘われるように幅広の腰かけに座った。腰かけは石造りだけれど、ふかふかの座布団が敷かれているから、とても居心地がいい。
茶を飲んで一息つくと、隣に座っている楚興に向けて唇を尖らせる。
「楚興はわたしをからかってばかりだわ」
「おまえの笑顔を見たいんだよ。昔に戻った気がするから」
言いながら愛しげに髪を撫でてくる。髪を梳かれるたびに切なさが増した。
(昔には戻れないわ……)
市井の民だったふたりは、今や公主と将軍だ。国の頂点に位置すると、かえって心穏やかでいられないと気づいてしまった。
「蘭花、おまえをもっと笑顔にする贈り物を用意したんだ」
そう言いながら楚興が懐から取りだしたのは、布の包みだ。楚興は包みを左の掌に載せると右手で畳んでいる布を広げる。
中からあらわれたものを見て、蘭花は目を見張った。
「あのときの銀釵(かんざし)……!」
布の間からあらわれたのは、蝶をかたどった銀釵だった。
楚興と結ばれるきっかけになった事故――崖崩れに巻き込まれ、増水した河に落ちたときになくしたものとうりふたつだ。
(あの釵は楚興にもらったものだった)
そして今、目の前には思い出と同じ釵がある。
「宝物だと言ってくれていただろう。だから、また作らせた」
蘭花が言葉を失ったまま釵を見つめていると、楚興が表情を曇らせた。
「嫌だったか?」
「ううん、嫌じゃないわ! その……うれしすぎて、涙がでそうで……」
胸を押さえて深呼吸する。楚興のやさしさがうれしくてたまらなかった。
「ありがとう、楚興」
「じゃあ、俺が髪に飾って――」
楚興は釵を取り上げかけて――なぜかすぐに包みに戻すと元のようにくるんで懐にしまいこむ。
「楚興?」
意味不明な行動に瞳を丸くすると、楚興が耳元でささやいた。
「先にもっといいものをやる」
「いいものって何?」
つられて小声でたずねると、楚興が唇に意地悪な笑みを浮かべる。
「俺たちの子どもだよ」
瞬間、呆気にとられ、すぐに炙られたように全身が熱くなった。
「ま、まだ昼間だわ」
「昼間でもかまわないだろう。俺たちは夫婦なんだから」
「でも……」
「この屋敷にいる間は、おまえとできるだけ触れあっていたいんだ。次はいつ派兵されるかわからないんだから」
蘭花の手をとった楚興が指先にくちづける。
ただそれだけで、昨夜愛し尽くされた身体が顕著な反応を示した。
胸が高鳴り、喉が渇いて仕方なくなる。
「なあ、いいだろう?」
耳たぶを甘噛みされて生まれたときめきを抑えつけると、蘭花は渋々といったふうにうなずく。
楚興は頬や首筋に細やかにくちづけながら、蘭花を腰かけに押し倒す。
帯を解かれる音はこれから始まる淫らな遊戯の合図だ。蘭花は瞼を閉じると、肌を滑る大きな手の感触に悩ましげな息をこぼした。(了)