警視総監と総監補の葛藤
「ああああああ!」
王都の閑静な住宅街で、一際大きな屋敷の執務室から熊のような野太い雄叫びが上がる。
「ちょっと、あんたが呼ぶとそのものになっちまうからやめてくださいよ、アーロン総監」
ハリスはボリボリと頭を掻きながら溜息を吐いた。
まったく、自分の上司になったこの男ときたら、見た目の恐ろしさを自覚していないから性質が悪い。
外にいる部下たちはその凄まじい怒声に身を震わせているだろうが、この雄叫びの主の側近となって数か月経過したハリスにとっては日常茶飯事となっていた。
この屋敷は元レノックス公爵の持ち物であったのだが、彼に跡取りがいなかったため、その「死後」王家へと返却され、国営化された自警団の拠点として提供されたのだ。
ちなみに、これまで自警団を名乗っていた集団は統一・国営化され、現在は警視庁と名を改めている。
そしてその警視庁の長である警視総監が、目の前の金髪熊男、アーロン・ピールなのであった。
面倒臭そうに返事をするハリスに、アーロンは筋骨隆々の巨体を丸めてさめざめと泣き真似を始める。
「なんなのなんなのよこのクソ忙しさは! おかしいわ! おかしいわよ! そもそもどうしてアタシが警視総監なんかさせられてるのよ! アタシは単なる薬屋だったのよ!」
目の前の熊男の口から飛び出す女言葉に頭痛を覚えながら、ハリスは二度目の溜息を吐いた。確かに警視庁が組織されて以来、眠る暇もないほどの忙しさだ。民間の有志によって構成されていただけの自警団時代とは違い、国営化すると法律がついてくる。法律には政治がついてくる。即ち人、金、時間、物、書類、思惑――あらゆるものがついてくるのだ。忙しくなって当たり前なのだ――まったくもって不本意ながら。
「元自警団総督の腹心が何言ってんですか」
「騙されたのよ! あんちくしょう、やりたいことやったら後の面倒臭いこと全部アタシに押し付けやがって! ラスのアンポンターーン!」
それはこっちの台詞だ、とハリスは内心文句を言った。
アーロンは昔からの腐れ縁だろうが、こちとら出会って数か月程度の縁でしかなかったのに、何故警視総監補などというとんでもない地位に立たされているのだろうか。
アーロンの怒りの矛先の人物を、ハリスも知っている。なにしろアーロンとハリスをこの窮状に追いやった張本人なのだから。
元自警団総督ラスティ――カリスマの権化と言っていいその男は、各地の荒くれ者の集団であった自警団の連中をあっという間に魅了した。かくいうハリスもその一人だった。豪胆無比でありながら聡明な天性の指導者に、社会貢献に美徳を感じる自警団員が惹かれないはずがない。
はぁ、ともう何度目になるか分からない溜息を吐けば、ぎゃあぎゃあと喚いていたアーロンに同情の目を向けられる。
「しかしまぁ、アンタも気の毒よねェ。ラスに気に入られたばっかりに、こんなクソ大変な目に遭わされちゃってんだから……」
「はぁ……」
ホントにな、と言いたいのを飲み込んで、ハリスは遠い目をする。
ネルヴァに置いてきた妻と息子は元気だろうか……。
元自警団総督ラスティ――ラスとハリスが出会ってしまったのは、もう因果としか言いようがない。
「あの時ラスに出会ってなけりゃ、あんなとんでもないことに巻き込まれずに済んだんですかねぇ……」
「ああ……あの、血糊芝居……」
ハハ……と力無く笑いながら呟けば、アーロンが憐れむような目で半笑いを返してきた。
血糊芝居。そう、あの芝居の秘密が世にバレれば、それこそこの国が引っくり返るような事態を招きかねない。そんな恐ろしい芝居の共犯者にされてしまったのだから。
「俺、あれが芝居だって分かってたから、もうあのお嬢さんが気の毒で気の毒で……可哀想に、死ぬんじゃないかって真っ青になって涙を流して……。それなのにあの人、泣いてるお嬢さんに殴りたくなるような気障ったらしい台詞吐くんですよ? お嬢さんは感極まって更に泣いちゃうしで、もうホント居た堪れないってもんじゃありませんでしたよ」
「うーわー……ホンット、バカっぷる丸出し……」
その場を想像したのか、アーロンが盛大に顔を顰めて唸り声を上げる。アーロンは被害者のお嬢さんとは親しかったようで、その感慨(?)もひとしおなのだろう。
だが例の二人の姿を思い浮かべていただろうアーロンは、やがて頬を緩めて呟いた。
「まぁ、幸せならいいのよ。……ちょっと腹が立つけど」
「お人好しですねぇ」
なんだかんだ言って、結局は元上司を敬愛してやまないアーロンに、ハリスはクスリと笑ってからかう。するとすかさずアーロンに切り返された。
「その言葉、アンタにそのまま返すわ」
痛い所を突かれて、うっ、と呻き声を上げてしまった。
「でも、仕方ないわよね。あのカリスマの権化に請われたら、腹が立つより嬉しいと思っちゃう方が強いんだもの」
肩を竦めるアーロンに、ハリスも苦く笑った。
そうだ。結局は、そこなのだ。
あの方の……ラスの『頼む』という一言だけで、どんな苦労もしてみせよう、そう思ってしまえるのだから。
彼の成そうとしたことに、正義があると信じられたからでもある。
「俺も、そう思いますよ。多分、自警団だった人間なら、誰だって。まぁ、しんどいってのもありますけど、でもネルヴァであの時、ラスティ総督に出会ったのが、たまたま俺で良かったと思ってます。そうでなけりゃ、こんなふうに彼の意志を引き継いでここに立ってられやしなかったでしょうからね」
ネルヴァでラスが薬物中毒者の浮浪者に絡まれた時、駆けつけたのがたまたま自分だった。その縁で、今この場にいるのだと思うと、本当に不思議だ。
忙しくて死にそうな、大変な目に遭わされている。
だが、ここに立っている自分を誇りに思ってもいる。
相反する思いの、どちらの割合が大きいかというと――――そう思案しかけた時、アーロンが言った。
「たまたまって言うけど、違うと思うわよ? だってアイツ、人を見る目だけは確かだもの」
「はい?」
言葉の意味が分からず首を傾げれば、アーロンは肩を竦めた。
「その浮浪者の事件で駆け付けたのがアンタだったとして、アンタが信用に足る人物じゃなければ、共犯者にしたりしないってこと。だから、たまたまなんかじゃないわよ。しっかりと、意図的に、ラスはアンタを選んだってこと。――ってことで、しっかり働いてよ、総監補殿!」
そう言うと、アーロンはニヤリと笑ってパン、とひとつ大きな音を立てて手を叩いた。
ハリスは同じようにニヤリと応じて、やれやれと肩を上げて見せる。
「ハイハイ、了解ですよ」
相反する思いの割合――不本意ながら、圧倒的に後者が大きいのだから、今日もハリスはせっせと仕事に精を出すよりしょうがないのだった。
***
ハントリー侯爵邸の主の寝室から大きなくしゃみの音が響いた。使用人たちは顔を見合わせたものの、今は主の部屋に入っていくことはできない状況だったため、日々の仕事を続行した。
主であるキャサリン・ローレンシア・ゴードンが夫として迎え入れた人物から、当分の間、許可がない限り寝室には入ってこないよう言いつけられていたからだ。
「大丈夫かしら、キャサリン様……また裸のままでいらっしゃるのかしら。お風邪を召さなきゃいいけど……」
一人のメイドが心配そうに眉を顰めて呟いた。
すると隣で仕事をしていたもう一人のメイドもまた眉間に皺を寄せながら、手にした清潔なリネンをきゅっと握る。
「本当に……。なんだかラスさまがいらしてから、キャサリンさまが服を着てらっしゃる姿を見る方が稀になってきてる気がするもの……」
それ即ち、キャサリンがほぼ裸で過ごしているということで、昼間から口にするには少々憚られる内容だが、彼女たちメイドが心底主を心配しているが故の発言なのである。
主の夫となった人が新妻を片時も離そうとしないのだ。
結婚して数か月。未だ蜜月であると言えるのかもしれないが、それにしても主夫妻ときたら、昼夜問わず寝室に籠もろうとするどころか、下手をしたら寝室以外の場所でも人払いをなさる(中で何をなさっているのかは推して知るべし)ため、使用人たちは心配し始めているのだ。
「それでなくても、ラスさまはあんなに逞しいのだもの。お身体の弱いキャサリンさまの体力がもたないんじゃないかって、ハラハラしちゃう……」
彼らの主であるキャサリンは病弱で、以前はひと月に二度は喘息の発作でふせっていたから、ハントリー侯爵家の使用人たちの気がかりは尽きない。見た目の派手さとは裏腹に、質実剛健を絵に描いたような主を、彼らはとても慕っているのだ。
「でもまあ、キャサリンさまが疲労困憊で部屋から出ていらっしゃらなくても、ラスさまが代わりに執務をされていらっしゃるらしいから」
「……ホント、化け物よね…………」
どれだけ体力があるんだ、とメイド二人は半笑いになった。
あれだけ精力的に新婚生活を満喫していらっしゃるというのに、その上仕事もしっかりこなすなんて、と空恐ろしいものを感じてしまう。
「それに、エマさまも切れ者だったけど、ラスさまはその上を行くっていうか……」
「この屋敷の使用人たちも、あっという間に懐柔しちゃったしねぇ」
少し前までキャサリンの腹心を務めていたエマというメイドが、唐突に辞めてしまった。周囲が息を呑むほどの美貌を持ちながらも、無表情を崩すことなく冷徹にこの屋敷を取り仕切るその家政婦長は、実質このハントリー侯爵邸の女王だった。使用人たちは彼女に怯えつつも、全てを完璧にこなすその見事な手腕に憧れを抱いていた。その為、エマの不在は彼らに大きな不安を与えたが、入れ替わりに現れたキャサリンの夫となったラスという男は、その穴を埋めて更に余りある圧倒的な存在感を放っていた。
使用人たちは当初、唐突に現れた主の夫という男に不信感丸出しで接していた。やたらと美丈夫であったのも一因だった。「ウチのご主人さまをたぶらかしやがって!」と、普段物静かな執事が歯軋りしたのを聞いた者がいたほどだ。
しかしそんな彼らも、ラスの飄々とした天衣無縫な魅力に瞬く間にとりこになってしまった。ラスがエマ以上に政治や経済に慧眼があり、更に人をよく見ていて、適材適所に人を動かす能力に長けていたのも、使用人たちの心を溶かした要因のひとつだ。エマは有能だったが、全てを自分で行ってしまうところがあった。だから、信頼され、仕事を任せてもらえるというのは、使用人の誇りとなっていた。
「まぁ、とにもかくにも、ウチのご主人さま、なんだか癖の強い人ばかり引き寄せるわね」
はぁ、と溜息を吐きながら一人が言えば、もう一人もまた苦く笑いながら頷いた。
「まったくだわ。本当に、苦労なさるわね、キャサリンさまは」
エマといいラスといい、アクが強く食えない人物ばかりに執着されている自分たちの主人に、メイドたちは心から同情したのだった。
***
「へっくしょん!」
夫婦の寝室で、淑女らしからぬ大きなくしゃみをしてキャサリンは身を震わせた。
「大丈夫か、寒いんじゃないのか。こっちへ来い。俺が抱いて温めてやるから」
すぐさま気遣いの言葉をかけてくるラスに、しかしキャサリンはキッと鋭い視線を向けた。
「ご冗談! あなたの傍に行ったら、またあっという間に服を脱がされて、余計に寒い思いをすることになるのは分かってますから!」
片方の手のひらを突き出してNOの意志表示をする妻に、未だベッドの上で裸体を晒しているラスはニヤニヤと蕩けた笑みを見せる。
「よく分かってるなぁ。さすが俺の愛しい妻」
「ラス、私、苦情を言っていますのよ? ちゃんと分かっていらして?」
厭味を華麗になかったことにする夫に、元来素直で生真面目なキャサリンは逆に心配になってしまう。ラスはそんな妻を可愛くて仕方ないといったように、更に相好を崩した。
「愛しているよ、キャス。さぁ、ほら」
早く来いと言わんばかりに逞しい両腕を広げて見せられ、キャサリンはブンブンと首を振って後退さる。
冗談ではない。
ようやくその腕の中から這い出て、数刻ぶりに衣服を身につけられたのだ。また脱がされてなるものか。
「寒くないですから! ただのくしゃみよ! きっと誰かが噂してるんだわ」
ふんっと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
必要以上に可愛くない態度を取ってしまうのは、病弱な人間のように扱われたくないせいだと自分でも分かっていた。
これまでは喘息の発作のせいで、周囲から過保護にされてきた。
それを窮屈だと思いながらも、周囲から甘やかされることに甘んじてきた自分を、キャサリンは恥じていた。
だから発作を起こす原因がなくなった今も、周囲から心配されるとどうしても過剰に反応してしまうのだ。
折角心配してくれたのに、という気持ちから、おずおずとラスの方へ視線を向ければ、ラスはひどく優しい目をしてこちらを見ていた。
「噂か。誰がお前の噂をしてるんだろうな」
キャサリンが内心反省をしていると読んでいるのだろう。敢えて話題を逸らしてくれるラスの周到さに、キャサリンは唇を尖らせた。
ずるい、と思う。
どうしてこの男はこんなにも優しいのか。優しいくせに、それをアッサリと隠してしまえるくらい、ずるい。
キャサリンの気持ちなど手に取るように分かってしまっていて、そのくせ、意地っ張りなキャサリンがこれ以上意地を張らなくていいように導いてしまう。
そんなことをされたら、キャサリンには導かれるまま進むしか方法がない。
――結局は、全部あなたの掌の上。
これ以上はないくらい甘やかされているのに、どうしてか面白くないと感じてしまうのは、自分の器が小さいせいなのだろうか。
「……私の噂をするのなんて、アーロンくらいよ。どうせ、私のことを世間知らずのブスって言ってるのよ」
唇を突き出したままの剥れ顔で呟くキャサリンに、ラスはブハッと噴き出した。
「お前をブスなんて言うのは、アイツくらいだろうな」
「どうして世間知らずは否定しないのかしら!」
「ハハハ!」
良い顔で豪快に笑われて、キャサリンはいよいよ頬を膨らました。
ラスはクツクツと喉を震わせながらそんなキャサリンの腕を取り、腕の中に抱き寄せる。
先程あれだけ騒いでいたくせに、大した抵抗もせず広い胸の中に納まるあたり、キャサリンも結局は夫の体温を感じるのが嬉しいのだ。――非常に悔しいけれど。
ラスは新妻を膝の上に乗せて満足げに頬擦りをすると、その頭のてっぺんにキスを落とした。
「まぁ、アーロンの口の悪さは大目に見てやってくれ。あの毒舌は、懐に入れた人間に対してだけ出る甘えみたいなものだから」
「まあ。そうなの?」
てっきり万人に対してあの傲岸不遜な物言いなのだと思っていたキャサリンは、目を丸くしてラスを見上げる。するとラスは苦笑いをして肩を竦めた。
「そりゃ、アイツだって元商売人だ。誰にでもあんな毒舌を繰り広げてたら、商売あがったりだろう」
「それもそうね」
納得してウンウンと首を振りながら、熊のようなガタイで女性言葉を喋る友人に想いを馳せる。小指を立てて紅茶のカップを持つ彼を想い描き、くすりと笑みが漏れた。
どうしてかあんな奇天烈なアーロンに、最初から好感しか抱かなかった。
「……でも、私、アーロンのあの女性言葉の毒舌、結構好きだわ」
「そうなんだよ。何故かあの方が女性受けがいいらしい。今やアイツも警視総監だ。さすがにあの女言葉のままじゃないだろうな」
女言葉ではないアーロンを想像して、ひどく味気なく感じたキャサリンは眉を上げる。
「それは残念だわ」
「……まぁ、俺たちの前ではあのまんまだろうから」
「また会えるかしら?」
アーロンが多忙な立場となり、世捨て人同然の生活をしているキャサリンとラスとでは、なかなか会うことは難しいだろう。そう分かっていても、キャサリンの数少ない友人の一人だ。やはりまた会いたいと思ってしまう。
――あの人のように。
道を別ってしまった黒髪の後姿が脳裏に過ぎり、キャサリンの青い瞳がわずかに陰る。
期待を込めてそう言えば、ラスはふ、と笑って柔らかく抱き締めてくれた。
「そうだな。また会えるだろう。生きているならば、必ず」
その答えが、アーロンに対するものだけではないと分かったキャサリンは、そっと目を閉じてその胸にもたれた。
――会えても、会えなくても、いいの。
あなただけは傍にいてくれる。
そう信じられる人を得られた幸福を噛み締めながら。