僕だけのクリスティーナ
マーヴィンの結婚式が終わり、レセプションが始まる三十分前のこと。
最後までレセプションに出席したがっていた身重のクリスティーナをなんとか宥め、ウェントワース伯爵家へ先に帰し、ギルバートはジョシュアを連れて兄家族と同じリムジンへ乗り込んだ。
ジョシュアとアイリーンは窓に張りついて、楽しげに遊んでいる。
その様子を兄夫婦と微笑みながら見守っているところで、ルーカスがふと息をついて、首許のバタフライタイを緩める。
「やれやれ、これで全員妻帯者になって落ち着いたな」
「あぁ、これで父さんも母さんも安心してくれるんじゃないかな」
「うふふ、これでお二人も安心されてブライトンで暮らせるに違いないわ」
無邪気に笑うアリスンに頷き、ギルバートはジョシュアを膝の上に乗せる。
滑らかな頬を撫でてやると、ジョシュアはくすぐったそうな笑い声をあげた。
その様子を凝視めていたルーカスも愛娘のアイリーンを抱き上げ、頬にキスを贈る。
そんな二人の様子を笑顔で凝視めていたアリスンが、ふとこちらを向く。
「ねぇ、ギルバート。クリスティーナは順調なのかしら?」
「あぁ、至って順調だよ」
「良かった、予定は八月よね? 今回も私たちからファーストステップシューズを贈りたいわ」
「ありがとう、クリスティーナも喜ぶよ」
アリスンに笑顔を返し、腕の中で気持ちよさそうにうとうとし始めたジョシュアをしっかりと抱き直し、その小さな身体を撫でてやる。
ジョシュアはすっかり安心しきって、それからすぐに眠りに落ちてしまった。
「うふふ、ギルバートに抱かれて安心したのね」
「こうしておとなしく眠っていると、まるでギルバートが作っていたビスク・ドールのようだな」
つくづくといった様子でルーカスが言うのを聞いて、ギルバートは苦笑を洩らした。
自分とクリスティーナの血を引き継ぐジョシュアは、まるで天使のように愛らしい容姿をしている。
人形のようだと褒め称えられることも多々あり、ギルバートにとっても自慢の息子だ。
髪にキスをすると子供特有の甘い香りがして、ギルバートはふと微笑む。
その様子を見ていたルーカスが、思い出したように声をかけてくる。
「しかし、あれだけ大切にしていたクリスティーナ・シリーズをよく手放す気になったな」
「クリスティーナとの結婚を認めてもらう為に必死だったからね」
ルーカスの言葉にギルバートは肩を竦めてみせる。
結婚を大反対していたウェントワース伯爵に、クリスティーナの婿として認めてもらう為なら、自らが作り大切にコレクションしてきたビスク・ドールのクリスティーナ・シリーズをすべて手放すことなど、どうということはなかった。
クリスティーナを想い人形を作っては、その人形を通して美しく成長しているだろう彼女を想像し、悦に入っていたのはもう昔の話。
実際のクリスティーナの、あの柔らかな肌と血の通った温かな感触を知ってからは、冷たくて固い人形を愛でる気も失せてしまった。
それに微笑を浮かべているだけの人形と違い、本物のクリスティーナはくるくると表情が変わるのだ。
ギルバートの言葉ひとつで花開くように微笑み、身体を愛撫すれば、たちまち淫蕩な表情を浮かべ、自分の理想どおりに淫らに腰をくねらせる。
なにも知らず無垢だったクリスティーナが、自分色に染まっていく様を見ているだけで、ギルバートは堪らない悦びを感じることができた。
そしてそれは結婚をしてジョシュアを産んでからも変わらず、ギルバートがどんなに淫らな秘め事を教えようとも、クリスティーナの処女性はまったく失われていないのだ。
初めて出会った時から愛らしかったクリスティーナに、一目惚れをした自分を褒めてやりたい。
庭で眠っていたクリスティーナを見つけた時、天使が舞い降りて羽を休めているうちに眠ったのかと本気で思った。
穢してはいけないとても神聖な雰囲気があり、感情に突き動かされるまま、スケッチブックにクリスティーナの姿を描き写したことも、つい昨日のことのように思い出せる。
そして目を開けば、自分のすべてを見透かすような大きなサファイアブルーの瞳が凝視めてきて、それだけで心を奪われたのだ。
それからというもの明けても暮れてもクリスティーナのことばかり考える始末で、スケッチブックにあの日に見たクリスティーナを表現するように、何枚も描いてみたが――。
そのうちに紙に描いているだけでは物足りなくなり、パブリックスクールを飛び級して首席で卒業をした後、フランスの人形師に師事をした。
そして立体的なクリスティーナを作り上げた時の喜びは、言葉では言い表せないくらい感激したものだった。
絵の中でただ微笑んでいたクリスティーナを、この手に収めることができただけで、身体が震えるほどで。
しかし一体作っただけでは足りなかった。
最初はただ立体になったクリスティーナに生き写しの人形を作れただけで満足していたが、次第にそれだけでは心が満たされず、いつしか人形をクリスティーナ本人に投影している自分に気づいた。
人形を作る腕はまだまだ未熟でもあったし、もっと完璧にクリスティーナを表現したくて、それこそクリスティーナを頭の中で裸にし、理想の曲線を思い描いては、人形を作りあげていく作業を寝食も忘れて没頭した。
少女だったクリスティーナの持っている、あどけない顔立ちや柔らかな肢体を追求した結果、人形はどんどん理想どおりに精度を増していき、師事していた人形師にも認められ、独り立ちを果たした。
そして自宅に戻ってからも本物のクリスティーナの裸を想像しては、ただひたすらクリスティーナを模した人形だけを作っているうちに、いつの間にかクリスティーナ・シリーズと呼ばれるほど膨大なコレクションになっていて。
試しにルーカスに頼み込み、作者不明で出来の悪かった三体を売りに出してみれば、出来が悪いのにも拘わらずあっという間に売れた。
そしてそれが社交界で瞬く間に噂となり、みんながクリスティーナ・シリーズを熱望するのを知り、クリスティーナが自分だけのものではなくなる不安を覚え、それからは世に出すのをやめた。
その間もクリスティーナ・シリーズの噂は一人歩きをして、どんどん価値が上がっていったが、それはギルバートにとってはどうでもいいことだった。
そしてそのタイミングでウェントワース伯爵家から、クリスティーナがギルバートの自宅に滞在して跡取りを選ぶことを知り、身体が喜びに震えた。
こんなチャンスは、もう二度と舞い込んでこないと瞬時に悟り、クリスティーナが来るのを心待ちにしていた。
とはいってもウェントワース伯爵に、毎年クリスティーナを自宅に誘う招待状を出していたのに、返信すらもらえていない状態だったので、自分は端から相手にされていないのはわかっていた。
周りの評価も、家業を手伝いもせずに芸術にのめり込んでいる穀潰しだと思われていたし、きっとウェントワース伯爵も、マーヴィンとの婚約を狙っていたのだろう。
だから先手をかけて、積極的にクリスティーナに迫っていった。
再会したクリスティーナは相変わらず天使のようで、呆れるほど無垢だった。
大事に育てられたせいか年齢より幼さもあり、素直で信じやすく、想像していた以上に理想どおりに育っていて。
だからこちらから積極的に押していき、少々強引にマーヴィンを諦めさせる罠を仕掛けたが、クリスティーナは疑うことも知らずにこの腕に堕ちた。
その時は泣いてしまいそうなほどの喜びを感じ、ようやく欲しかったものが手に入ったことを神に感謝したほどで。
初めて触れたクリスティーナの肌はマシュマロのように柔らかで、それでいてとても温かく、まるで砂糖菓子のように甘い香りがしたのを覚えている。
淫らな行為に戸惑い、首を横に振る姿も食べてしまいたいくらい愛らしく、セーブするつもりが長年の想いに歯止めが利かず、そのまま純潔を奪った。
それでもすべてを許してからのクリスティーナはとても従順で、愛を囁き続ければ、自分だけを凝視める愛らしい存在になって。
まるで雛鳥が初めて見た親鳥に懐くように、クリスティーナはギルバートに純粋な愛を注いでくれている。
そんなクリスティーナが愛おしすぎて、もう二度と手離せなくなった。
クリスティーナさえいれば、他にはなにもいらない。
今まで想いを込めて作ってきた人形ですらただの人形にしか見えず、すっかり執着がなくなってしまった。
クリスティーナの微笑みはそれだけ絶大で、ギルバートの心を根こそぎ奪っていったのだ。
「ねぇ、ギルバート。前から気になっていたのだけれど……」
「なにが?」
「ウェントワース伯爵に結婚を認めてもらう為だったとはいえ、クリスティーナみたいなお人形が、他の人の手に渡るのはいやじゃないの?」
「確かにな。あれだけクリスティーナにそっくりなんだ。少しは複雑な気持ちにならないのか?」
ルーカス夫妻がどこか恐る恐るといった様子で訊いてくるのに、ギルバートは清々しく微笑み、肩を竦めてみせる。
「別になんとも思わないよ」
「なんとも? 少しは惜しいと思わないの?」
「あぁ、だってあれは本物じゃないしね」
「本物ではない?」
ルーカスが理解できないといった様子で首を傾げるのを見て、アリスンもルーカスを見上げている。
そんな二人の戸惑いなど気にもせずに、ギルバートはジョシュアの髪を撫でる。
「僕にとってクリスティーナ・シリーズは、もうただの飽きた人形だよ。人形以上に可愛らしい本物が手に入ったんだから、ただの人形に魅力はないよ」
言いながら安心しきって眠るジョシュアを撫で続けていると、ルーカスもアリスンも顔を見合わせて複雑な表情を浮かべた。
「飽きた人形って……まさかクリスティーナに飽きたら、また別の人形を……とか言わないわよね?」
「まさか。僕にはクリスティーナがすべてだからね。もう一生飽きることはないよ」
「確かにクリスティーナへの執着は尋常ではなかったからな。おまえの執拗さをポジティブに受け容れてくれるような存在はクリスティーナしかいないからな、絶対に離すなよ」
「もちろん。生涯を懸けて愛すると誓ったしね」
忠告してくるルーカスに微笑み、ギルバートはジョシュアの髪を撫で続ける。
今までの人生を振り返れば、ほとんどの時をクリスティーナに捧げてきたのだ。
飽きるなんてとんでもない。むしろあの柔らかな身体を抱きしめるだけでますます愛着が湧いて、妊娠さえしていなければ毎日だって抱けるほど愛している。
「早く子供が生まれないないかな……」
「そうね、ジョシュアもこんなに愛らしいし、きっとまた可愛い赤ちゃんが生まれてくるわ。楽しみね」
「……あぁ、本当に楽しみだよ」
アリスンはごく普通に受け止めたようだが、早く子供が生まれたら、またクリスティーナを思う存分抱けるという、ギルバートの思惑には気づいていないようだった。
しかしわざわざ波風を立てる気もないので、アリスンに微笑み、ギルバートはむずかり出したジョシュアを抱き上げて背中を撫でる。
きっとみんなが知ったら呆れるだろうが、ギルバートにとってはクリスティーナ以外のことはどうでもいいことだ。
もちろんクリスティーナとの間に生まれた子供は、人並みに可愛いと思うし、心から愛している。
最愛のクリスティーナと比べても、また違ったベクトルの愛情なので比べようもない。
子供が生まれることでクリスティーナがとても幸せそうにしているので、子供がいるのも悪くないと思っている。
父親失格の考えかもしれないが、クリスティーナの幸せが自分の幸せでもある。
だから子供たちを愛することで彼女が微笑めば、それでいい。ただそれだけのことだ。
「さて、そろそろ我が家に着くぞ。招待したゲストを歓迎して、次の仕事に繋げないとな」
「あぁ、そうだね。僕の仕事に関わっているゲストもいるし、きちんと挨拶をしないと。アリスン、申し訳ないけど、その間ジョシュアを見ていてくれる?」
「えぇ、もちろんよ。アイリーンと一緒に遊ばせておくわ」
にっこりと微笑むアリスンに頷き、ギルバートは車窓から空を見上げる。
雲ひとつない空は、まるでクリスティーナと出会った時のように、抜けるような青空だった。
退屈なだけのレセプションが終わって、ウェントワース伯爵家に帰ったらなにかいいことがありそうで、ギルバートはクリスティーナに似た香りのするジョシュアを抱きしめたまま、笑みを深くしたのだった。