秘めやかな合図
――ヴァレオ様、どこ?
ティエラはヴァレオの小さな姿を求めて木々の間を走っていた。
『ティエラ。ねぇ、森に遊びに行こうよ!』
幼いヴァレオの要請で、この日、ティエラたちは屋敷に隣接する森へ二人だけで遊びに出かけていた。
森と言っているが、それほど広くはない。林を少し大きくしたようなものだ。人の手が入り、危険な肉食動物が入らないようにきちんと管理されている。だからこそ屋敷の大人も子ども二人だけで遊ぶことを許可してくれるのだ。
二人にとって森はかっこうの遊び場だった。ただ、十歳になったばかりのヴァレオは少しやんちゃで、じっとしてくれない。興味を引かれるものがあればすぐにそちらに走っていってしまう。ティエラにとっては少しヒヤヒヤする時間でもあった。
この日も手を繋いで木漏れ日の差す細い道をのんびりと進んでいたのに、ヴァレオは茂みの奥に小動物の姿を見かけたようで、ティエラの手を離してそちらに突進していった。
『ウサギ! ウサギだよ、ティエラ!』
『あ、ヴァレオ様! 触れたらだめですからね!』
ティエラはヴァレオを追いかけて茂みに向かう。けれど、すでに茂みの奥にヴァレオの姿はなかった。
『……ヴァレオ様?』
ウサギを追いかけて更に奥に行ってしまったのだろうか?
『ヴァレオ様!』
慌ててティエラはヴァレオの姿を捜す。けれど周辺に彼の姿はなかった。
『ヴァレオ様、どこですか!? 返事をして下さい、ヴァレオ様!』
ヴァレオの姿を捜して木と木の間を走り回る。
――ヴァレオ様、いったいどこへ行ってしまったの?
時々こんなふうにティエラはヴァレオの姿を見失ってしまうことがあった。そのたびに捜し回るのだ。
『ヴァレオ様!』
いつもだったら、わりとすぐに見つかる。ヴァレオはティエラが捜し回ったなどと夢にも思ってなかったように、きょとんとした顔で彼女の汗に濡れた顔を見返すのだ。けれど、この日はなかなかその姿を見つけ出せなかった。
『ヴァレオ様、どこですか? ヴァレオ様!』
ティエラは走り回りながら、不安にかられた。
もしかしたら何かあったのだろうか? 怪我をして返事もできなかったのだとしたら? 安全だと思っていたけれど人攫いにでも出くわしていたら?
――ああ、もしヴァレオ様になにかあったら……!
『ヴァレオ様……!』
必死に走りながらティエラはヴァレオの姿を捜す。けれど、木と木の間を抜けながらティエラはふと自分の姿が変わっていることに気づいた。
十二歳だったはずなのにいつの間にか大人の姿になっている。着ているものもスカートから執事姿の燕尾服へと変わっていた。
――私……?
とたんにティエラは今自分が何をしているのか分からなくなる。なぜ、森を走り回っているのだろう?
でも足は止まらない。何かに急かされるようにティエラは足を運んだ。手にはいつの間にか護身用として隠し持っていた小さなナイフが握り締められている。
――ああ、そうだ。あの記号を刻まなくては。ヴァレオ様と私が使っていた秘密の合図を……。
あの記号の意味はヴァレオだけが知っている。あれさえあれば、ヴァレオはティエラを捜せるのだ。
そこまで考えて、ティエラはまた混乱する。
――あら? 私がヴァレオ様を捜しているのではなかったかしら?
「ヴァレオ、様……どこ?」
そう口にした瞬間だった。走っていたティエラはいきなり足を取られ、真っ暗な沼に沈んでいく。
――沼? この森に沼などないはずなのに?
――この森とはどこの森のこと?
錯乱するティエラの口に水が入ってくる。
――苦しい。息ができない。
――ヴァレオ様……!
その時、不意に誰かの手がティエラの手を掴んだ。
「ティエラ……!」
声と共にその誰かが、光のある方へ自分の身体を引き上げていくのを、ティエラは感じた。
****
「ティエラ!」
その呼び声にハッと目を開けると、目の前にヴァレオの心配そうな顔があった。
「ティエラ。よかった」
ホゥと安堵の息がヴァレオの口から漏れる。
「ヴァレオ……様? 私は……」
混乱しながらティエラはヴァレオを見上げる。それから周囲を見回して、そこが森などではなく領地の屋敷(カントリーハウス)のヴァレオの寝室だと知ると、力を抜いた。
「夢……だったのですね……」
「ひどくうなされていたよ。大丈夫?」
ヴァレオはティエラの汗ばんだ額に貼りついた髪をかきあげると、手で頬にそっと触れた。
「何の夢を見ていたの?」
「……森の夢、です。最初は子どもの頃の姿でヴァレオ様を捜していたんですけど、気づいたら大人の姿で森をさ迷っていて、足を滑らせて水に落ちて……」
思い出してぶるっと震えるティエラの裸体を、ヴァレオは胸に抱き寄せた。肌に触れる馴染みのある感触と温かさにティエラは安堵の息を吐く。
夢の中の出来事だが、その大部分は実際にあったことだ。幼い頃、屋敷に隣接する森で、迷子になったヴァレオを捜し回ったことも、オルジュ伯爵家が所有する森でさ迷い歩いて沼に落ちて溺れかけたことも。
普段はその時のことを夢に見ることはないが、今日はヴァレオと共に王都の屋敷からこの領地の屋敷へと久しぶりに戻り、環境が変わったことや疲れていたこともあったのだろう。
「大丈夫だ、ティエラ。君は無事にこうして僕の腕の中にいるんだから。それはただの夢だ」
「はい」
ティエラは従順にうなずくと、ヴァレオの裸の胸に頬を寄せる。すっぽりと彼の体温に包まれて、安心感が波のように押し寄せてきて悪夢が追い払われるのをティエラは感じた。
ふと口元の笑みが浮かぶ。
「大丈夫です。だって、あの時も夢の中でも、ヴァレオ様が私を助けて下さいましたもの」
沼に落ちたティエラを捜し出して引き上げたのもヴァレオだ。夢の中でティエラの腕を引いて光に引き上げてくれたのも。
「私……森をさ迷っている間、ヴァレオ様がきっと捜しに来てくれると思っていました」
拉致され、オズワルドのいる小屋から逃げ出してどこかも分からない森を彷徨している間、ヴァレオならきっとティエラの居場所を掴んで捜しにきてくれると信じて疑わなかった。
だから、持っていたナイフで昔使っていた二人だけの秘密の合図を行く先々で木に刻みつけていったのだ。ヴァレオが目にしたら、必ずティエラのところまでたどり着くと確信があったから。
ティエラの頭のてっぺんにキスを落としながらヴァレオは微笑んだ。
「もちろんだとも。ティエラが僕から黙って離れていくわけないもの。あの印も見た瞬間、君が刻んだものだと分かった」
すぐにティエラから離れて単独行動をしてしまうヴァレオ。何度言い聞かせても駄目だったから、せめてすぐに捜し出せるようにと考えついたのがあの印だ。
どの図柄を使うかは二人で一生懸命考えた。アークライド伯爵家の紋章に描かれている三つの木をモチーフにすることを思いついたのはティエラだ。ヴァレオがそれを幼い彼でも書きやすい形に整えた。何時間も子供部屋に籠って考えたその図柄は、それ以降二人だけの秘密の合図になった。
森に行く時には互いにチョークを持ち歩き、遊びの一環として単独行動をする時は必ず印を木につけていくようにした。こうすればどこを通ったか分かるから、迷子になっても捜し出しやすいからだ。その頃、年上のティエラとヴァレオとの間には身長差があったため、同じ図柄を使ってもどちらが描いたものかすぐに分かって便利だったのだ。
だが、ちょうど二人が同じくらいの背の高さになるまで成長すると、お互い忙しくなりめったに森に行くこともなくなってしまった。チョークで書かれた印もすっかり落ちて、今では二人が遊んだ形跡もなくなっているだろう。
くすっとヴァレオが笑った。
「今だから白状するけど、実は森でティエラの傍からよく離れて単独行動していたのはわざとだったんだよ。僕を必死で捜すティエラが見たくて」
「えっ……?」
ティエラの口があんぐりと開いた。
「だって泣きながら僕に抱きついてくるティエラも、僕が『もう離れない。傍にいるから』って言うと安堵からふにゃっと笑うのもすごく可愛かったんだ。それが見たくてわざと離れてティエラの様子を見ていたんだよね」
「何ですって……?」
にこにこ笑ってそんなことを言うヴァレオにティエラは絶句した。毎回必死になって捜していたというのに、まさかわざとだったとは……!
「ごめんね。モーリスにもバレて怒られたよ。だから合図を作ったのを機にやめた。ティエラの泣き顔も可愛かったけれど、でもやっぱり笑顔が一番だからね」
悪びれもせずに言うと、ヴァレオは笑いながらティエラの額にキスを落とす。
――ヴァレオ様ったら……!
ティエラとしては怒ったらいいか笑ったらいいのか分からなかった。
主人と執事ではなく、身体を重ねて男女の関係になるまで気づかなかったが、ヴァレオは案外意地悪だ。特にティエラには。どうやら彼女を好きすぎてつい意地悪してしまうらしい。
「ごめんね。もう二度としないから、許して?」
ヴァレオはティエラの手を取ってその甲に恭しく唇をつける。
「もうこの手を放しはしないから」
きゅんとティエラの胸が鳴った。誤魔化されているだけだと分かっているが、こんなふうに言われたら怒るに怒れないではないか。
――ああ、皆にも言われていることだけど、本当に私はヴァレオ様に甘い。
「誓うよ、この手は絶対に放さない」
ヴァレオは指をティエラの指と絡めるように握り締めると厳かな口調で言った。
「……もう、あんなことをしては駄目ですからね?」
結局この一言で許してしまうティエラもたいがいだろう。
秘密の合図の話をきっかけに、二人は横たわりながら森での色々な思い出話を語り合った。二人には共通の思い出が山ほどあるので話は尽きない。話は地平線から顔を出した太陽が完全に姿を現すまで途切れることなく続いた。
「ああ、そうだ。久しぶりに森にでも行ってみるかい? さすがに今日はゆっくり休めるだろうから」
不意にヴァレオが言った。ティエラは微笑む。
「はい。ぜひご一緒させてください」
二人が主人と執事としてではなく、当主とその婚約者として領地に戻ってきたのは今回が初めてだった。そのため、昨日は屋敷をあげての歓迎会となり、近隣から懇意にしている領主や有力者たちなどがひっきりなしに訪れて、息をつく暇もなかった。ようやく二人きりになれたのも夜半を過ぎたあとだったほどだ。
「屋敷のことはモーリスにまかせて我々はのんびりしよう」
「はい」
ティエラが最高責任者である王都の屋敷とは違い、ここには家令として留守を預かっている父モーリスがいる。一応ここでもティエラには執事としての役目はあるが、王都にいる時ほどやることは多くない。ヴァレオがいつもより時期を早めて領地に帰ることにしたのも、ティエラを休ませたいという思いがあるからだった。
「今回は執事じゃなくて僕の婚約者として来ているんだから、指示をするのはともかく、働くのはなしだよ、ティエラ」
「でも、少しくらいは……」
根っからの働き者であるティエラにはただ座って指示するだけというのは性に合わないのだ。けれど、ヴァレオは首を横に振った。
「だめだよ。働いている暇があったら僕の傍にいて、僕のことだけを考えていて」
ティエラは視線をあげてヴァレオの青い目を見つめた。
「私は……いつだってヴァレオ様のことだけ考えていますよ?」
そう。いつだってティエラはヴァレオのことだけ考えて生きている。彼はティエラの世界そのものだ。ヴァレオがいなければきっとティエラは息をすることだって難しいに違いない。
「もっと。もっとだよ。もっとずっと僕のことだけ見ていて」
ヴァレオが囁きながら頭を下げた。ティエラは彼の望むものを察し、薄く開いた唇を差し出す。
「……んっ……」
最初は触れ合うだめのキスはすぐに深く濃厚なものへと変わる。舌を絡ませ合いながら、ティエラは下腹部に熱が溜まり子宮が疼くのを感じた。
――あの二人だけの合図を使うことはおそらく二度とないだろう。森で探検ごっこをしていた子どもは大人になってしまったからだ。
……けれど、今の二人にはもっと別の秘密の合図がある。
「……ティエラ……」
少しだけ唇を離したヴァレオがティエラの口元で彼女の名前を誘うように囁く。言葉だけでなく、ティエラの細い腰に回った手が官能を煽るように肌を滑り、お尻の窪みから背筋をすーっと撫で上げる。
「……あ……」
――それは、ティエラを淫らに誘う、秘めやかな合図。
ぶるっと身体を震わせると、ティエラは恥ずかしそうに頬を染めながら脚を開いた。ヴァレオに身体を委ねる印として。
そんな二人だけの秘密の合図は、これからも密やかに続いていく。