その後
「いよいよ来週だね」
柔らかな日差しが心地よい春の午後。
クロフォード邸のテラスで、ミルクティーのカップに口をつけていたオーレリアは、テーブルを挟んで向かいに座っているヴィクトールへと目を向けた。
「……ええ」
その言葉の意味するものに気づき、オーレリアはティーカップをソーサーに戻しながら、照れくさそうに微笑んだ。
――あれから半年が経った。
事件が解決してからほどなく、二人は正式に婚約した。
ヴィクトールの惜しみない愛情に包まれながら日々を過ごす中で、オーレリアにとって節目となる出来事があった。
オーレリアの弟リシャールが、正式にクロフォード家の家督を相続したのである。
彼の継承については、体調面の不安もあり、また精神的にも必要以上に負担を掛けたくないと、オーレリアはこれまで二の足を踏んでいたのだが、このところのリシャールの目覚ましい快復ぶりに、王立病院の医師もこれならと太鼓判を押したのである。
国王の前で臣下として忠誠を誓うリシャールの凛々しい姿を伯父が見たら、どれほど喜んだだろうとオーレリアは思わずにはいられなかった。
そして日々は穏やかに流れ、もうじきオーレリアはヴィクトールの妻になる。
「ねえ、本当に見せてくれないの?」
「え?」
「君のドレス姿だよ。式当日までは駄目だって、絶対に見せてくれないだろう?」
どこか不満そうな彼の問いかけにオーレリアは戸惑う。
今日は出来上がった婚礼衣装の試着と最終的な調整を行っていたのだが、その最中にヴィクトールが訪れた。ヴィクトールはウェディングドレス姿のオーレリアを是非見たいと言ったのだが――。
「だ、駄目よ」
「どうして?」
「どうして、って……」
何と言えばいいのだろう。
オーレリアとしては、一生に一度しか着ることのない花嫁衣装なのだから、中途半端な状態ではなく、きれいに仕上がった姿を見てもらいたい。そんな女心からだったのだが、上手く言葉にして伝えられず口ごもる。
「――ああ……だけど、やっぱりやめた方がいいかな」
けれど、すぐに何かに気づいたようにヴィクトールが呟いたので、オーレリアが小首を傾げた。
「やっぱり?」
不思議そうにオーレリアが問いかけると、ヴィクトールが悪戯っぽく微笑んだ。
「だって、今ウェディングドレス姿の君を見たら、我慢できずにそのままベッドへ攫っていきたくなりそうだからね」
「……っ」
途端、オーレリアの頬がさっと赤くなった。気まずげに目を伏せてしまった彼女を見て、訊かなければ良かったと後悔しているんだろうな、とヴィクトールは苦笑する。
想いが通じ合って以来、ヴィクトールはオーレリアに口づけ以上の行為をしていない。
オーレリアが拒んだわけではない。――気づけば、挨拶の時に軽く唇に触れあわせるだけの、そんな清らかな関係になってしまっていたのだ。
ヴィクトールとしては、オーレリアを抱きたいという気持ちは常にある。
けれど、会うたび心から嬉しそうに微笑み、愛を囁かれるたび頬を染めて恥じらう可憐な彼女を見てしまうと、唇を重ねる以上の行為に出ることはどうしても憚られてしまうのだ。――ある意味、毒気を抜かれてしまうと言ってもいい。
これまでヴィクトールはオーレリアからずっと拒まれてきた。だから、余計にそう感じてしまうのかもしれない。
オーレリアと出会うまで、ヴィクトールは常に相手から求められる側だった。彼が望まずとも、相手の方がヴィクトールを欲し、彼はそれに身体を重ねて応えるだけだった。それが、ヴィクトールにとっての『恋人の定義』だった。――だからこそ、オーレリアのように常に受け身で、求められることに慣れていない初々しさを、ヴィクトールは愛おしく思うのだ。
ふとした折に、ほんのわずかに指先が触れ合っただけでも、オーレリアはひどく恥ずかしがる。そして、そんな時に見せる彼女の艶めいた表情に、ヴィクトールがどれほど魅せられ、欲をつのらせているか、オーレリアは気づいていない。
ヴィクトールが望めば、オーレリアは口づけ以上の行為でも受け入れるであろうことは分かっている。恥じらいながらも身を委ね、戸惑いながらも施される愛撫に蕩けていくのだろう。けれど、今はまだそうしたくない。
オーレリアの恋はまだ始まったばかりなのだ。そして彼女がようやく気づき、育んでいる『彼への想い』を、ヴィクトールもまた大切にしたいと思っている。
愛情を伝えるために身体を繋げることは簡単だ。けれど、それだけでは得られないこともある。身体ばかりを求めて、心を置き去りにしたくない。ヴィクトールが欲しいのは、何よりもオーレリアの心なのだから。
――だから今はまだ。
「やっぱり、楽しみは結婚式当日までとっておくよ。――ああ、そうだ、君のお気に入りのカフェに新作のケーキが出たらしいよ。今度行ってみないか?」
「え? 本当に?」
ヴィクトールの方から話題を変えたことで、オーレリアがほっと安堵するのが分かった。そんな彼女の分かり易い反応に、ヴィクトールは内心で苦笑する。
――焦らなくても、楽しみは初夜までとっておけばいい。
待つ楽しみもある。待てば待つほどに、得られる喜びも大きいのだから。
どれほど甘く乱してあげようか。そう考えるヴィクトールの端麗な口元には、妖艶さの滲む笑みがほのかに浮かんでいた――。
おわり。