ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

新たな決意

 崖を背にして幕舎を張り、アルマンスールの一隊は夜に備える。
 ファティマナザを出てすでに五日が過ぎ、荒れ野続きの厳しい行軍に兵士たちも疲れが隠せなくなり始めていた。
 それでも一刻も早くフィラール国へ辿り着かなければ、セム族の侵略がそれだけ激しくなり勝利が遠のく。
「今日はご苦労だった。明日も早い。少しでも長く身体をやすめてくれ」
 兵士たちを労ったアルマンスールは、自分も幕舎に入って横になった。
 夜風に交じってたき火の爆ぜる音が聞こえる。
 夜警の兵士の疲労も察せられ、できることならば替わってやりたいと思う。
 けれど一隊を率いるアルマンスールは、疲れた顔も不安なさまも見せてはならない。常に細心の注意を払って隊を守り、勝利へと導く責務がある。起きている間は頭も身体も極限まで使う。そのために一番休息を必要としていた。
 目を閉じたアルマンスールは胸元に手をやり、ターコイズの首飾りに触れる。
 ――アルマンスールさま……これを……。私の代わりに側に置いてください。
 そう言ってロッカラーナが自らの手でかけてくれた首飾り。
 卑劣な手段で故国から引き離された彼女にとって、唯一の思い出の品であり両親の形見だ。胸にしっかりとおさまるイドリーサンザの貴石の確かさは、どんな境遇にあっても誇りを失わないロッカラーナそのものだ。
 ロッカラーナが肌身離さなかった石を一つひとつまさぐると、彼女の肌の温もりが指先に甦ってきて腹の奥が熱くなる。
 出征の前夜、腕の中で激しい快楽に喘いだ美しく淫らな顔と熱い息を思い出す。
 ――あなたを……行かせたくありません……。
 喜悦の中で洩らしたあの言葉は彼女の本心だ。
 ――必ず戻ってきてください――あなたの命を奪う権利があるのは、あなたに命をもらった私だけです。
 自分を犯した男を許すときも、彼女は凜として誇り高かった。
「ロッカラーナ……」
 呟く唇が熱を孕み、短い音に愛しさが零れる。
 なんとしても約束どおりイドリーサンザへ戻ろう。彼女と交わした約束を破ることなどあってはならない。
「たとえおまえの顔を見た瞬間に命が尽きようとも俺は戻るぞ、ロッカラーナ。だからおまえも生きていろ――何があってもだ」
 まるで目の前に彼女がいるかのように、アルマンスールは語りかける。
 自分がいない間にムスタンシルがロッカラーナに何をしかけてくるかなど、手に取るようにわかっている。
 あの卑劣な王が持ちかけた賭けは絵空事で、勝敗など最初から決まっている。
 アルマンスールが国を離れればその生死にかかわらず、王はロッカラーナに手を出すだろう。自分がいない今、誰も彼女を庇うことも助けることもできない。
 ましてロッカラーナにそれを拒む術はないだろう。
「ロッカラーナ――すまない」
 彼女がどこまでもイドリーサンザの王女であるように、自分はファティマナザの王子だ。何が起きるかわかっていても、やらなければならないことがあった。
 ――生きろ、何があっても、どんなことをしても生きろ。恥など生きていればいつか過去になる。
 アルマンスールが言える精一杯の言葉だった。
 たとえムスタンシルに穢されても、心まで失うことはない。
 虫けら一匹が肌を這ったところで気にすることなど――。
「俺のものだ……あの身体も心も全て……」
 覚悟はしているが、ムスタンシルがロッカラーナを己のものにすることを想像すると、呻きが抑えられない。
 月の光を浴びて輝く肌も熱で濡れる翠の瞳も、そして喜びを訴える赤い唇も全て、自分だけが知っていたい。
 他の男には見せたくない――彼女が他の男に抱かれることを考えただけで怒りと妬みで脳が焼き切れそうになる。気持ちの動くままに馬を駆って、ファティマナザに戻りたいと願う。
「今すぐにおまえを抱きたい」
 首飾りを強く握って、アルマンスールは歯を食いしばる。
 柔らかな身体の奥に隠れた蜜肉の花びらを貫いていいのは自分だけだ。蠢く媚肉に包まれて法悦を味わうのは、自分でなければならない。
「くそっ――」
 身体の奥が疼いて、己の雄が硬く反応する。
 こんなことならムスタンシルの命を終わらせてくればよかったとさえ考える。
 国がどうなろうとロッカラーナを連れて逃げれば、こんな思いはしなかった。
 次から次へと浮かぶ想像で錯乱しそうになったとき、外から『ばちん』とたき火の爆ぜる音がして、アルマンスールは我に返った。
 寝ずの番をする兵士はどれほど辛いことだろう。連夜、土の上で眠る彼らは一日も早く国に戻りたいはずだ。
 愛しい者を国に残しているのはアルマンスールだけではない。
 けれどみなアルマンスールを信じ、不平も言わずについてきてくれる。
「俺は……馬鹿だ」
 ムスタンシルの横暴をかわしたロッカラーナの言葉が不意に甦る。
 ――ファティマナザのために、アルマンスールさまが王になることを、望んでおります。
 そうだ。誰よりも心細く、それを必死に耐えているのはロッカラーナだ。
 自分のつまらない嫉妬などどうでもいい。何よりもまずこの責務を果たそう。そしてロッカラーナを守り幸せにできる男として、ファティマナザへ戻る。
 この夜、アルマンスールの胸に新たな生きる目的が宿った。
                                    
                                       終

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