新しい家族
足早に窓へと近づいたデュミナスは、外を見ることもなく部屋の中央に引き返した。そしてそのまま意味もなくソファの周りをぐるぐる回る。その動きを繰り返すこと、既に三回。
「……兄さん、もう少し落ち着いたら?」
のんびりとお茶を飲みながら呆れたようにこぼす弟を、デュミナスはくびり殺さんばかりの表情で振り返った。
「ふざけるな。落ち着いていられるわけがないだろう。今まさに俺のつがいが生死の境を彷徨っているんだぞ……っ」
「……まぁ、出産は確かに大変なことだけど……だからといって兄さんがウロウロしていても何の役にも立たないでしょう? むしろ図体がでかいだけに邪魔にしかならないよ」
「くそ……っ、今はいったいどんな状況なんだ? ヴィオレットが部屋に籠ってからもう何時間経ったと思っている? それなのに全く俺に報告がないじゃないか。だから俺も分娩に立ち会うと言ったのに……!」
「それはヴィオレット様に固くお断りされたでしょ」
つがいが自分の子供を産むのだから、当然デュミナスも一緒にその場に控えるつもりだった。愛しい妻を励まし助けられるのは自分だけと意気込み、やる気満々でいた。けれども、愛らしく誇り高いヴィオレットは『冗談ではない』と怒り狂ったのだ。
曰く、『貴方がたの習慣や掟にはできる限り従うつもりでおりますが、こればっかりは承諾しかねます!』と涙目で真っ赤になっていたのが鮮明に思い出される。あれは非常に可愛らしかった。いやそれはともかく―――
「本当に無事なのだろうな?」
苛立ちを隠さない声でデュミナスが室内のメイドに八つ当たりをしていると、フレールに無理矢理椅子へと座らせられた。
「そんなこと、彼女に聞いても分からないでしょ。ちょっと冷静になってよ。医者なら獣人を三人、人間を二人もつけているじゃない」
「それはそうだが……」
ヴィオレットの妊娠発覚以来すぐに、産科の専門医を集めた。その中でも特に優秀で人柄に問題のない者を揃えたつもりだ。更に彼女の妹であるイノセンシアを通じて、人間の医師も派遣されてきた。本当はイノセンシア本人がこちらに来たがっていたが、あちらも妊娠の兆候があるとかで、それはまたの機会にという話になっている。
どちらにしても、医療体制は万全だ。何があっても対応できるよう、あらゆる薬も準備してある。だが、デュミナスの不安が尽きることはない。
知る限り、この世で初めて獣人と人間の間に生まれる子供。いったい何が起こるのか、それは誰にも分からない。ひょっとしたら、母子ともに無事ではいられないかもしれない。あらゆる悪い想像を巡らせては、その度に暴れ出したいほどの焦燥にデュミナスは駆られた。
しかも陣痛に耐えるヴィオレットはこのまま死んでしまうのではないかと心配になるほどとても苦しそうで、デュミナスは叶うならば代わってやりたいと願ったくらいだ。しかし、悔しいけれどもフレールの言う通り、こんなときに男にできることなど何一つありはしない。
「冬眠前の熊じゃないんだから……今はヴィオレット様を信じてどっしり構えて待つのが、兄さんの役目じゃないの? まったく……こんな情けない姿他の奴らには見せられないよ……」
これみよがしに溜め息を吐くフレールを殴り飛ばしたかったが、ここは弟の言うことの方が正しいと判断するなけなしの理性はデュミナスにも残っていた。
拳を握り締め、こめかみに青筋を立てつつも、どうにか平静に戻ろうと試みる。
「くそ……っ」
掌に喰いこんだ爪が痛い。だがヴィオレットを苛んでいる苦痛は、こんなものではないだろう。すぐ隣の部屋で、今まさに自分のつがいが二人の間にできた子を産み出そうと頑張ってくれているのかと思うと、居ても立っても居られない。壁越しに隣室から聞こえてくる気配を探り、デュミナスの眉間には深いしわが寄った。
数時間前から始まっていた陣痛だが、我慢強い彼女は額にびっしょりと汗をかき奥歯を噛み締めながらも悲鳴をあげることをよしとはせず、必死に耐える様は健気でもあり、もどかしくもあった。
いっそ「痛い、辛い」と泣き喚いてくれた方が、楽になれるのではないだろうか。何なら、激痛から気を逸らすためにデュミナスに爪を立て噛み付いても構わないものを。
一人でじっと堪える彼女は立派だが、頼られていないのでは―――という嫌な妄想を振り払ったそのとき、ヴィオレットの呻き声が響き渡った。
「……あぁああっ……!!」
「ヴィオレット!」
隣室で慌ただしい物音が交錯する。合間に、「ヴィオレット様! 頑張ってください、ネルシュがついております!!」という誠実な侍女の叫び声が聞こえた。
―――ちょっと待て、何故そこにいるのが俺じゃないんだ?
お門違いな嫉妬だけれども、ヴィオレットに絶大な信頼を寄せられている彼女が妬ましくてならない。自分には入室さえ許されないその部屋に、医療に明るくもなければ出産の経験もないネルシュが何故控えているのか。
が、刹那の不快感はこちらに走り込んできたフィラの言葉で吹き飛ばされてしまった。
「……お産まれになりました!」
歓声が上がる中、デュミナスは扉を蹴り開けてヴィオレットのもとへ向かう。まだ騒然としている医務室の中央では、愛しいつがいがぐったりとベッドに横たわっていた。
「ヴィオレット……!」
「デュミナス様……」
半ば朦朧としつつも、自分を見つけてほっとしたように微笑んでくれたことが嬉しい。デュミナスが駆け寄り、力なく投げ出された彼女の手を握れば、弱々しくも握り返してくれた。
「よく頑張った……! お前は大丈夫か? 何か欲しいものがあるならば、言え。どんなものでも手に入れてやる」
「……ありがとうございます。けれどそれよりも私たちの息子をご覧になってください」
勇んで前のめりになる夫を窘め、母となったヴィオレットは、より一層艶やかに輝いていた。まだ身体が辛いだろうに、毅然とした様は見惚れるほどに美しい。
「あ、ああそうだな。息子……息子なのか」
狼の獣人であれば、一度の出産で四人から五人は産む。だが人間の一回の出産では大抵一人だけなのは、既に勉強済みだ。デュミナスは様々な文献を取り寄せ、今や図書室はやたら妊娠・出産・育児に関する専門書の割合が増えてしまった。最近では他の獣人にも閲覧を許しているため、好評を博している。
「獣王様、どうぞ」
医師の一人からそっと手渡されたのは、柔らかな布に包まれた黒い毛玉だった。全身を覆う体毛はまだ濡れているが、間違いなく己の血を引いていると分かる毛並み。そして獣の姿。まだ眼は開いておらず、小さな鼻をピスピスとうごめかしていた。
「小さいな……」
強く抱くと壊してしまいそうだ。恐る恐る覗き込めば、息子は前脚を震わせる。
「ええ。でもとっても可愛らしいです」
幸せそうに相好を崩すヴィオレットには、自身の腹から獣の子が出てきた衝撃など微塵もないようだった。それよりも、乳を与えるのはどうやるのか、いつ眼を開けるのかなど矢継ぎ早にフィラへ質問している。
「人間の子は首が据わっていないと抱くのが難しいそうですけれど、この子はどう支えればいいのかしら? それから……」
「ヴィオレット様、まずはお身体をお休めください」
放っておくと、起き上がって教えを請いそうなヴィオレットを、フィラが優しく諭した。
「ヴィオレット様、明日からは私がきちんとお教えいたします。ゆっくりしていただけるのは本日だけですよ? どうぞ獣王様とお過ごしください」
「あ……」
デュミナスも、今日に備えて仕事は前倒しでこなしてはあるが、明日からはまた多忙になると予想される。おそらく、祝辞を述べる客も大挙して訪れるに違いない。そうそう時間も空かないだろうし、その後は育児も忙しくなる。つまりは、夫婦二人で語らえる時間も暫くはないと思われた。
「そうだな……、この子の名前も決めなければならないし」
ある程度候補は考えておくべきだと言う者もあったが、結局は生まれた我が子の顔を見てから決めようとヴィオレットとは話し合っていた。男の子でも女の子でも、その子にぴったり合うものを最初の贈り物として与えようと。
「のちほど、またお連れしますね」
息子はひとまずフィラが連れて退出する。落ち着いて休めるようにと、ヴィオレットも寝室へと運ばれ、気を遣った皆が立ち去ればデュミナスと二人きりになった。
「―――眠ってもいいぞ」
「いえ……この幸福感を楽しみたいのです。それにしても、出産とは想像以上に大変なのですね。私びっくりしました。イノセンシアも妊娠しているようですし、心配ですわ……あの子身体が弱いから……」
「お前は、こんなときまで妹の心配か。俺がどれだけお前と子供の身を案じていたと思っている。もっと俺に頼って甘えてもいいのではないか」
本人は認めないが、相変わらず妹を溺愛しているヴィオレットは、遠く離れたイノセンシアを思い浮かべて表情を陰らせた。それが何だか悔しくて、デュミナスは彼女の白金の髪に口づける。
「大袈裟です。この通り、私は丈夫ですから」
強気な発言をしてはいるが、ヴィオレットの顔色は明らかに悪かった。当然だろう。人生初めての出産に挑んだばかりなのだから。それもどんな姿かたちで、無事に産まれるかどうかも不明な、全てが手探り状態の中だ。不安がなかったはずがない。
「……知っている。でも、俺は怖かった。もしもお前を喪えば、きっと狂ってしまうだろうから」
「……狡いですわ。それじゃあ私、絶対に先には逝けませんのね。でも、私だってデュミナス様を見送るのはお断りいたします」
「勿論、一人でなど俺も御免だ。そのときは―――」
昏い妄想が頭を過る。それに気づかなかったはずはないのに、ヴィオレットは気にした様子もなくデュミナスの手に触れた。安堵させるように指を絡め、互いの存在を確認しあうようにそのまま熱を伝え合う。
「……甘えても、よろしいのですね? でしたら、今すぐ獣の姿になっていただけませんか?」
「は?」
突然の彼女の要求にポカンと口を開けていると、ヴィオレットは期待に輝く瞳を向けてきた。
「お願いいたします。最近ずっと貴方の毛並みに触れていないのです。それどころか、全くモフモフしておりませんわ!」
「いや、でも」
正直、デュミナスにとってはヴィオレットに獣の半身を見られるのは、未だに抵抗があった。自分の姿がどちらであっても、かつて彼女が言ってくれたように愛情は変わらないだろう。その言葉を疑っているのでは決してないが、それでも躊躇ってしまうのが真実だ。
「欲しいものがあるならば、なんでもとおっしゃったではありませんか。あれは嘘だったのですか?」
「お前に嘘など言わない!」
「ではお願いいたします」
ヴィオレットからの『お願い』など本当に稀なことだ。普段ならば大喜びで叶えてやりたい……だが、とデュミナスは暫し思い悩んだが、最終的には負けた。
「……分かった」
渋々頷いて、破ってしまわぬようにあらかじめ上着を脱ぐ。裸が一番なのだが、流石に全て脱ぎ捨てるのは躊躇われるので、下はそのままで手足に力を込めた。ざわざわと血潮を巡る衝動がやがて指先に集まり、全身が一気に変化し始める。
この瞬間は、いつも暴力的な獣性が増す気がした。人型を捨て去るのだから当然かもしれないが、より一層獣の本性が抉り出されるようで、デュミナスはあまり好きではない。だから、極力人の姿を保っていたいのだが―――
「……綺麗……」
愛しいつがいが望むのならば、デュミナスとてやぶさかではない。
「やっぱり、デュミナス様の毛並みが一番素敵……」
―――ちょっと待て、いったい誰と比べているんだ。
一瞬むっとしたが、うっとりと手を伸ばしてきたヴィオレットに耳の後ろを撫でられると、細かいことはどうでもよくなってしまった。額を擦りつければ、顎下まで撫でられてご満悦だ。
「フワフワしているのに張りがあって……香りも素敵」
人間は獣人とは違って、匂いで相性の善し悪しをはかることをそれほど重要視はしていないらしいが、それでも心地好い香りだと言われれば嬉しくなる。デュミナスもヴィオレットの匂いを嗅ごうと、彼女の首筋へ鼻を寄せた。
「私たちの子も、きっとすぐにこんな毛並みになるのね……ああ、楽しみだわ」
「なん……だと?」
恍惚を滲ませるヴィオレットの言葉にデュミナスは凍り付いた。これまで、彼女の一番(の毛並み)は自分だったはずだ。だが、もう一人ヴィオレットの関心を奪う者が現れたということか。それが先ほど生まれたばかりの我が子だと。
―――いやいや、そうは言っても俺の方が……
「デュミナス様にそっくりでしたもの。子供特有の柔らかさもあいまって、最高の毛玉になるのは間違いありませんわ」
―――むしろ上だと……!?
ショックで息が止まるかと思った。掻き集めた理性で必死に冷静を装い、デュミナスは産後のつがいを安らがせるため、その身を彼女の隣に横たえた。ヴィオレットが存分にモフモフを堪能するまで―――
「好きなだけ、触るがいい」
デュミナスは勿論その夜、一睡もできなかった。