匣庭の最後の秘密
ふたりで新生活を始めて、最初の冬がやってきた。
君彦が借りている文化住宅の部屋には、今日もすきま風が吹き込む。昼過ぎだというのに息が白くなるほど寒く、室内にもかかわらず動いていなければ冷え切ってしまいそうだ。お勝手に立つたびに両手が真っ赤になる織江だったが、しもやけなんてなんのその、君彦との生活に不満はひとつもなかった。
「ん、っ」
小さな部屋の小さな窓を開け、伸びをする織江はかっぽう着姿だ。足元にごろごろと転がっているのは、布団や本、食器などの風呂敷包み。開いたままの押入れの中身は半分ほど空で、大掃除を兼ねた引っ越しの準備は着々と進んでいた。
――また新しい生活が始まるかと思うと、複雑な思いもあるけれど……やっぱりわくわくするわ。
ようやく君彦との結婚の許可が下りたのは二週間ほど前のこと。織江が祖父と初めて対面してから数ヶ月が経過していた。見合い相手を別に用意したから君彦との結婚は諦めろと言っていた祖父が、何故突然態度を変えたのか織江は知らない。君彦はきっと一年の節目だからだろうと言っていたが、自分たちの真剣な思いが通じたのだと思いたいのが乙女心というもの。
ともあれ、祖父は君彦を婿として認めてくれた。年明けには、待ちに待った祝言がある。そのうえで一緒に暮らそうと祖父から改めて提案され、織江は君彦とともに祖父の自宅の敷地内にある別棟に住むことを決めたのだった。
すると、ふいに玄関の鍵を開ける音がする。振り返ると、扉の向こうから現れたのは君彦だった。背広の上に茶色のコートを羽織った格好で、目が合うと笑顔になる。
「ただいま戻ったよ、織江」
「おかえりなさいっ、君彦さん!」
今日は引っ越し作業のため、仕事は半日で切り上げる約束になっていたのだ。駆け寄ってコートと上着を受け取り、衣紋掛けに引っ掛けながら奥のちゃぶ台に案内する。卓上には大きく握った梅とごまのおにぎりと一緒に、わかめの味噌汁が入った鍋を並べてある。
「お昼、一緒に食べようと思って待ってたの。お腹すいたでしょ」
「ああ、ありがとう。織江の料理はいつも美味そうだね」
先に食卓につこうとした彼は、ふいにこちらを振り返った。腰に腕を回されたと思ったら抱き寄せられ、唇を重ねられる。軽くついばむだけでなく、角度を変えて深く探られてクラっとしてしまう。
いつもこうだ。ふたりきりになると、君彦は我慢の糸が切れたように織江に触れてくる。お互いだけがこの世に存在すればいいとでも言いたげな熱い抱擁に、毎回織江はのぼせそうになってしまう。
「ン、君彦さ、っ……窓、開いてる……わ」
「知ってる」
せっかくの忠告などものともせずに続けられる口づけ。入り込んできた舌はなめらかに織江の舌を搦め捕り、理性ごと攫っていってしまう。クチュクチュと音をさせて味わうようにされると、飼い慣らされた本能がじわじわと体の奥に熱を起こした。
(もう……っ、だめ)
逃げ出そうとすると、狡猾な彼の左手はスカートの中に入り込んでくる。脚の付け根を指先でとらえられ、いたずらっぽく撫でられる。腰を引いて抵抗したが、下着のふちをなぞる指先は怯むことなく侵攻した。太ももを少しくすぐったあと、割れ目の左右の膨らみをふにふにと弄られると、肩が小さく跳ねる。
「っ、ふ……」
せめて、窓の側から離れられたら……。そう思って一歩後ずさったのに、彼の指はさらに後ろに動いて蜜源を探り当てる。薄い布越しに、指先をぐっと埋められそうになって身震いせずにいられない。
このままではあっという間に繋げられてしまう。一時間もすれば祖父の手配した車が荷物を運び出しにやってくるというのに。早く食事を済ませて、押入れの中身を全部まとめてしまわなければ……、でも、君彦の腕の中はうっとりするほど心地いい。
焦りながらも酔い始めた織江の耳元に、君彦はかすかに笑って囁く。
「……このまま押し倒したいのはやまやまだけど、続きは明日の夜までとっておこうかな。今日から新生活だし、織江も引っ越し作業で疲れただろうし」
「え」
ふいをつかれて、思わず不本意そうな声を上げてしまった。明日の夜までなんて待てないとでも言いたげな声を。すると我が意を得たりとばかりに彼の顔が愉快そうに歪む。
「ああ、残念そうな顔。やっぱりいいね、きみを焦らすのは。その素直な落胆ぶりは、何度目の当たりにしても最高にそそられるよ」
「さ、最初からこれが狙いだったのね……!?」
またやられた。君彦は三度に一度はこうして織江を焦らす。欲しがって乱れる姿を見て、愉しむ趣味があるのだ。
「どうしていつも、そうやって意地悪ばっかり!」
「苛められるの、好きだろう?」
当然のように返答されると、これ以上どう不服を述べればいいのかわからなくなる。何か反論したいけれど何も頭に浮かんでこず、口をぱくばくと開閉させていると、彼はさらに恍惚の笑みを浮かべた。
「こういうぼくだと知っていて、それでも好きだと言ったのはきみだよね」
「そ、それは」
知っていた。君彦の性癖に少々難があるのは、もちろん最初から承知していたのだ。でも、それを引き合いに出すのはずるいと思う。わかっていて受け入れたはずなのに、何度割り切っても、こういう状況に直面するたびなんとなく理不尽さを感じてしまうから。
火照った体で食卓につき、昼食を済ませると十五分が経過していた。引っ越しの車がやってくるまで、あと四十五分。また抱き寄せられそうになったので、今度こそ断固として拒否した。
「だめですっ。今日は一日中ふたりきりってわけじゃないんだし……っ」
これ以上翻弄されたら、どんな顔で祖父と会ったらいいのかわからなくなる。
*
君彦が加わったことで、織江がひとりで作業していたときより効率はぐんと上がった。重いものを軽々と移動させる様子を見ていると、ため息が漏れそうになる。綺麗な顔をしていてもやはり男性だ。頼りになる。
こうして着々と荷造りは進み、そろそろ押入れの中身も空になるといったときだ。
「きゃ」
織江はうっかり、君彦がまとめた黒っぽい風呂敷包みにつまずいた。結び目が解け、ばらっと中身がこぼれ出る。白と黒の大小様々な大きさの紙……いや、写真だ。大事なものにちがいない。散らばってしまったそれを、慌ててしゃがみ込んで集める。
「ご、ごめんなさい!」
しかしそのうちの一枚が目に入って、織江の動きは止まった。白黒で写し出されていたのが、他ならぬ織江自身の姿だったからだ。それも、島の写真屋で撮影された七五三の記念写真……。
「どうしてこれが、ここに……」
火事ですべて焼けてしまったのだと思っていた。どうやって残ったのだろう。もしかして一枚だけ焼け残って業正が届けてくれたのかもしれないと思ったが、そうではないようだった。他の写真にも織江の姿が見える。あちらにもこちらにも、全部織江が写っている。女学校へ行けない代わりに制服だけ着て撮った写真、親戚の祝言で撮られた集合写真、はたまた撮影した覚えのない日常の一場面の写真まで。十枚や二十枚の量ではなく、百枚も二百枚もある。何故、こんなものが――。
「……見たね?」
すると気配もなく真後ろから声をかけられて、織江は飛び上がった。
「ひっ……、き、きき、君彦さん、こここの写真」
まさか君彦の所有物なのでは。恐る恐る振り返りそこにわざとらしい満面の笑みを見て、織江の疑念は確信に変わる。
「よく撮れているだろう? ぼくの宝物だよ。計画を実行に移す前に、島からこっちへ運んでおいたんだ。きみの姿はどれも、灰にするには惜しいからね」
「い、いつから、こんな……」
「十代の頃からかな。きみを穢さなければという強迫観念に駆られるようになった時分からの蒐集品だよ。写真屋に無理を言って譲ってもらったものもあるし、そうでないものも……交じっているかもしれないね」
交じっているかも、どころではない。風呂敷の中に残った写真をばらしてみると、大半がその『そうでないもの』だった。織江には覚えのない、いわゆる隠し撮り写真――。
「こういうぼくが好きなんだろう、きみは」
歪んだ微笑みを浮かべる彼に、返す言葉はもはやない。
ここまでの人だと思わなかった。こんなものを織江の目につかないように隠し持っていた時点で、彼も己の異常さには気づいているのだ。自覚しているなら少しは改善してくれてもいいのに、よくもそんなにあっけらかんと……。
「そうだろう、織江?」
だが肩を抱かれ、優しく力を込められると頷きそうになってしまう。がんじがらめにされているわけではないのに、この腕には独特の毒があって、触れられているだけで判断力が鈍る。なにが善でなにが悪なのか、わからなくなる。
「そうでなくても永遠に放さないけどね。生きようが死のうが、永遠に」
支配的な囁きを耳にして、湧き上がるのは喜びだ。こんなのは普通じゃないと冷静な自分が諭そうとするのに、毒された自分に聞く耳はなく、また深みへと嵌まり込んでゆくばかり。
「……でも、その、か、隠し撮りだけは、恥ずかしいから禁止」
「きみはわかってないな。それはぼくを焚きつける台詞だよ。恥ずかしがるきみの姿を、今度はどんな角度から残そうか」
「え、ちょっ、だめ、本当にだめ……!」
「うん、その困った顔、すごくゾクゾクする」
彼の性癖にはやはり少々といわず、おおいに難がある。
けれどこうして狡猾そうな笑みを見上げていると、ときどきこちらまでたまらない気持ちになる。もっとこんな顔を見ていたいような、その笑顔で虐めてほしいような……。こうして自分の性癖にもそれなりの難が生まれつつあることを、織江はなんとなく自覚しているのだった。
【了】