今日も王子は努力する
アーロンは七つになった。
七歳といえば、国王である父はすでに才能の一端を見せていたという。
アーロンもさすが国王の息子だ、と褒められることが多い。しかし敏い彼は、その大部分がお世辞なのだと解っていた。
もっと勉強して、立派な父の跡を継げるようにならなければ。
アーロンは日々努力を怠らない子供であり、本人の知らないところでその真面目な性格は評価されていた。
そんなことにも気づかないほど、アーロンは日々真剣に勉学に励んでいた。
アーロンが五つになり、教育係を選ぶようになったとき、父は自分と同じ教育係を推したが、何故かそれは父以外の皆が全力で止めたため、叶わなかった。
父上のようになれるなら、その人でも良かったのに。
アーロンはこっそりそう思ったものの、大好きな母が複雑そうに顔を歪めていたので、自分の意見を主張することはしなかった。
アーロンにとって父である国王は尊敬する人で、母である王妃は誰より好きな人だった。
綺麗で優しく、そして強い母がアーロンは大好きだ。
「おにいさま、どうしたの?」
廊下でうつむきながら歩いていると、二つ下の妹が声をかけてきた。
今日は長い廊下を歩くのも嫌ではないのか、自分の足で楽しそうに歩いている。
先日、五つになったサヴィーナは母にそっくりで、その容姿も含め、将来を期待されていた。
しかしアーロンは、この妹が危なっかしくて見ていられなくて、本当は部屋に押し込めておきたいと常々思っていた。
もちろん、そんなことを両親が許すはずもないので口にはしない。しないが、今日は何をしでかすのだろう、とハラハラしてしまうのだ。
王女という立場であり、たった五つだというのに、サヴィーナは大人と同じことが出来るといつも豪語し、周囲を慌てさせるのが得意だ。そして失敗しては大泣きしてアーロンを困らせる。あとで困るくらいなら、やはり部屋で大人しくしていて欲しいと思う。
だが今日もサヴィーナは元気で、足取りも軽いようだ。
とはいえ、今日はお付きの子守や侍女たちにも迷惑をかけていないようで、ほっとする。
「どうもしないよ。これから父上のところに顔を見せにうかがおうと思ってるところだよ」
「――わたしもいく!」
サヴィーナが目を輝かせてそう答えるのは解っていた。何かをしでかすのではないかと一瞬不安になったものの、サヴィーナを何より可愛がっている父のことだ。少しでも顔を見せれば喜ぶだろうと一緒に行くことにした。
再び歩き始めると、サヴィーナはとてもご機嫌のようでスキップをしている。
「ずいぶん楽しそうだね。何かあった?」
「うふふふ。おとうさまにね、とってもすばらしいものをいただいたの!」
「すばらしいもの……?」
アーロンには妹がこんなにも喜ぶ贈り物がなんなのかさっぱり解らなかったが、サヴィーナを溺愛する父は娘と気持ちが繋がっているのだろう。
それは何なのか、聞いていいものかアーロンは少し躊躇った。
サヴィーナはこういうとき、いつも勿体ぶった言い方をするのが好きだからだ。本当は教えたいのに、秘密にする。その秘密がアーロンにとっては楽しいものではないことが多いので、この時もそれほど興味を抱かなかった。
ただ、聞かなければ聞かないで小さな王女の機嫌はすぐに悪くなるので、アーロンはこれも兄の務めか、と聞いてみることにした。
「何をもらったの?」
「ふふふ、すごいのよ! これでわたしも、おかあさまといっしょなのよ!」
サヴィーナは案の定、何を貰ったか答えないまま楽しそうにひとりでクルクルと回って喜んでいる。
歩きながら回っては危ないというのに、障害物は自分を避けるものと思っているサヴィーナには関係ないらしい。その分、気を遣っている子守たちの苦労を思い、アーロンは申し訳なさそうな視線を彼女たちに送った。
そうこうしているうちに、国王の執務室である銀の間の前に来る。
アーロンはその扉の前で護衛をしている近衛隊士を見上げた。
「父上はご在室か?」
最近、難しい大人の言葉をたくさん覚えるようになった。
覚えたなら、使いたくなる。アーロンは難しい言葉を使う自分は大人に近づいていると思った。父親からの贈り物ではしゃいで回る妹とは違う。
「ええ、アーロン王子――陛下は、その王妃様と……」
アーロンににこりと笑った後で、その隊士は言葉を探していたようだが、父に会いに来たのに、母にも会えるというのはいいことだ。
「母上もいらっしゃるのか? すぐに会いたい」
「ええっと――王妃様とお話をされていまして……」
どう説明したものか、と頭を悩ませている隊士に、アーロンは答えは簡単だと笑う。
「大丈夫だ。お邪魔しないように、そっと入るから……そっと開けてくれ」
「え……え、はい、その……いえ。では、そっと、ですね」
隊士はもう一人の護衛と顔を見合わせて、尚も考えるようにしていたが、何かを諦めたように扉に手をかけた。
銀の間の扉は大きい。
少し開くだけでも、アーロンが通れるくらいだった。
広い銀の間で、最初にアーロンに気付いたのは国王の側近であるクリヴだ。いつもアーロンを「賢いですね」と褒めてくれるひとりでもある。
それは子供のご機嫌取りのようで、アーロンは赤ちゃんではないのだし、いい加減違う言い方をしてほしいと思っている。
そのクリヴは、アーロンを見ると少し視線を動かしただけで、そっと口に人差し指を立てた。
つまり、黙っていろということだろう。
扉の陰で言われるまま黙っていると、その下から潜り込むようにサヴィーナも中をのぞき込む。妹も珍しく静かにしているので、アーロンは銀の間の様子を窺った。
銀の間には、いつものように父である国王がいた。そして母である王妃もいた。
近衛隊士が教えてくれた通りだ。
しかしアーロンは目を瞬かせる。
この国の頂点にいるべきはずの、英雄と呼ばれるほど素晴らしい、尊敬されるべき父が床に膝をついていたからだ。
そしてその前に母が見下ろすように立っている。
その表情まではっきりと見えた。
母の目は、まるで塵芥を見るような冷めたものであり、美しい顔だがそれゆえに一層蔑んだ気配が際立っていた。
一方、父の顔は、まるで夢の中にいるように輝いており、頬を染めて口端を緩め、異常さが子供にも理解出来るほどうっとりとしていた。
母の手には、黒い鞭がある。
この光景を、側近たちがただ見守っているのは、これがままあることだからだ。
アーロンも何度か見たことがあり、耐性はあったものの、やはり衝撃を受ける光景には違いない。
いったい何をしたのか、とアーロンが両親を見ていると、冷ややかな母から凍てつく声が発せられた。
「――それで、貴方はそれをあげたと言うの? 私になんの相談もなく?」
「ああ……だって欲しいと強請られたら、拒む理由はないだろう?」
「――お黙りなさい」
ピシッと空気を震わせるような音を立てて、鞭が床を跳ねた。
あれが当たったら痛いだろうなぁとアーロンはいつも思う。しかし母の腕はとても良く、ちゃんと人に当てない技を身につけていた。
実際、父はぶたれることを望んでいるが、決して当てないのだと他でもない母から聞いたことがある。その時の母の表情は、背中がひやりとするもので、アーロンはなかなか忘れられなかった。
今も似たような状態だが、鞭を向けられ蔑まされているはずの父は、母に鞭打たれた床になりたいと言っているような顔をしていた。
「私がそれを許すはずがないと、解っていたはずよね?」
「ああ……! そうだ、僕が悪いんだ! レナ、僕に怒りを! 思いのたけをぶつけてくれ!」
さあ、と両手を広げる父から、アーロンは思わずふっと顔を逸らしてしまった。
父が心の底から母に鞭打たれることを望んでいるのだということを、もうアーロンも知っていた。
クリヴにどうしてなのか聞いたことがある。
国王の性癖は、人の持つ感情と同じもので生きていくために必要なものであり、国王と王妃の関係は、人生を完全なものにするために必要不可欠なものだから、仕方のないことなのだ、と教えてくれたが、アーロンにはよく解らなかった。
ただ、父の隣に母がいることは、必然なのだろうな、と思ったくらいだ。
顔を逸らしたアーロンの先に、両親の光景を楽しそうに見るサヴィーナがあった。
「サヴィーナ?」
目を輝かせるその顔は、まるで父を見ているようだ。
どうしたのか、と思っていると、サヴィーナはにこりと笑う。
「おとうさまたちがお話しているのは、わたしのことだわ」
「――え」
つまり、父が母に内緒で勝手に何かをあげた相手は、サヴィーナだったらしい。
アーロンは目を瞬かせた。
母も、サヴィーナは可愛い娘だと常に言っている。その娘に父が何かをあげたところで、怒るような母ではない。
いったいどうして、とアーロンが首を傾げると、サヴィーナは勿体ぶった様子で、自分のスカートの裾をそっとまくり上げた。
淑女である王女がそんなことをするものではない――
アーロンはそう言いかけたが、細いサヴィーナの脚にある黒いベルトを目にして、言葉を失くした。
「うふふふ、これでわたし、おかあさまとおそろいなのよ」
「…………」
母が怒るはずだ。
サヴィーナの脚には、鞭を留めるためのベルトがあり、そこにはちゃんと鞭も添えられていたからだ。
子供用の小さなものだが、母と同じ精巧な作りになっている。
なんてものを父は――
鞭打たれる喜びが二倍になると思ったのかもしれない。
「おかあさまっわたしにやらせて!」
嬉々として銀の間に入り両親のもとへ走っていくサヴィーナは、嬉しそうだった。
それは父と同じ顔だと思う。
アーロンは、突然入ってきたサヴィーナに驚いた母の顔と、嬉しそうな父の顔を見て、そしてこれから起こるだろう事態をなんとなく察して、そっと扉を閉めた。
扉が閉まると、中の喧騒はあまり聞こえない。
聞こえないが、アーロンはゆっくりその場から離れた。
離れながら、そっと呟く。
「みんな仲がいいなあ」
今日も父は元気だった。
母も元気だ。
そして妹も元気なようだ。
家族が元気でなによりだと、アーロンは安堵していた。
アーロンはもう七つになったのだから、幼いサヴィーナのように両親の戯れに交ざることはない。
大人になったなぁ、と感慨に耽りながら、アーロンはでももっと頑張っていかなければ、と決意もしていた。
その背中を見ながら、事態を見守っていた近衛隊士がぼそりと呟いたのはアーロンには聞こえなかった。
「……さすが陛下と王妃様のご子息……器の大きさが違うな」
七つでありながら、今日もアーロンの評価は高まるばかりだった。