たぶん、一途な愛
ティアは、自身の愛馬フォルトゥーナとリクハルトの愛馬ヴェローチェを連れて歩いていた。
結婚後も変わらず日課にしているフォルトゥーナの散歩に行こうとしたら、ヴェローチェも一緒に行きたいというふうに騒いだからだ。
散歩道にしている庭園は道が細いため、庭園には入らずに屋敷の周りをのんびりと歩いている。
「こうして歩くのも運動になっていいかもしれないわね。……え? どうしたの?」
広すぎるキーツ邸を外側から眺めるのもまた一興だと思っていたそのとき、それまでおとなしくティアの横を歩いていたヴェローチェが、突然グイッと手綱を引いた。
何事かとふり返ると、ヴェローチェが屋敷の窓へ近づいて行こうとしている。
「何かあるの?」
どうしてもそちらに行くのだという頑なな意思を感じたので、ティアは彼女について行くことにした。
ヴェローチェが顔を寄せた窓は、ティアたち夫婦の寝室の真下にある部屋だった。ティアはそっと部屋の中を覗き込む。
壁一面にずらりと本が並んでいるのが見えた。本棚の前には長椅子がある。
――書斎かしら。
こんな部屋があるなんて知らなかった。
後で本を借りに来ようと思いながら離れようとすると、視線の端で何かが動いた。ティアはそちらに目を凝らす。
そこには、執務室にあるような大きな机と戸棚があった。
その戸棚の前に誰かいる。リクハルトだ。
彼は戸棚の引き出しを開けて布のようなものを取り出した。それを顔の前まで持ち上げると小さく微笑む。
頬の緩んだその横顔を見て、ティアは眉を寄せた。
リクハルトが持っているのは、深緑色のストールだ。ティアのものであるはずのそれを、リクハルトが大事そうに持っている。
――あんなところにしまっていたのね。
ティアはコンコンと窓を叩いた。
リクハルトは、驚いたようにふり返った。そしてティアに気づくと、なぜか手を後ろに回してストールを背に隠す。
「ティア、どうしたのですか?」
すぐさまこちらに寄ってきたリクハルトは、片手で窓を開けた。
「そのストール……」
リクハルトの背後からちらりと見えるストールを指差すと、彼は照れたように頬を染めてティアにそれを見せてきた。
「ええ。僕たちが運命的な再会を果たしたときのストールです」
「そういえば、あなたが持っていたままだったのよね。どうしてそんなところにしまってあるの? 私に返す気は……ないのね?」
返す気は、という言葉に反応し、リクハルトは再びストールを背に隠した。
「これは僕の大事なティアコレクションなので、返せと言われても返せません」
「…………」
ティアコレクション。ということは、ティアのものを他にも集めているということか。
問い詰めたいが、聞かないほうがいいと本能が警鐘を鳴らした。
……深く考えては駄目だ。尊敬する父も、「知らないほうが幸せなこともある」と言っていたし。
ティアは今の話を聞かなかったことにして、そういえば……と話題を変えた。
「私、午後から市場に買い物に行こうと思っているの。リクハルトに言ってなかったわね」
馬車を出してもらいたいのだ。そのことをリクハルトに告げると、彼は嬉しそうに身を乗り出してきた。
「僕も一緒に行きます」
「いいえ。あなたはお仕事を頑張って。ライが言っていたわよ。私が実家に帰っている間に随分と仕事を溜め込んだらしいじゃない。本当はこんなところでストールを眺めている暇はないのでしょう?」
「……ティアがいないと、僕のやる気は半減してしまうのです。だから、時々こうしてティアの持ち物で充電を……」
言いながら、ストールに顔を埋めたリクハルトを見て、ティアの目が据わる。
リクハルトは、やはりどこかおかしい。
「ティアが直接気合いを入れてくれてもいいんですよ。ほら、ここに一発パーンと……」
呆れて黙り込むティアに、リクハルトは頬を差し出してきた。
こういうときのリクハルトは無視をするに限る。
ティアが散歩を再開しようと窓から離れた途端、フォルトゥーナがリクハルトの頬を自分の鼻でパーンと叩いた。
「…………」
「…………」
叩かれたリクハルトと、叩いたフォルトゥーナとの間に張り詰めた空気が流れる。
「ええと……大丈夫? フォルトゥーナがこんなことをするなんて……ごめんなさいね」
恨みの籠もった目でフォルトゥーナを睨むリクハルトに、ティアは優しく声をかけた。
このまま喧嘩になったら面倒くさいからだ。
するとリクハルトは、フォルトゥーナの鼻汁で濡れた頬を手の甲で拭いながら、甘えた声を出す。
「ティアの平手で上書きしてください。優しく撫でてくれてもいいですよ」
正式に結婚した後、リクハルトは事あるごとにティアに甘えるようになった。彼の幼少時代を思えば、人に甘えられるようになったのは良い傾向だろう。
仕方なく、ティアは手を伸ばした。軽くひと撫ででもしておいてあげようと思ったのだ。
しかしティアが触れる前に、ヴェローチェの舌がリクハルトの頬を舐めた。
ベロリベロリと何度も舐め上げるヴェローチェに、リクハルトは複雑な表情になる。
ヴェローチェが親切心で舐めているのだと分かっているので、振り払うこともできないのだろう。
「……後で撫でてあげるわね」
「……はい」
ティアが苦笑しながら言うと、少しの間の後、リクハルトは疲れたように頷いた。
仕事に戻ると言うリクハルトと別れ、いつもより時間をかけて散歩を終えたティアは、午後になるとすぐに市場へ出かけた。
三日後はリクハルトの誕生日だからだ。自分で選んだものを彼に贈りたかった。
贈り物をしたときのリクハルトの反応を想像しながら選ぶのはとてもわくわくして、贈り物にこだわる彼の気持ちがほんの少しだけ分かった気がした。
* * *
三日後。
執務室で、リクハルトは上機嫌で仕事をしていた。気持ちが悪いほど機嫌の良い主人を見て、ライは眉を顰める。
「何か良いことでもあったのですか?」
「今朝、ティアがお祝いの言葉と一緒にこのカフスをくれました」
リクハルトはポケットから箱を取り出し、中身を見せてきた。
「ああ……今日はリクハルト様のお誕生日でしたね。おめでとうございます」
毎年、誕生日は盛大に祝うこともなかったし、リクハルトも祝って欲しくなさそうだったので、ライはすっかり失念していた。
「贈り物をもらうのって、とても嬉しいですね」
めずらしく弾んだ声を出すリクハルトを見て、ライはふと思い出した。そういえば、先日、主人の奥方から贈り物のことで相談されていたのだ。
リクハルトへの贈り物のことではなく、リクハルトからの贈り物についてである。
浮かれているところ申し訳ないが、この問題もさっさと片づけてしまおうとライは切り出した。
「リクハルト様、まだティア様に贈り物を続けているそうですね?」
問うと、リクハルトは頷いた。
「高価なものは嫌だと言うから、ペンやペーパーナイフとか……日用品を贈っていますよ。ティアの身の回りのものをすべて僕色に染めようと思いまして」
ふふふ、と笑う主人を少し怖いと思ってしまった。
「この屋敷にあるティア様のものはすべてあなたが用意したものではありませんか」
「でも、仮の結婚のときは準備期間が短くて、ライ任せにしてしまったところもあります。だから、今度こそ僕がすべてを選びたいのです」
そうは言うが、ライが任されたのは本当にごく一部だけだ。ほとんどのものは、忙しいリクハルトが寝る間を削って準備をしたはずだが……。
はあ……とライは大きな溜め息を吐き出した。
「相思相愛なのですから、そろそろやめられたらどうですか。このままだとご両親のようになってしまいますよ」
ライの忠告に、リクハルトはふと目を細めて笑った。
「本当はやめようと思ったんです」
意外な告白に、ライは目を丸くする。
「それならなぜ続けているのですか?」
「ティアの嫌がる顔が好きなんですよ。あんなふうに露骨に嫌な顔をしてくれる人はティアしかいませんし、ティアも僕にしかあんな顔はしませんからね」
そう言って幸せそうに微笑む主人に、ライは素直に同意することはできなかった。
「……歪んだ愛ですね」
思わずポツリと零すと、リクハルトは自信満々な顔で言い返してきた。
「一途な愛ですよ」
いろいろと言いたいことはあるが、主人が幸せならそれでいいか……と思うことにした。
この二人なら、彼の両親のような悲劇は起こらないだろう。主人が道を踏み外しそうになったときは、奥方が軌道修正してくれるに違いないからだ。
ライは、芯が強く真っ直ぐな性格の主人の奥方を思い浮かべながら、うっとりとカフスを眺め続ける主人を見て小さく微笑んだ。