ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

秘密のない男

 ──それは、何かと気が合う年の近い女官と談笑しながら、エマがまだ不慣れな王宮内を案内してもらい、自室に戻った時のことだった。
「あら…?」
「どうかされましたか?」
 部屋を出た時と何かが違っている気がして、エマは扉を開けてすぐに足を止めた。
 しかし、具体的に何がどう違うのかが分からない。
 気のせいかと思いながら部屋の中ほどまで進み、何気なく室内を見回す。
 そこで一冊の本がベッドの傍のサイドテーブルに置かれていることに気づいて、エマは動きを止めた。
 ──これは…っ!
 エマは目を見開き、しばしその本を凝視する。
「……エマ様?」
 扉の傍にいた女官に訝しそうに声をかけられ、ハッとして振り向いた。
「あ…っ、な、何でもないの。ええと、今日も色々と見て回れて楽しかったわ。あなたの時間の取れそうな時にまたお願いしてもいい?」
「はい、いつでも。では私はここで失礼いたしますね。何かございましたら、遠慮なさらずにお声がけくださいませ」
「ありがとう」
 部屋の中ほどで立ち止まったまま、エマは平静を装い笑みを浮かべた。
 自分では少しぎこちない笑い方だと思ったが、女官は別段気にする様子もなく、しとやかな仕草で会釈をして出て行く。
 エマは閉まった扉を少しの間見ていたが、しんと静まり返った部屋でホッと息をつき、再びサイドテーブルに置かれた本に目を向けた。
 立派な装丁の分厚い本。
 凝視するほど特別なものではないように思えるが、エマがこの本に不自然な反応をしてしまうのにはわけがあった。
 ここ最近、この本を開いては意味深な笑みを浮かべているカイルをたびたび見かけるのだが、エマが部屋にいない時を見計らって持ち込んでいるようで、普段は目にすることがない。
 しかも、本を開いている時にエマが戻ると、カイルは慌てた様子でそれを抱え、曖昧に笑みを浮かべてそそくさと部屋を出てしまう。コソコソするくらいなら部屋に持ち込まなければいいのに、中途半端にそんな姿を見かけるものだから、この本の内容がどうにも気になって仕方なかったのだ。
「これってどういった類いの本なのかしら?」
 先ほどエマが部屋を出た時には無かったから、エマが女官と王宮内を散歩している間に部屋へ戻ったカイルが置き忘れたのだろう。
 エマは少しずつベッドの方へ近づくと、サイドテーブルの前でしゃがみ込み、その本をじっと見つめた。
 ──勝手に見てはだめなものかしら……。
 装丁を指でなぞり、開きたい欲求を抑えながら伏せてあった表紙を裏返す。頭の中では、カイルがこれを見てふっと笑みを零す姿を思い出していた。
「……え?」
 と、そこでエマは目に飛び込んできた文字に首を傾げた。
「その三?」
 誰が書いたのだろうか。
 表紙には子供が書いたような拙い文字で『その三』と大きく書かれてあったのだ。
 中を読むならカイルの承諾を得てからと思っていたが、その文字を見たらますます気になってしまい、エマは少しだけ中を覗いてみることにした。

『──五月二日。雨。このところ天気が悪くて太陽が恋しい。王宮は退屈でやる気が出ない。宰相や大臣どものしけた面を見ると余計に気持ちが沈む。勉強に身が入らないのは、きっとそのせいだろう。こんな時はエマのことを考えながら眠ってしまうことにする』

 適当なところを捲った頁に書かれてあった内容に、エマの顔は自然と笑ってしまっていた。
「これって、カイルの日記だったのね」
 拙い文字を見れば彼がまだ子供だった頃のものと分かるが、心の声がだだ漏れで、その様子が目に浮かんでくるようだ。
 カイルが日記を書いていただなんて知らなかった。
 しかも、これは『その三』なのだ。
 他にもまだあるのかとエマは口元を綻ばせながら読み進めていく。

『──五月三日。快晴。久しぶりに晴れて気分が良かったので、馬を走らせるついでにフローレンス邸まで足を伸ばすことにした。来るなら先にそう言えと、開口一番オリバーに怒られる。相変わらず遠慮がなくて面白い。それにしても、エマは今日もかわいかった。週に一度は会っているが、見るたびに輝きが増していくので、どこの馬の骨だか知らないやつに取られやしないかと気が気でない。今年で彼女と出会って三年目になる。そろそろ私を好きになってくれただろうか。もう少し距離を縮めたい。……そう思って勇気を出したのだが、なぜだろう。あと五センチほどに迫ったところでふいと顔を背けられてしまった。気のせいかともう一度迫ったが、やはり顔を背けられてしまった。エマは恥ずかしがっているのだろうか? 嫌がられているとしたら立ち直れない。手をつなぐことは許してくれているのだから、その先にも進めると信じたい。次こそは念願が叶うといいのだが……』

 沈んだ様子で終わったその一日を読み終えたところで、エマは眉をひそめた。
 五センチほど顔が迫る? その先にも進めると信じたい?
「……ッ、もしかして」
 この時のカイルが何を『念願』としていたのか、何となく分かってしまった。
 まさかそんなことまで書かれてあるとは夢にも思わず、やはり見てはいけないものだったかもしれない…と微かな罪悪感を抱いた。
 にもかかわらず、この先を読んでみたいという好奇心がエマの中でむくむくと沸き上がる。
 これ以上見てはだめ。そう思うのにエマの指は誘惑に勝てず、カイルの目指す『次』を探して頁を捲ってしまっていた。それから数日は王宮での出来事を退屈そうに綴ったものが続いたが、更に数頁ほど捲ったところでエマはぴたりと手を止める。

『──五月十日。くもりのち晴れ。フローレンス邸から戻ってすぐ、私はこれを書いている。興奮で手が震え、文字が乱れてしまう。顔がにやけたまま戻らない。この部屋に戻るまでにも何か良いことがあったのかとすれ違う者たちに聞かれたが、勿体ないので誰にも話していない。ああ、そんなことはどうでもよい。今の私はとにかく胸がはちきれそうで大変だ。遂に、遂に念願が叶ってしまった! ようやくエマが私のキスを受け入れてくれたのだ! 両想いだと確信を持てたことに胸を撫で下ろすと同時に、得も言われぬ幸福を手に入れた気分だ。やはりエマは恥ずかしがっていただけだったのだ。今日のことを思い出すとたまらない。しばらくは笑いっぱなしだろう。重なった唇は想像よりもずっと柔らかく、それでいてぷるんとした弾力もあって、他に例えが見つからない魅惑のときめきを与えてくれた。潤んだ瞳に煽られて甘い唇をついばむと、今日はもう終わりだと窘められる。けれど、もう少しキスをしていたくて私はなおも唇を押しつけ、出来ることなら深い口づけもしてみたいと舌を伸ばし…──』

 途中まで読んだところで、エマは日記を閉じて顔を突っ伏した。
「カイルってば細かすぎる…ッ!!」
 これ以上はとても読めない。
 日記なのだから心の声が正直に書かれてあるのは当然だとは思うが、キスをしたところだけやたらと描写が細かいのはどうしてだろう。しかも初めてのキスをした時、カイルはまだ八歳だったはずで……。
 まさか今もこんなふうに日記をつけているのでは。
 そう思ったらじっとしていられず、エマは日記を手に勢いよく立ち上がった。
「──エマ、こわい顔をしてどうかしたのか?」
「ひぁッ!?」
 立ち上がった途端に話しかけられ、驚いて変な声が出た。
 いつ戻ったのだろう。日記を読むのに夢中でカイルが部屋へ戻ったことに気がつかなかった。
 不思議そうな顔でこちらへ向かってくる彼と目が合い、エマは自分が彼の日記を抱えていることに焦りを募らせる。カイルはその動きを目で追いながらエマのすぐ傍で立ち止まった。
「……それを読んでいたのか?」
 静かな声で問いかけられ、エマはびくっと肩を揺らす。
 内容云々はともかく、無断で読んでしまったことは謝罪すべきだろう。
「あの、勝手にごめんなさい」
「別に構わないが」
「その、ちょっと気になったというか。ほら、ここに『その三』と書いてあるでしょう? なんだろうと思って、つい……。──え?」
 表紙を指差し、ワタワタしながら日記を返そうとしたところで、『別に構わないが』という彼の言葉が一拍置いてエマの頭に入ってきた。
 エマは目をぱちぱちと瞬き、顔色一つ変えずにいるカイルを見上げる。こんなに恥ずかしいものを勝手に読まれて、彼はどうして平然としていられるのだろう。
「カイルは私がこれを読んでも平気なの?」
「少し照れくさい気はするが、子供の時に書いたものだからな。我ながら浮かれた少年時代だった。さすがに今はもっと落ちついた文章が書けていると思うんだが」
 カイルは日記の表紙を指先でなぞりながら、唇を柔らかく綻ばせている。
 自分だったら絶対に誰にも見せたくないと思うが、カイルにとってこれは照れくさいという程度のもののようだ。
 人それぞれ考え方は違うので、子供の頃のものだと割り切れるならそれはそれでいいとは思う。勝手に読んでしまったことを咎められずに済んだのも、そんな彼のおおらかな性格があればこそだ。
 しかしその一方で、今の言葉から現在も日記を書いていると聞こえ、思い切ってそのことを問いかけてみることにした。
「この日記って、もしかして私と出会ってから書き始めたもの?」
「そうだ。よく分かったな」
「う、うん。何となくそう思っただけ…。じゃあ、……今は『その十三』くらい?」
 二人が出会って今年で十三年目だ。
 単純に一年で一冊ずつ増えていればそうなるだろうと考えただけだった。
 そんなエマの問いかけに、カイルは後ろめたさなど微塵も感じさせない爽やかな笑みを浮かべて頷いた。
「そうなんだよ。毎年一冊ずつ増えていくから、もう十三冊目なんだ。実を言うと、最近一冊目から読み直して君と出会った頃を懐かしんでいたんだ。色々なことがあったから、過去の自分の前向きさを思い出したかった。なのに執務室は人の出入りが激しくて、ゆっくり読むことも出来やしない。この部屋で読むのが一番だと思ったが、さすがに君を前に読むのは照れくさくてね。いない時を見計らっていたんだが、今日は読んでいる途中に人に呼ばれてうっかり置き忘れてしまった」
「そう、だったの……」
 最近頻繁にその日記帳を持っている姿を見かけたのには、そういう理由があったのか。
 かなり赤裸々に書かれているのは気になるが、彼自身が前向きでいるために必要だというならエマは何も言えなくなってしまう。
 そう簡単に、あの壮絶な一年を忘れられるわけがないのだ。明るく振る舞う一方で、カイルは人知れず苦しんでいたのだろうか。
 そんなふうに思うと胸が痛み、エマは彼の大きな手にそっと自分の両手を添えた。
「私ね、カイルにはまだ私に言えない秘密があるんだと思って、時々見かけるその本のことがずっと気になっていたの。だってやけに楽しそうに笑いながら読んでいる時もあったし……。やだわ、一人で変に勘ぐったりして馬鹿みたいよね。ごめんなさい」
「エマ…」
「だけど、これからは部屋でゆっくり読んで。私の目の前で読んでいても、もう気にしないようにするから。ね?」
 自分にも言い聞かせるつもりでエマは笑顔を浮かべる。
 そう、気にしなければいいのだ。たとえ二人のやりとりが、ここにどれほど詳細に書かれていようとも、それを彼が目の前で意味有りげな笑みを浮かべて読んでいようとも……。
「そうだったのか……。こんなたわいない日記が、秘密になるとは考えもつかなかった。どうやら私はエマに要らぬ心配をさせてしまったようだな」
「ううん、違うわ。それは全て私の勘違い…」
「いや、大丈夫だ。今、いいことを思いついた。私も出来る限り君に秘密など作りたくない」
 そう言ってカイルはいつの間にかエマの腰に腕を回して大きく頷いている。
 誘導されるままにベッドに座ると、彼も隣に腰掛けた。そしてカイルは手に持った日記を開き、エマの耳元で囁く。
「では、今後はエマにこれを読み聞かせてやろう」
「はっ!?」
「ふむ…。『その三』ではたいした進展がないな。あぁ、だが初めて君と口づけた時の様子がちょうどこの辺りに……」
 カイルはぺらぺらと頁を捲りながら、独り言を呟く。
 その言葉にエマはぎくりとし、何やら嫌な予感を覚えて僅かにカイルと距離を取ろうとしたが、腰に回された腕にぐっと力を込められて反対に引き寄せられてしまう。
 どう考えても単なる朗読になるとは思えない。
 彼は明らかに何でもない日常の部分を飛ばしているのだ。
 探しているのは五月十日の頁に違いない。それを確信したエマは、あの内容を耳元で囁かれては堪らないと、この場を逃れるために考えを巡らせた。
「カイル、日記は秘密じゃないと思うの!」
「そうだろうか。だが、エマは勘ぐってしまったのだろう? だから読み聞かせてやろうと…」
「いいえ、私が馬鹿だったわ! こんなことを気にするだなんて、なんて心の狭い女だったのかしら。よく考えたら、心に何か秘密のある人の方が謎めいていて魅力的に見えることだってあるかもしれないのに」
 エマはそう言って、彼の手がそれ以上頁を捲らぬようにぎゅっと握り締める。
 カイルはしばしそんなエマをじっと見つめていたが、やがてふっと口元を緩めてその唇をエマの唇に軽く重ねた。
「ん…っ」
「エマ、どうした。やけに動揺しているな。君はどこを読んだんだ? 今から私が読み聞かせようとしているところか?」
「そ、それはその…っ」
「先ほど、この日記を持って勢いよく立ち上がったのはどうしてだ?」
「どうしてって」
「描写が細かすぎるのは、そんなに恥ずかしかったか?」
「──ッ!? き、聞いて…っ」
 エマは目を丸くした。
 だったら今までの会話は……。
「ああ、別に盗み聞きをしていたわけではないぞ。部屋に戻ってきた時にちょうど、君が私のことを細かすぎると言って立ち上がったところに遭遇したんだ」
「ひどいっ。私が慌てるのを愉しんでいたのね!」
「そう目くじらを立てるな。怒った顔もかわいいが」
「そ、…んッ、ぅ…っ」
 カイルは楽しそうに笑い、もう一度エマに唇を押し付ける。
 そんな言葉にごまかされないと抗議の声を上げようとしたが、熱い舌が滑り込んできて、くぐもった声が彼の唇の奥で響いただけで終わった。そのうちに腰に回されたカイルの腕に一層力が込められる。そうして引き寄せられると同時にのしかかられ、二人とも身体がベッドに沈んでいく。
 その間もカイルは片手に持った日記を器用に捲っていて、不意に手を止めると彼はエマの頭の真横にそれを置いた。
「エマ、覚えているか? 君が深く口づけることを許してくれたのは、この二年後だったんだ。だからいくら細かく描写していようと、ここには私の奮闘が未遂に終わったことしか書かれていない」
「……っ」
「ほら、ここにも可哀想な私がいるよ。──八月二日。晴れ。今日も失敗した。エマは唇の奥にまだ私を迎え入れてくれない。彼女の唇を舐めると、途端に顔を真っ赤にして怒るから、その先に進めないのだ。世の男子はどのようにして深い口づけなるものを成功させているのだろうか。さっぱり答えが見つからない」
「だってこの時はまだ子供だったもの!」
「ああ、そうだな。今思えば、とてもませた子供だった」
「でしょう?」
「それでも私はずっとエマの心の扉をこじ開けたくて、好きになってもらいたくて必死だったんだよ」
「そ、れは…、でも私だって少しずつだけど、あなたのことをちゃんと…」
「分かっている。唇、舌、身体に触れること。時間はかかったが、一つずつ許してもらえるのは堪らなく嬉しかった。それだけじゃない。エマに初めて好きだと言ってもらえた時は何日も浮かれっぱなしだった。今も、こうして触れているだけで私は幸せなんだ」
 そう囁きながら、カイルの手はエマの脇腹をやわやわと撫でている。
「あ…んっ」
 その柔らかな動きに思わず甘い声が漏れてしまう。
 首筋に唇が触れ、尖らせた舌先がエマの鎖骨をくすぐった。脇腹を撫でていた手は少しずつ胸の膨らみに向かい、円を描きながら手のひらで包み込まれる。
 たとえ服の上からでも、そんなふうに触れられると肌がざわめく。カイルの意志一つで、エマの反応はこんなにも簡単に引き出されてしまう。
 ──コン、コン。
 ところが、エマの豊かな胸に彼が顔を埋めようとしたその時、誰かが扉を叩いた。
「……ッ」
 カイルはビクッと肩を揺らして動きを止める。
 そのまま全く動かなくなったので、どうしたのかと顔を覗き見ると、彼は邪魔をされたことに憤ったようなむっとした表情で、目の前のエマの胸をじっと見つめていた。
 ──コン、コン。
 黙っていると再び扉を叩く音がする。
「カイル、誰か来たみたい」
 エマが声をかけると、カイルはがくっと肩を落として、「分かった…」と溜息をつきながらベッドを下りた。
 恐らく彼はこのまま行為に及んでしまおうと思っていたのだろう。その背中にはどことなく悔しさが滲んでいた。
「何の用だ…」
「ああ、やはりここだったか」
「オリバーか。どうした」
「すぐに目を通してほしい書類がある。急にいなくなったと聞いたが、何かあったのか? 他にも何人か急ぎの用件で待っているようだぞ」
「あ、ああ…。いや、その。忘れ物を取りに戻っていた」
 どうやら、やってきたのはエマの兄オリバーのようだ。
 カイルはその顔を見るなり扉を塞ぐようにさり気なく移動して、部屋の中を見せないようにしていた。さすがにエマといちゃいちゃしていたと知られるのは気まずいのだろう。
 小声で話す二人の会話をエマは聞き耳をたてて聞いていたが、その様子がおかしくて肩を震わせて笑いを堪えていた。
「すぐに戻るから、先に執務室で待っていてくれ」
「分かった。──では、お待ちしております」
 カイルの言葉にオリバーは頷き、一歩下がった途端に顔を引き締め、完璧な敬礼をして去っていく。
 二人でぼそぼそ話す時は互いに砕けた様子なのに、少し離れた途端に第三者の目を意識した口調になる。そんなことさえおかしくて堪らない。
 やがて足音が遠ざかり、それを見送っていたカイルはふぅ…と息をついてエマを振り返った。
「エマ、そういうわけで戻らねばならなくなった」
「仕方ないわ」
「ああ。……と、忘れ物をしたといった手前、これは持って帰ろう」
 そう言うと、カイルはエマのもとまで戻り、ベッドで広げていた日記を手に取る。
「夕刻までには戻れると思う」
「待っているわ」
「すまない。中途半端に火がついて私もとても辛いのだ。だから続きはその時にな」
「え? ……あぁ。そう、ね」
 そういう意味で待っていると言ったわけではないのだが、わざわざ誤解を解くこともないだろうとエマは曖昧に頷いた。
 何秒か見つめ合ってから身を翻した彼の背中が遠ざかっていく。僅かな寂しさを感じたが、こうして見送ることは嫌ではなかった。彼がエマのもとに戻ってくるのを阻むものなど、今はもうどこにもないのだから。
「ああそうだ、エマ」
「どうしたの?」
 不意にカイルは何かを思いついた様子で振り向く。
 首を傾げると、何故か彼はやけに楽しそうに口元を綻ばせていた。
「私はやはり君にとって『秘密のない男』を目指したい。謎めいていて魅力的に見える男にはなれそうにないから諦めてくれ」
「……え、ええ」
「というわけで、次にここへ戻る時は『その十二』を持ってくるから、そのつもりでいてほしい」
 彼の眼差しは、まるでいたずらっ子のようで、エマはその瞳を見ながら段々意味を理解していく。
「──あッ!」
「では、またあとで」
 慌てて声を上げようとしたが、カイルは満面の笑みを浮かべて手を振り、もの凄く機嫌良く去っていった。
「……それって、……えぇ!?」
 ベッドにぽつんと残されたエマは呆然と呟く。
 『その十二』。その日記にはどんな意味があるのか。
 思いつくことなど一つしかなかった。出会って十二年で自分たちは初めて結ばれた。つまりその日記には、二人の初体験のあれこれが書かれてあるに違いないのだ。
 ──そのつもりでいてほしいって何よ……。そんなものを読み聞かせて、カイルは何をするつもりなの……。
「……っ」
 エマはがくりと項垂れた。
 何をするつもりだなんて、そんなの決まっている。
 最後に振り返った彼は異様なほど楽しげに笑みを浮かべていたではないか。
「うぅ…」
 なのに、嫌だと思っていない自分がいるのが哀しい。
 それが伝わったからカイルもあんなことを言いだしたのだろうか。だって恥ずかしいとか細かすぎるとか言いながら、謎めいた男になどエマは少しも興味がなかった。
「……またどこかに置き忘れても大丈夫なように、せめて鍵をつけてもらわなくちゃ……」
 的外れなんだかそうでないのか、自分でもよく分からない呟きを漏らしながら、エマはおもむろに横になる。
 ──とにもかくにも、今のうちに休息をとっておかなくては……。
 そんなことを考えている自分に呆れてしまう。
 けれど、彼のすることを結局は受け入れてしまう自分しか想像できないのだから仕方ない。
 もう手遅れなほどカイルに毒されてしまっているのね…、と、改めてそんなことを思いながら、エマはゆっくりと瞼を閉じたのだった──。

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