ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

見えない荊

 夢から覚めるときのレティシアは、いつも体がふわふわとしたものに包まれていて、少しの心地よさと名残惜しさを噛みしめながら目を開ける。
 ならば、今もなお続いているこの夢から覚めるにはどうしたらいいのだろう。レティシアは瞳を瞬くと箱庭のような庭園を二階の窓から眺めた。
 孤児院からアルベール家へ迎えられてからは、文字どおり夢のような毎日だった。けれどそれが続けば日常になる。
 広大な敷地の真ん中に走る一本の道を馬車が通っていた。反射的に震えていると、背後から騒がしい足音が聞こえた。
「レティシア、こんなところにいたの? 早くピアノのお部屋へ来なさい」
「ママ……」
「お願いよ。これ以上ママに恥をかかせないでね。ちゃんと先生に教わったところは弾けるようになったの?」
 レティシアの小さな手首をつかむ母の手は、以前よりもかなり手入れが行き届いていてふっくらとしている。けれどなぜ、握りしめるその感触は以前よりも冷たく感じるのか。
 屋敷に引き取られたばかりで幼いレティシアにはわからなかった。
「ママ、おけいこの前にフェリクスに会いたいの。どこ?」
「まあ、あなたまたお兄さまのことをそんなふうに馴れ馴れしく呼んで……。いい? ちゃんとお兄さまとお呼びしなさい。あなたがそんなだから私が……」
 母はそれ以上告げずに、心底息苦しいというように額をおさえてうつむく。
「ママ、苦しいの? わたしのせい? わたしがピアノを上手に弾けないせい?」
 レティシアの眦に涙が溜まる。だが決してこぼすことはなかった。母は娘の視線に気づいたのかかぶりを振ると笑顔を作った。
 母は子爵の後妻となった。それがレティシアにはどういうものなのか、まだわからない。だがお城のようなお屋敷と、お姫さまのようなドレスを日々与えられる身分であることは知っていた。
 それなら母はお后さまだ。なぜ悲しそうに笑うのだろう。
「大丈夫よレティシア。さあ、ピアノのおけいこをしましょうね。そのあとはテーブルマナーや歩き方をもう一度見てもらいましょう」
 一瞬悲しげな母に気を取られていたが、レティシアはすぐにかぶりを振ると母の手を振り払った。
「いやっ!」
「レティシア!」
「いつもいつもおけいこばっかり嫌! ピアノの先生きらい! 上手に弾けないとすぐに手を叩くの。フェリクスと遊びたい!」
 元来レティシアは、母に反抗するような娘ではなかった。だが連日の過密スケジュールは、幼い心を疲弊させるのに十分だったのだ。
 貴族の令嬢らしく教育するためと言われてもわからない。レティシアはフェリクスと一緒にいられればと思って、この屋敷に来たのだ。
 この家に来てから母は変わってしまった。誰かからレティシアが笑われるたびに、母が苦しんでいる。けれどそれとピアノとなにが関係しているのか理解できない。
 母と言い合っていると、背後から静かな足音が聞こえてきた。
「お義母さん、レティ」
 少し低くて澄んだ声。この世でもっとも好きな声は耳にするだけで誰のものかわかる。レティシアは振り返るより先に口を開いていた。
「フェリクス!」
 夢には慣れる。薔薇の箱庭で目覚めることを繰り返すたびに日常になっていく。けれどフェリクスの顔は何度見てもその美しさに慣れることはなかった。毎回新鮮な驚きをくれるレティシアだけの王子様だった。
 レティシアが駆け寄ると、フェリクスは手にそっと触れて宝物を包み込むような仕草でなでてくれた。
「お義母さん、レティは疲れているようですし、今日くらいは休ませてあげたいと思っています。どうでしょう?」
「え、ええ……でも」
 突然現れたフェリクスに母は困惑気味だったが、レティシアには義兄の手のあたたかさがなにより心強かった。つい先日、薔薇の迷路で確信したのだ。フェリクスだけは絶対にレティシアを裏切らない、手放さない、と。
 そのままフェリクスは、呆然と立ち尽くす母を残してレティシアの手を引くと、彼の部屋へと歩いていった。


「ママはわたしのこと、好きじゃないのかな」
「なんでそう思うんだい?」
 フェリクスはレティシアを木製の椅子に座らせると、丁寧に髪を梳いてくれている。彼に髪を触ってもらうのは好きだった。
「わたしがピアノ上手くないから……ママが笑われてたの」
「そうか。それはひどい人たちだね」
 正面の鏡越しにフェリクスがほほ笑む。
「ねえ、フェリク……お兄さま」
 慌てて呼びなおす。先ほど母に叱責されたばかりだったからだ。けれどフェリクスは鏡越しに顔をくもらせた。
「レティ。僕はそんなふうに呼ぶようには教えてないよ」
「でも、ママが……」
「言いなおし。きちんと呼べるまでこれはあげない」
 フェリクスの、櫛を持っていないほうの手には大輪の薔薇の髪飾りがあった。レティシアのために用意してくれたのだろう。
「フェリクス、って言っていいの?」
「いいよ。僕がそう望んだのだから」
「そっか。じゃあフェリクスって呼ぶわ、ずっと」
 レティシアが満面の笑みになると、フェリクスは目を伏せたまま微笑をたたえてレティシアの耳元に薔薇の髪飾りを挿した。
 鏡越しの青灰色の瞳は憂いに満ちていて、見つめていると魂そのものが吸いこまれそうだと錯覚するときがある。
「レティ、ピアノは好きじゃない?」
「ええ。だってどれだけ弾いても上手くできないの」
「そう。じゃあやめさせるよう父に伝えておくよ」
「本当?」
 先週は手の甲が真っ赤になるまで鞭で打たれた。もう弾かなくていいと言うのなら嬉しいがそう上手くいくものだろうか。怪訝に思っていると、両肩に手を置かれて、フェリクスが鏡のなかのレティシアを見つめて破顔した。
「かわいい僕のレティ。ここにいるかぎり、嫌なことはなにもしなくていいんだよ」
「フェリクス……」
 手を取られて椅子から降りると、背後にあったベッドにふたりで腰を下ろす。
 物憂げな双眸に見つめられると、なぜだか頭がぼうっとなる。今はわからないけれど、そのうち知る日が来るのだろう。
 義兄の胸に体をあずけてまぶたを閉じると、なぜか指先から、爪先から、目に見えない荊に搦め取られていくような気がした。
 不穏なものを感じつつも、それを眠気のせいだと思うことにして、フェリクスに深くもたれかかった。髪をなでられる。
「レティは僕のことだけ考えていて……」
 幼いレティシアには、耳元に落とされた言葉の意味はわからなかった。

 了

一覧へ戻る