ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

誕生日まで待てない

 夕暮れの隅田川は、川面に金色の鯉がゆったりと跳ねているかのように見えた。
 肌寒さはあるが、春にもかかわらず風は凪いでいる。珍しく穏やかな一夜になりそうだと忍介は頭の片隅で思いながら、上座に座る年上の男に酌をした。
「毎度、不躾な呼び出しに応じてくださってありがとうございます。黒田さん」
 川を眼下にのぞむ八畳間には、風情ある行燈がいくつか灯っている。地酒の熱燗に、アテは新鮮な鯉のお造りだ。
「おお、ありがとう、忍介くん。いつもすまないね」
 そう言って和服姿で微笑むのは、咲子の父である黒田の大旦那だった。忍介の手配した車で、今しがたここへ到着した。
 対する忍介がやってきたのは一時間ほど前だ。銀行での仕事を終えるとすぐさま、一郎が運転する乗用車で訪れて、黒田氏を迎える準備を整えていた。
 父がたびたび商談に利用するこの老舗料亭は、江戸に始まり味に定評がある。美食家と言われる咲子の父もきっと満足してくれるはずだと思い、個室を予約していたのだった。
 今日こそは、首を縦に振らせる。
「うん、この鯉は美味しいね。洗いもいいが、造りはまた格別だ」
 杯をくっと空にした咲子の父は、深く唸ってから言う。
「うむ……まあ、忍介君の言いたいことはわかっているんだがね」
「お考えいただけましたか」
「考えはしたんだよ。しかし君、咲子は明日でまだ二十歳だ。一般的にはいい年齢でも、大銀行を継いだ忍介君には足りない部分が多いだろう」
 遠回しな表現だったが、彼の言いたいことには見当がついていた。四十二である忍介と二十の咲子では、年齢的に釣り合いがとれないという話だ。
 でなければ名家の令嬢を『まだ二十歳』などと謙遜するはずがない。
「六年前に娘と交わしたという約束なら、破ってくれてかまわんよ。十四の子供が言い出した我儘だ。咲子も承知しているだろう。そんなことより君は、君に相応しく優れた娘を一刻も早く見つけるべきだと思うがね」
 流石は政治家、逃げ道を作るのがうまい。毎回こうしてのらりくらりとかわされ、忍介は半年もの間、咲子との結婚に色よい返事をもらえずにいる。
 奥歯をきつく噛んでみても、もどかしさは少しも解消されなかった。
 最初に大旦那と食事の席を設けたのは、米国から帰国した三日後だった。忍介は頭を下げて、咲子を嫁に欲しいと願い出た。約束は半年後だったが、その日まで待てなかった。
 以来、月に一度はこうして美味いと評判の店に招き、手厚くもてなしている。
 これ以上ないほどの正攻法で説得に力を注いでいるのだが、成果はまだ得られない。
 というのも咲子の父は、どうやら娘への求婚相手を懐疑的に見る癖がついてしまっているようだった。原因は、良太郎からの再三にわたる縁談の阻止だ。米国にいた間の己の悪行が、よもやこのような形で足を引っ張ることになろうとは思いもしなかった。
「……黒田さん、年齢差など瑣末なことです。咲子さんは立派な淑女でしょう」
「君が気にしなくても、世間は気にするだろうからなあ」
「もしも咲子さんが世間でとやかく言われることを懸念しておられるのならご安心ください。民衆の口は塞げませんが、心ない中傷に傷つかぬよう力を尽くして守ってみせます」
 忍介は焦っていた。なにしろ明日は咲子の二十歳の誕生日。約束の日なのだ。
 自分から言い出した期日を違えることだけでなく、あの日の約束を自分が忘れていると思われるのが耐え難かった。
 いっときだって忘れたことはない。
 毎日毎時毎分毎秒、彼女を想って胸を焦がしてきた。
「いかなる脅威からもお守りすると誓いましょう。例の誘拐事件でしたら、もうすぐ決着がつきます。どうか、今日こそはご了承いただきたく」
「だがね、忍介君……」
「黒田さんはいつかおっしゃいましたね。良き実業家には良きパートナーが必要だと。私にとってそれは咲子さん以外にありえないのです」
 一歩下がり、頭を畳に擦り付けると忍介はプライドをかなぐり捨てて懇願した。
「この通りです。咲子さんを妻にいただきたい。命にかえても苦労はさせません。生涯ただひとりの妻として、帝都一幸せにしてご覧にいれます」
 たとえ額が擦り切れようが、咲子さえ手に入るならかまわなかった。
 咲子は忍介と交わした約束を守り抜き、今も独身でいる。離れていた間も他の男に目をくれることなく、ひたすらに自分を待っていた。忍介が帰国してからも石のごとき沈黙を貫き、忍介に催促さえしない。
 その一途さを思うと切なさに身がちぎれそうになる。
 なんとしても咲子が欲しい。咲子でなければ娶る意味などない。
「……忍介君、顔を上げたまえ」
「お許しをいただくまでここを動きません」
「ずっとそうしていたら店に迷惑だろう。ほどほどで諦めたまえよ」
「そうおっしゃると思いまして、本日は店を一晩借り切ってあります」
 怯んだ気配がしたので、忍介はひそかに口角を上げた。今夜ばかりは負ける気がしない。なんとしても色よい返事をもらうべく、準備万端整えておいたのだから。
「黒田さんの風呂と寝床は奥にご用意しました。着替えと寝間着も新しいものをそちらに。朝食も出すよう頼んでありますが、和食でかまいませんか。ご自宅への連絡もいつでもお取りいただけますし、明日の朝、ここから出発してどこへでも向かえるよう車も手配してあります」
 このやり口は、忍介に結婚を承諾させたときの咲子と同じだった。反論の隙を与えず、白旗を上げるまで一気に攻めいる。父親である彼ならば、きっと心当たりのある手口だろう。そう踏んで、わざと似せたのだ。
 話し合いももう六度目になる。こうなったら必ずや正攻法で首を縦に振らせてやるという意地がこちらにはあるが、黒田氏のほうとしても同様にちがいない。長引けば長引くほど、簡単に前言を撤回できないのが男というものだ。
 忍介も伊達に交渉の場数を踏んできたわけではない。経験則から、この場合の有効な対処には見当がついている。
 意地を上手に挫くには、言い訳を与えてやるのがてきめんなのだ。
「他にご入用のものがおありでしたら、この忍介になんなりとお申し付けください。大旦那を失望させるような真似は決していたしません。ただし、私以上に咲子さんを幸せにできる相手というのは、用意して差し上げられませんが悪しからず」
 忍介はひと息に言い切ると、ばっと面を上げた。そこにあったのは、呆気にとられたような表情で動作を止めている大旦那の姿。虚をつかれて瓦解寸前といったふうだ。
 これ以上攻めることもなかろうと、続きは微笑んで呑み込んだ。
 思い起こせばこの四年、吐き出したい欲求に耐え続けてきた。海の向こうで異国の女に誘いを受けた経験もあったが、その気になれたことは一度としてない。気分どころか、そもそも他の女には体が反応しないとわかったときは、手遅れだと実感したものだ。
 咲子を想うときしか熱くなれない。
 そんな偏った性欲を、忍介は今も持て余している。欲求不満にメーターがあるなら、忍介のそれはとうに振り切れている。
 すると黒田の大旦那は豪快に噴き出し、杯をとんと座卓に置いた。参ったと言いたげな、気持ちのよい仕草だった。
「……なんだ。君のその根性は、咲子とそっくりじゃないか」
 そうこなければ。

 *

「一郎、一郎ッ!」
 翌日、忍介は所有している背広のうちでもっとも上等なものを身につけると、いつもより一時間ほど早く自宅の玄関を出た。仕事を早めに切り上げて、黒田家へ挨拶に行くためだ。眠い顔をして人力車を引いてきた車夫の一郎を急かし、志方銀行へ向かう。
「今朝はやけに張り切りますね、旦那様」
 前方からぼやかれ、返せたのは自嘲じみた微苦笑だった。
「……自分でもまったく呆れるな」
「ご自覚がおありでしたか」
「放っておけ」
 昨日の今日で自宅を訪ねて来られようとは、黒田の大旦那もゆめゆめ思ってはいまい。だが、時間をおいて考えを翻されでもしたらたまらない。早いところ、第三者を交えて言質を取っておかねば。考え始めると、焦燥に駆られて胸元を掻きむしりたくなる。
(再会したら、もう逃がさない)
 いつか、ダンスの途中で離してしまった華奢な両手を懐かしく思う。胸の前で切なそうに握り締められた彼女の手を、今度取ったときには二度と放さぬと決めている。たとえ、あちらから離れたいと懇願されても。
「おい一郎、もっと急げないのか」
 もどかしさのあまり前方の車夫を急かすと、無茶をおっしゃいますなと嗜めるような声が返された。こんなことなら自動車を運転させるべきだったか。
 喉の渇きに襟元を緩めて、忍介は斜め上にふうと息を吐く。空にはまだ朝焼けがうっすらと残り、そこに白っぽいものがちらほらとよぎっている。
 肩に舞い落ちたそれを指先でつまみあげてみると、桜の花びらだった。見れば、行き交う人々の装いも商店の店先も、すっかり春らしくなった。
 頭を下げることに力を注いでいるあいだに、視界は春であふれていた。
                                     【了】

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