ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

雪解けの報せ

 短い夏がもうすぐそこまで来ているというのに、いつになく雪が途切れることなく降っているせいだろうか。
 なんとなく身体が重くて怠く感じ、ベッドに横たわって雪がしんしんと音もなく降り積もる様子を眺めていたヴィクトリアは、屋敷の門が開く音を聞いて、急いで玄関ホールへと向かった。
 するとそこにはエイナルと使用人たち、そしてヴィクトリアの両親が既に整列をしていて、マティアスの帰宅を待っていた。
 オーグレーン王国が王国ではなくなって、今日でそろそろ三ヶ月が経つ。
『自由の風』が国民を突き動かし、ヨルゲン王による絶対王制を崩すのは、たったの十日で片がついた。
 それはまさに嵐が過ぎ去ったあとのようで、絶対王制が崩れていった様子を、国民は『嵐の十日間』と呼んでいる。
 並み居る貴族たちはヨルゲン王が自由の風に処刑されたと聞くと、皆慌てふためき、次の標的となる自分たちの身を守る為に、屋敷から持てるだけの財産を持って、ほとんどが辺境の地へ身を隠した。
 しかし自由の風と親密な関係を築いていたベルセリウス元公爵家だけは狙われることもなく、爵位を捨てただけで今までとあまり変わらぬ生活を送ることができていた。
 そしてベルセリウス家の二男で唯一の後継者であるマティアスは、新たに海運業を興し、ヴィクトリアの両親を屋敷へ呼び寄せてくれたのだ。
 両親は男爵という爵位を失ったことに悄然として一気に老け込んでしまったが、命が助かってマティアスに養ってもらえると知り、とても感謝をしていた。
 もちろんヴィクトリアも両親まで気に掛けてくれるマティアスにとても感謝をして、今まで以上に彼を愛おしく思っていた。
「おかえりなさいませ、マティアス様」
 使用人が扉を開くと同時に、マティアスが颯爽とした足取りで屋敷に入ってきた。
 そして雪がうっすらと降り積もったマントと手袋を使用人へと渡し、ヴィクトリアを抱きしめてくれる。
「おかえりなさい、マティアス」
「ただいま、ヴィクトリア。なにもなかった?」
「えぇ、今日はお父様とお母様と一緒に、温室でお茶をして過ごしていたの」
「それは良かった。義父上殿、義母上殿、ここの暮らしには慣れましたか?」
 マティアスが微笑みながら見下ろすと、両親は穏やかな笑みを浮かべてお辞儀をする。
「マティアス殿のおかげで快適に過ごさせてもらっております」
「本当に、マティアス様にはなんとお礼を言っていいのか……」
 爵位がなくなってからというもの、すっかりアクが抜けた父と母は、控えめに微笑んでお礼をしている。
 両親は自由の風の一派に屋敷を追われて、贅沢三昧な暮らしを糾弾されたことですっかり懲りたようで、あれほど金を無心していたとは思えないほど謙虚になった。
 それに今後はマティアスが養ってくれることで心身共に安心したのか、顔つきまで穏やかに変わったように思えて、ヴィクトリアはとても嬉しかった。
「愛するヴィクトリアのご両親が困っているのを助けるのは当然のことです」
「本当にありがたいです。あとは孫が見られたら、これ以上に幸せなことはありません」
「そうですね、俺も早くヴィクトリアとの子供を見たいです」
 にこやかに話し合っている二人を見て、ヴィクトリアはその場の空気を乱さない程度に微笑みながらも俯いた。
 マティアスや父は子供が生まれるのを期待しているようだが、子供ができない自分の身体を思うと、二人の希望に添うことはできそうにない。
 それを考えるだけで憂鬱な気分にもなってきて、思わずため息が洩れた。
「どうかした、ヴィクトリア?」
「いいえ、なんでもないわマティアス」
「ならばいいけれど。さぁ、みんなで夕食にしよう」
 マティアスに腰を抱かれて微笑んだヴィクトリアは、彼に寄り添ってダイニングルームへと移動をした。
 そして席までエスコートされておとなしく座り、使用人が運んできた美味しい料理を四人で会話をしながら食べていたのだが――。
「ヴィクトリア? 食が進んでないようだけれど、なにかあった?」
「い、いいえ、なんでもないわ」
 大好きな鹿のステーキが供されたというのに、みんなと同じタイミングで食べ終えることができなかったヴィクトリアを見て、マティアスが心配そうに声をかけてくる。
 慌てて微笑み、スグリのジャムを付けて食べたが、子供のことを思うと美味しい筈の鹿のステーキもなんだか味がしなかった。
「もしかして本当に子供ができたのかもしれませんな」
「お父様ったら……」
 父の言葉にびくっと反応したヴィクトリアは、少し恨みがましい目つきで父を見上げ、それから期待に満ちた目で凝視める二人を見まわした。
「私は妊娠していません」
「そうなの? 食欲がなさそうだから、もしかしたらと思ったけれど……」
「こればかりは神に祈るしかないようですね」
 ヴィクトリアがきっぱりと否定したこともあり、父と母は残念そうな顔をしていたが、マティアスは優しく微笑んでくれた。
 それだけでも救われた気がしてホッとしていると、メインディッシュのプレートを下げに使用人とエイナルがやって来た。
「本日のデザートはルバーブのケーキでございます」
「私は遠慮します」
 雪解けを報せるルバーブという旬の野菜がたくさん入ったケーキは、今年初めてなので少しだけ気になったが、それよりも頭の中は不安でいっぱいで、ヴィクトリアは微笑みながらも首を横に振った。
「ならば俺も辞退しよう。エイナル、リビングにコーヒーを持ってきてくれ。では義父上殿と義母上殿はどうぞ食事を最後まで楽しんでください」
 両親ににこやかに微笑みかけたマティアスは、ヴィクトリアの椅子を引いてくれた。
 それに合わせて立ち上がると腰を抱かれ、そのままリビングへとエスコートされる。
「デザートは辞退したがコーヒーくらいは飲めるだろう?」
「えぇ、喜んでいただくわ」
 エイナルがコーヒーを置いて静かに退室していくと、マティアスは馨しい香りのコーヒーを飲むのもそこそこにヴィクトリアの肩を抱き寄せる。
「それでなにを悩んでいるのかな、俺の可愛い奥さんは?」
「マティアス……」
 頬に優しくキスをされて、ヴィクトリアは今にも泣き出しそうな表情を浮かべてマティアスを見上げた。
「わかっていると思うけれど、私は何年も子供ができなかったわ。だからマティアスやお父様たちに期待されても、子供を身籠もることはできないと思うの……」
「もしかしてそれで落ち込んでた?」
「えぇ、私の身体が悪いせいで、みんなの期待に添えないと思ったら、食事もろくに喉を通らなくて……」
 すっかり気落ちして俯くヴィクトリアの頬やこめかみにキスを落としながら、マティアスは身体をギュッと抱きしめてくれる。
「大丈夫、俺たちの間には子供は生まれるよ」
「けれど……」
「本当だよ、信じて。今まで子供ができなかったのは、ヴィクトリアのせいじゃなくて兄さんに問題があったんだ」
「え……?」
 あまりに驚きすぎて見上げると、口唇にもチュッとキスをされて頬を優しく撫でられた。
 そしてマティアスはリキャルドを思い出すように、遠くを凝視めて――。
「兄さんは昔、隣国との戦いで片目を失明しただろう? その時に他にも深い傷を負って、何日も高熱を出したんだ」
 しかしリキャルドは高熱が出ているにも拘わらず騎士団の仕事を優先して、ヨルゲン王への報告やいろいろな雑務をこなしている間に、子種を作ることができない身体になってしまったのだとマティアスは言う。
「だからヴィクトリアの身体に問題があるんじゃなくて、兄さんに問題があったんだよ」
「知らなかったわ……」
 初めて知った事実に驚きすぎて、ヴィクトリアは目を見開いた。
 後継ぎを産めないような身体だから、結婚してもらえないと思い悩んでいたというのに、まさかリキャルドのほうに問題があったなんて思いもしなかった。
 だとしたらいったいどうしてすぐに結婚してくれなかったのか疑問に思ったが、リキャルドがこの世にいない今、問題を掘り返しても意味がないように思えて、マティアスに寄り添った。
「俺は健康体だし、ヴィクトリアにも問題はない。だから子供はできるよ」
 微笑みかけられたがなにも言い返すこともできずにいると、マティアスはそんなヴィクトリアをいたわるように背中を撫でてくれる。
「これで安心した?」
「えぇ……なんだか安心したらデザートが食べたくなったわ」
 ヴィクトリアの言葉にプッと噴き出したマティアスは、デザートを持ってこさせるべく、テーブルにあるベルを鳴らした。
 するとほどなくしてエイナルがやって来て、マティアスがデザートを運ぶように指示を出す。
 そして目の前にルバーブのケーキを用意されたヴィクトリアは、それをさっそくコーヒーと共に楽しんだ。
「美味しい?」
「えぇ、とても美味しいわ」
 食事の席では子供を産めない身体のことが気掛かりで、なにを食べたかよく覚えていないくらい落ち込んでいたが、しっとりとして甘酸っぱいルバーブのケーキは頬が落ちるほど美味しく感じ、ヴィクトリアはにっこりと微笑んだ。
「良かったら俺の分も食べるといいよ」
「……いいの?」
「あぁ、ヴィクトリアが幸せそうに食べている姿を見ているほうが俺は嬉しい」
 そう言われるとなんだか気恥ずかしくなったが、せっかくなのでマティアスの分にも手をつけようとした時だった。
「……っ…」
 急に強い吐き気が襲ってきて、ヴィクトリアは慌ててバスルームへと駆け込んだ。
 上の空ではあったものの、メインディッシュまで普通に食べたのに、デザートを二人分も食べようとしたから気分が悪くなったのかと思ったが、よく考えると月のものが二ヶ月も来ていないことを思い出した。
(まさか……)
 自分は子供が産めない身体だと思い込んでいたので、そんなに意識していなかったが、もしかして月のものが来なくて急な吐き気が来るということは――。
「ヴィクトリア、大丈夫?」
 その時、バスルームの扉をマティアスにノックされて、ヴィクトリアは慌てて口をすすいで身なりを整えた。
 そしてバスルームを出たヴィクトリアは、心配そうな顔をしているマティアスに内緒話を打ち明けるように顔を寄せた。
「それ、本当に……?」
「えぇ……」
 恥ずかしいながらもしっかりと頷くと、マティアスは見たことがないほど嬉しそうな笑みを浮かべてヴィクトリアを抱き上げた。
「やった! ありがとう、ヴィクトリア!」
「ちょっ……まだわからないのに、そんなに喜ばないで」
「いいや、きっと俺たちの子供ができたに違いない!」
「んっ、マティアスったら……」
 熱烈なキスを受けて見下ろすと、マティアスはヴィクトリアを見上げて本当に嬉しそうに微笑んでいる。
 それを見たらヴィクトリアもじわじわと嬉しさが込み上げてきて、薄く微笑んだ。
「さっそく屋敷中のみんなに報告しないと。あぁ、それより医者を呼ぶほうが先かな?」
「慌てないで。まずはお父様とお母様、それにエイナルにだけ報告をして、お医者様に診断してもらってからみんなには報告したほうが……」
「あぁ、そうだね。どちらが生まれてきてもきっと可愛い子が生まれるに違いない」
 そう言いながらソファに座らされて、まだ薄いお腹を摩ってくるマティアスを見ていたらついつられて、ヴィクトリアは彼の手に手を添えた。
「子供を授かっているかもしれないなんて……」
 妊娠はしていないと先ほど堂々と宣言したというのに、まさかその日に妊娠の兆候らしきものが表れるとは思ってもみなくて、ヴィクトリアは嬉しいと思うより先に呆然としてしまった。
「かもしれない、じゃなくて本当に子供を授かったんだよ」
「あまり喜ばないで。もしも違っていたら、がっかりさせてしまうわ」
「大丈夫、もしも違っていたとしても、これからまた頑張ればいいし、がっかりなんかしない」
 しっかりと頷いてくれたマティアスを見たらホッとしたが、まだぬか喜びはできない。
 それでも次のチャンスを考えてくれているマティアスを、ヴィクトリアは恐る恐るといった様子で見上げた。
「本当に赤ちゃんを授かっていなくてもがっかりしない……?」
「あぁ、もちろん。でもきっと授かったに違いない。とても嬉しいよ、ヴィクトリア。今まで以上に働いてみんなを幸せにするとこの子に誓うよ」
「マティアス……」
 嬉しそうにお腹を摩りながら言われて、本当に喜んでくれているのがわかり、少し戸惑っていたヴィクトリアも、なんだか妊娠できたように思えてふんわりと微笑んだ。
 そしてマティアスを凝視めてからそっと目を閉じると、間もなく優しいキスをされた。
 子供は産めない身体だと諦めていたのに、子供を授かっているかもしれないと思うと、涙が滲むほど嬉しい。
 実際にアメジストの瞳に涙を浮かべると、マティアスはそれを吸い取ってくれて、いたわるように身体を抱きしめてくれる。
 そんなふうに優しく気遣かってくれるマティアスの深蒼色の瞳を凝視めて微笑んでいると、彼はとてもワクワクした表情になった。
「さっそく子供部屋を用意しないと」
「気が早いわ」
「こういうことは早いほうがいい。さぁ、それじゃまずは孫を待望している義父上殿と義母上殿に報告に行こう」
「あっ……」
 掬うように抱き上げられて慌ててマティアスを見上げたが、当然のような顔をしていて、ヴィクトリアは困ったように眉を顰めた。
「一人で歩けるわ」
「大事な身体だ。医者がしっかり診断してくれるまで、大切に扱わないと」
 そう言いながら頬にまたチュッとキスをされて、なんだか照れくさくなってしまった。
 それでもお腹に宿ったかもしれない小さな命を大切に思ってくれているのがわかり、ヴィクトリアもマティアスに抱きついた。
「さぁ、新しい家族をみんなに紹介しに行こう」
「えぇ」
 優しく微笑むマティアスにヴィクトリアも微笑んで、二人はもう一度だけキスを交わし、おでことおでこをくっつけてクスクスと笑い合ったのだった。

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