それでも、一緒に
―――今でも時折、過去に引き戻される瞬間がある。
セシリアは汗まみれになりながら、自分の悲鳴で眼を覚ました。荒い呼吸が耳に煩く、心臓が胸を飛び出さんばかりに暴れている。
一瞬ここがどこだか分からず、混乱する意識のまま、忙しなく周囲に視線を走らせた。幾度も瞬きして確認すれば、見慣れた寝室が眼に映る。自分が横になっているのも、使い慣れた寝台だ。断じて凍える水の中などではなく、大きく喘げば空気は肺に満たされる。
「ゆ、め……」
口にするまでもなく、セシリアは理解していた。それでも尚、声にして確かめずにはいられない。冷たくなった手足は小刻みに震え、何かに縋ろうとでもしたのか、指が白くなるほどに敷布を握り締めていた。全身に噴き出した汗は容赦なく体温を奪い、夜着を不快に肌へ張り付ける。それらも全部、いつものこと。
「は……」
ゆっくり吐き出した息が声帯を震わせ、か細い悲鳴に変わった。
―――もう、全て過去のことだ。
頭では納得していても、身体は恐怖を忘れてくれない。絶望し、死を間近に感じた水底の世界は消えることなく、油断すればいつでもセシリアを飲み込みにやってくる。それも、こんな一人寝の嵐の夜には。
窓の外はごうごうと叩きつける雨音と雷鳴で、普段の静けさなど忘れてしまっていた。暴風に嬲られた樹々は軋みながら揺さ振られ、荒れ狂う空には幾度も稲妻が走っている。
一際大きな落雷があったのか、眼が眩む光の後に空気が震えた。
雷に照らされて浮かび上がる室内は、普段のセシリアにとっては安心できるものだ。だが主のいない今は、妙に寒々しく他人顏で沈黙している。それでも微かに漂う残り香に必死にしがみつき、セシリアは呼吸を整えた。
「ただの、夢……」
自分は今、死にかけてなどいない。愛する男に死を望まれるほど憎まれてなどいない―――
言い聞かせれば聞かせるほど、空々しく響く文言が恐ろしく、セシリアは自分の身体を抱き締めた。
―――独りでいると、心細くて堪らないの……
アレクセイは嵐のせいで王都で足止めを食っている。本当ならば、森の中に在る屋敷へ一足先に保養に来たセシリアと、昨日のうちには合流するはずだった。けれど、この天候で予定が狂っている。
未だ暴れ狂う胸を押さえ、セシリアは小さく丸まった。同時に自分の奥底から響く声に耳を塞ぐ。
―――許してなんていないから、そんな夢を見るのではないの?
「……っ、」
―――当たり前よね。だってあの人は私を殺そうとしていたんだもの。簡単に忘れられるはず、ないのよ。お互いに。
「やめて……っ!」
否定しても囁きは止まず、嘲笑さえ含んでいる。過去の何もかもを無かったことになどできないことは、骨身に沁みている。それでも日々の幸福に押し流され、時折辛かった全てが幻の如く感じることがあった。そして、その後は決まって悪夢に襲われる。まるで戒めのように。
アレクセイを愛している。信じてもいる。その想いに嘘はないし、関係を維持するためには、どんな努力も惜しまないつもりだ。
でも……
理屈ではない所で、わだかまった澱が沈澱してゆく。きっと、これからもそれは変わらない。自分たちは互いへの罪悪感を払拭することはできないだろう。けれどそれでも、共に生きていこうと誓った。
過去を引っくるめて、今がある。痛みも苦しみも一緒に背負ってゆく。
セシリアは忍び寄る過去の幻影から眼を逸らさず、夜明けを待った。
翌朝は、ぬかるんだ地面と散らばった木葉を置き土産に、嵐は遠退いていた。エリザは掃除に駆り出され、忙しそうに立ち働いている。セシリアも何か手伝おうと身支度して外に出たが、とんでもないと室内へ連れ戻されてしまった。そうなると特にすることはなくなってしまい、屋敷に続く道をぼんやり見守る位しかない。
―――アレク様に早く会いたい。でも、怖い。
セシリア自身の心は決まっていても、アレクセイはどうだろう。揺り戻されるようにかつての憎しみに支配されたりはしないのか。心の隙間に溶けない氷を宿してはいないのか。今はセシリアを愛してくれているけれど、不意に天秤が傾くことだってあり得るのでは。
悪夢に囚われた後必ず迷い込む負の思考は中々セシリアを解放してはくれず、弱気に傾いだ心はアレクセイを求めて逡巡する。だから、遠くから馬車の音が聞こえた時には、セシリアは立ち上がっていた。
「アレク様!」
使用人の眼も気にせず喜色を表したセシリアへ、馬車から降りたアレクセイははっきりと安堵を示した。
「……ああ、良かった」
「……?」
彼は嵐の被害でも心配していたのだろうかと、セシリアは素早く屋敷の破損箇所を思い浮かべる。どこも壊滅的被害とまではいかないし、怪我人はいない。馬も無事だ。安心してもらおうと笑みかければ、切実な強さでアレクセイに抱き締められていた。
「……っ、アレク様……!?」
もちろん、嫌ではない。けれど恥ずかしい。沢山の使用人たちの眼が、二人に集中している。
「……君が、消えてしまう夢を見た」
それは、セシリアだけに聞こえる声だった。掠れた弱々しい呟きは、微かに鼓膜を震わせ掻き消える。気づけば、アレクセイの身体もまた、震えていた。
「幸せな時は幻だと、セシリアが手の届かない所へ去ってゆく悪夢だ……」
「……」
それは、たぶん、少なからず現実になり得た未来だ。おそらく、アレクセイがセシリアを探し出してくれなければ、高い確率で引き寄せられた結末。彼がもし、必死に繋ぎ止めようとしてくれなければ、二人の間にあるか細い糸は簡単に引きちぎられたはずだ。アレクセイが丁寧に、時にがむしゃらに求めてくれたからこそ、今がある。怯えるセシリアへ、もう一度愛する勇気を与えてくれたのは、間違いなく彼だ。
「……どこにも、行きませんよ。貴方が必要だと思ってくださる限りは」
セシリアの知らぬうちに、アレクセイも過去の悪夢に苦しめられていたのかと思うと、胸が痛い。そして同時に嬉しくもある。
誇り高く、強くあらねばと己を厳しく律している彼が、自分の前だけはこんなにも弱々しい面を見せてくれる。みっともなく縋りつき、愛を請う。それはなんて―――甘美な誘惑だろう。
逞しい彼の背中へ手を回し、セシリアは幸福を噛み締めた。
―――大丈夫。この想いがあれば、何度だってやり直せる。万が一見失ってしまったとしても、きっとまた、恋をする。
「……では永遠に、傍にいてくれ」
「はい……」
漸く力を抜いたアレクセイはセシリアと額を合わせ、黒曜石の瞳で見つめてくる。その中にいつか見た星々をセシリアは探した。強い不安を宿した彼が愛おしい。
アレクセイとならば、強くなれる。この先の困難も乗り越えてゆける。
新たな誓いと共に、二人はキスを交わした。