お世話係と奥さま
リンは部屋に飾られた白いドレスをじっと見つめていた。
これを着て、三日後、リンはアングラード卿と呼ばれているライアンの妻になる。身分違いだとか、ライアンが再婚だとか。いや、そもそもライアンは前王の血を引く人間で、本当なら口もきけない相手だと、思うことは色々あったが、それでもあの寂しくて優しい人の側にいると決めた。
そのことにリンは後悔などしていない。
だが、正式に結婚式の日取りが決まってからのライアンの暴走にはかなり困っていた。
はじめに、屋敷の中にリンの部屋を決められた。それはまだいいが、最高級の家具や美しいドレスをはじめ、数々の装飾品も眩暈がするほど揃えられてしまい、今さら商人に返すことはできないからと結局受け入れなければならなかった。
実家のことも、敷地内同居こそ両親が断ってなんとか見送りになったが、今住んでいる場所からほど近い立派な屋敷をいつの間にか買い取っていて、そこに引っ越し、弟たちが学校の合間に働かなくても良いように過分な援助までしてくれた。
もちろん、受け取ることはできないと辞退したものの、新しい家族になるのだからとライアンに押し切られて―――今に至る。
「はぁ……」
大切にされているのは良くわかる。リンも、ライアンのことを大切にしたいし、愛している。
ただ、今の与えられるばかりの状況は心苦しい。
リンはもう一度ドレスを見る。細かな刺繍がされた、シンプルだがとても美しいドレス。自分には本当にこれを着る資格があるのだろうか。
「きれー」
「!」
その時、いきなり声がしてリンは慌てて振り向く。
「ルイス」
「これ、きれーだね」
純粋な讃美に、リンはそれまで頭の中を占めていた不安や心配を押し殺して笑った。
「ええ、綺麗ね」
「これ、リンがきるの?」
「そうよ」
「とおさまのおよめさんになるんだよね」
「え……え」
「いいなあ」
ルイスはドレスの前に立つと、リンの顔と交互に見ながら可愛らしく唇を尖らせる。
「リン、ぼくのおよめさんになってくれたらいーのに」
「ルイス」
「ぼくだって、リンがだいすきなのに」
そう言って無邪気に腰にしがみ付いてくるルイスの髪を撫でていると、自然と愛おしさが募った。
義母という立場になるが、リンはルイスのことも大好きだし、幸せにしたいと思っている。その彼が自分のことを慕ってくれるのは嬉しかった。
「私も、ルイスが大好き」
「とおさまより?」
いきなり難しい質問だ。笑って誤魔化そうにも、期待に満ちた目を向けられると「ルイスの方が好き」と言ってやりたくなる。
今ここには自分たちしかいないし、たわいない言葉のやり取りを聞き咎める者はいなかった。
「ルイスが……」
好き、と言おうとした時、
「当然、私の方だね、リン」
笑みを含んだ声と共に肩を抱き寄せられ、リンは驚きで声も出ずに固まってしまった。
「えー、とおさまのほう?」
「私の次がお前だ。そうだね?」
ルイスが入ってきた時にドアは開いたままだったらしい。いったいいつからここにいたのか、声を掛けられるまで気づかなかった自分の迂闊さを呪いたくなった。
ライアンはそんなリンの動揺を知ってか知らずか、顔を覗きこむようにして返事を促してくる。誤魔化しなど許さないとでもいうような目の光に、リンはルイスの反応が気になりながらも口を開いた。
「……ごめんなさい、ルイス。旦那さま……お父さまのことが一番好きなの。で、でも、ルイスのことだって大好きよ?」
「うん!」
一番ではないと言ったが、その次の「ルイスが大好き」という言葉で満足したらしく、大きく頷いてくれた。
その反応に安堵していると、ライアンがじっと見上げてくるルイスに向かって言う。
「父さまは今からリンと大切な話があるんだ。レジーヌのところに行っておやつをもらいなさい」
「はーい!」
おやつと聞いてルイスが嬉しそうに走り出す。部屋から出ていくルイスの後を追おうとすると、
「あっ」
腕の中で向きを変えられ、ライアンと向かい合う形になってしまった。
「言い訳を聞こうかな」
「え? あ、あの」
「私よりもルイスのことが好きだと言おうとしたんだろう?」
やはりわかっていたようだ。それが子供であるルイスに対する気づかいだと説明して、ライアンはわかってくれるだろうか。
「だ、旦那さま、私は……」
「ん?」
「あれは……」
混乱して、なかなか言葉が出てこない。リンはライアンの胸元の服を両手で掴み、想いを伝えるようにその目を見つめ返した。
後で、服が皺になってしまったことを後悔するかもしれないが、今はライアンから離れることはできない。
不意に、ライアンが目を細めて笑った。
「……旦那さま?」
「困った顔も可愛い」
「え?」
怒っているとばかり思っていたが、今見るライアンは上機嫌だ。
その顔を見ているうちに、リンはジワジワと顔が熱くなっていくのがわかった。
からかわれたのがわかったからだ。
(私は本気で心配したのに……っ)
リンは寸前まで縋っていたライアンの胸を押し返そうとしたが、意外に強い力はリンの身体を拘束して離さない。いや、そればかりか軽々と抱き上げられ、そのまま居間に置かれた長椅子の上へと下ろされてしまった。
「だ、旦那さまっ?」
「寂しいと思ったのは確かだよ」
突然のことに反論しようとしたリンは、少し声を落としたライアンの言葉に口を噤む。
「だが、ルイスのことを思う君の気持ちが嬉しかったのも確かだ」
「……」
「君なら、ルイスの良い母親になってくれる」
「……本当に?」
「もちろん、私にとっては最良の伴侶だ」
そう言って頬にくちづけされたリンは咄嗟に目を閉じた。
唇を舐められて条件反射で少し開けは、直ぐに舌が入り込んでくる。互いの舌を絡め、唾液を交換する濃厚なくちづけに酔ってしまったリンは、ようやく唇が離れた時にはすっかり身体から力が抜けていた。
「リン」
ライアンの手が優しく髪を撫で、頬に触れる。それにスリッと身を寄せたリンは、ぼんやりとした眼差しを真上にいるライアンに向けた。
綺麗な碧の目の中に情欲の光があるのを見て取り、急激に自分の身体にも焔が灯ったのがわかる。
(わ……たし……)
せめてちゃんと結婚するまでは同居はできないと訴えたのが通ったものの、「我慢できない」というたった一言で三日に一度は屋敷に泊まるはめになっていた。
その間、ほぼ毎回ライアンに抱かれ、何も知らなかった性の営みに慣れてきた自分の身体は、いつしかライアンの手が触れるだけで感じるようになってしまった。
自分がこんなにも淫らになるとは思ってもみなかったリンはいまだ認めたくはないが、今だってくちづけをされただけで身体が蕩けたようになっている自分を見ない振りなどできない。
(もっと……)
ちゃんと、抱きしめてほしい。
ねだるにはちゃんと言葉にしなければいけないと教えてくれたのはライアンだ。
リンは頬に触れるライアンの手に自身のそれを重ねる。
「……旦那さま」
「違うだろう、リン」
二人きりの時、呼ぶ名前はそれではない。
「……ライアン」
素直に言い直すと、ライアンは褒めるように軽く唇にくちづけてくれた。
「お、願い、もっと……」
触れて。
そう言おうとしたリンの目に、白いものが掠めた。
(……今の……)
「!」
白いものの正体。それが自身の白い前掛けだと思い当たった瞬間、リンは今が就業中だということを思い出した。
公私の区別はちゃんとつけると自分に誓ったくせに、雰囲気に流されてしまった。ライアンの誘導も多分に影響があったのだが、今回は彼だけを責めるわけにはいかない。
「旦那さまっ」
リンの口調が変わったことにライアンも気がついたはずだが、なかなか圧し掛かった身体を引いてはくれない、いや、むしろ確信犯のようにさらに密着させてきた。
「だ、駄目ですっ」
「どうして?」
「仕事中、ですからっ」
「主人の私が構わないと言っても?」
その言い方はずるい。そう言えばリンが逆らえないことを知っているくせに、ライアンはわざとリンを試そうとする。
ライアンはくちづけしようとしてくるが、リンはむきになって顔を逸らした。誤魔化されるのは嫌だ。
「君はもうじきこの屋敷の女主人になるんだよ? 誰も私たちのすることに文句を言わないし、私はいつだって君を抱きたいと思っている」
直接的な言葉に顔が熱くなるが、その言葉が心底嫌でないから困る。
リンも、ライアンに抱かれたくないわけではない。ただ、そこに《節度》は忘れないでほしいとは思う。
それに。
「私は、これからもちゃんとお世話をしたいと思っています」
使用人ではなくなってしまうが、安穏とした日々を送るつもりはなかった。元々身体を動かすのは好きだし、何より人に傅かれる生活に慣れていないので心苦しい。
今までのように掃除や洗濯ができなくても、ライアンとルイスの世話はしたい。それだけは、譲れない。
「旦那さま……ライアンは、今までの私を見て、好きになってくださったんですよね? それならばどうか、私の仕事を取り上げないでください」
必死に訴えるリンを見下ろしていたライアンは、しばらくしてわざとらしく大きな溜め息をついた。
「私は君の《お願い》に弱い」
「ライアン」
「ただし、私専属のメイドになってくれることが条件だよ」
それが、ライアンにとってかなり譲歩した結果だというのはよくわかって、リンは思わずその首に腕を回して抱きついてしまった。
「ありがとうございますっ、旦那さまっ」
特別扱いの心地良さに、リンは再び落ちてくる唇を今度は避けることはなかった。
重なった唇から覗く赤い舌が妙に官能的で、ライアンは欲望に素直になることにした。
(本当に、強情な子だ)
何不自由ない貴族の妻と言う地位が約束されているというのに、いつまで経っても謙虚な気持ちを忘れない。自制心が強すぎて、時々感情のまま共に本能に溺れようと思っているのに、溺れきってくれないのがじれったい。
だが、そんなリンだからこそ、この腕の中で乱れ、鮮やかに変貌する姿を知っている自分は、彼女に余計に惹かれてしまうのかもしれない。
(早く時間が経てばいい)
毎日、リンの顔を見て目覚め、リンを抱きしめて眠りたい。
この腕の中からは絶対に逃げてしまわないと確信したい。
三日後の結婚式を待ち遠しく思っているのはライアンの方だ。
「リン」
くちづけから最後までなし崩しにいこうとしたライアンだったが、我に返ったリンからはすっかり欲情の火は消えてしまっていた。
それでもくちづけを繰り返していると、ちゃんと応えてくれる。
(愛しい、リン)
本来は、結婚式までの間は家族のもとに帰してやるのだろうが、中途半端に欲情してしまった身体の熱はリンを抱くまで鎮まらない。
「旦那さま?」
(また戻っている)
いつになったら可愛い声で名前を呼んでくれるようになるのかと思うものの、寝室の中だけの呼び名だと割り切ればそれはそれで楽しい。
「今夜は泊まりなさい」
「え」
急な提案に、案の定驚いた声が上がる。
「いいね」
しかし、リンが自分に甘いことを知っているライアンは、どうすればリンが頷いてくれるのかもうわかっている。
戸惑うリンの顔を見下ろしながら、ライアンは再び顔を近づけた。
身体を重ねるのは夜まで我慢しなければならないが、それまでに美味しい前菜をたっぷり味わっておくつもりだった。
END