唇―くちづけ―
午後の休憩時間になった。
官女たちがお菓子の準備をしている間に、エミーネは紅茶を淹れ始める。
チャイを淹れるのは、いつしかエミーネの役割になっていた。政務に疲れた夫を少しでも癒やせるように……と、心を込めて赤褐色のチャイをグラスに注ぐ。
エミーネがアレヴ皇国の世継ぎであるクライシュの妻となって、三カ月が経っていた。
結婚生活は順風満帆で、もしや楽園に迷い込んでしまったのではないかと疑うほど、幸せな日々を過ごしている。
――だが、エミーネには悩みがあった。
誰にも秘密にしている、ただひとつの悩みが。
「クライシュ様。お砂糖はいくつになさいますか?」
お菓子が嫌いなクライシュだったが、疲れたときには甘い物がいいというエミーネの勧めに従って、気分によっては紅茶に砂糖を入れるようになっていた。だから休憩の際には、いつもこうして砂糖の有無を尋ねている。
「今日は必要ない。代わりに極上の菓子をもらう」
彼はそう言いながら、エミーネの座っている長椅子に近づいてくる。
「……え……?」
二メートルを超える巨躯を持つクライシュはどっかりと隣に腰かけると、首を傾げているエミーネの顔を覗き込んできた。
「なにを驚いている。お前の唇のことに決まっているだろう」
そう言いながら口づけしようとしてくるのを、エミーネは掌で彼の唇を押さえることで拒む。
「だ、だめです!」
思いがけず拒絶を受けたクライシュは、不服そうに眉根を寄せた。琥珀色をした美しい瞳に苛立ちの色が浮かぶのを見つめていると、申し訳なさに手が震えてしまいそうになる。口づけを受けることが嫌なのではない。
拒んだのには理由があった。
「……口づけだけで、済ませていただけないのでしょう?」
エミーネが問いかけると、彼は当たり前だとばかりに、喉の奥でクッと笑ってみせる。
幸せな生活のなかで、ただひとつエミーネが持っている悩みとは、クライシュに身体を求められ過ぎることだ。
夜はエミーネの意識が飛ぶまで抱くのは日常茶飯事だし、朝もベッドのなかや浴室で身体を洗われている最中に欲情されては激しく愛されている。
このうえ、昼の休憩時間まで抱かれていては、身が持たない。
つい先日など、エミーネは夕食の最中だというのに居眠りしてしまいそうになったのだ。まるで赤子みたいだと、義兄のハシムにからかわれたのは記憶に新しい。
エミーネがそのことを思い出しながら羞恥に真っ赤になっていると、華奢な手首をグッと掴み上げられ、指の間にねっとりと舌を這わされ始める。
生温かく濡れた舌が、敏感な部分に触れると、ゾクゾクとした痺れが駆け抜けていく。
「……な、な、なにをなさるのですか……っ!」
エミーネは震える声で抗議する。だが、クライシュは素知らぬ顔で言い返してきた。
「愛し合うことは罪ではない。いつ行うべきだという決まりなどないのだから、細かいことは気にするな。それよりも、お前が早く口づけさせないことの方が問題だ。一分一秒でも長くお前を愛したいと願っているのに、無駄に時間が過ぎるではないか」
些末なことではない。気にするに決まっている。
エミーネは伸しかかってこようとするクライシュに、決死の覚悟で懇願した。
「い、今……我慢してくださったら……。夜にはどんなことでも、お付き合いさせていただきますから……!」
深く考えて告げた言葉ではなかった。この場で淫らな行為をされないために、とっさに口を突いて出てしまった言葉だ。
「ほう……。そうか。……その約束、けっして違えるなよ」
しかし、彼がニヤリと人の悪い笑みを浮かべるのを目の当たりにしたとき、大変な約束をしてしまったことに気づき、血の気が引いていく。
クライシュは嘘を許さない男だ。きっと大変な目に遭わされるに違いない。
呆然とするエミーネに、クライシュがそっと耳打ちしてくる。
「今すぐ唇を許すなら、先ほどの言葉はなかったことにしてやってもいいのだぞ?」
ペロリと舌舐めずりしながら、クライシュは甘く誘惑してきた。だが、エミーネはふるふると首を横に振って否定する。
「ふん。……では、今夜は眠れないものだと思って覚悟しているといい」
エミーネは赤く頬を染めながら、コクリと頷く。すると掴まれていた手首をようやく放してもらえた。
そこで少し思案したあと、テーブルに並べられたお菓子のなかからロクムという餅に手を伸ばした。ロクムは、ピスタチオなどのナッツを混ぜ込み、粉砂糖をかけた柔らかな触感のお菓子だ。
指先でひとつ摘まむと、その餅をクライシュの唇にそっと押し当てる。
「……口づけの代わりです」
恥じらいながらそう告げると、ロクムを摘まんだ指ごとパクリと食べられてしまう。
「あっ、指を食べてはだめです」
エミーネが批難するも、そのままクライシュに甘噛みされ始める。優しく噛むだけではなく、指の隅々にまで舌が這わされ始め、喘ぎそうになる。
「も、もうっ! ……ンぅ……」
ビクビクと身体を引き攣らせていると、クライシュもロクムを掴み、エミーネの唇にちょんと押し当ててきた。
エミーネはお菓子を食べようして唇を開く。だが油断した隙に、クライシュが強引に唇を奪ってしまう。
「んっ、んぅ……っ」
口づけはだめだとお願いしたはずだ。だが、唇を塞がれていては抗議もできない。
そうして巧みな口づけに、トロトロにされてしまった頃、ようやく解放してもらえた。
「……はぁ……、はぁ……、口づけは……いけないと……、お願ぃ、した……のに……」
エミーネは、涙が零れ落ちそうなほど瞳を潤ませながら不満を訴える。
「口づけではない。唇に粉砂糖がついていたから、取ってやっただけだ」
しれっと嘯くクライシュの逞しい胸を、エミーネはポカポカと叩く。
「ずるいです」
身勝手なことばかり言って、強引な手段も辞さない夫だったが、エミーネには誰よりも愛しい存在なのだ。
「ずるいのは、そんなにも愛らしいくせに、俺を焦らすお前の方だ」
甘い口づけは、一度で済みそうになかった。
おしまい
閑話
――皇子クライシュとその妃エミーネがじゃれている真後ろの壁際で、側近であるジヴァンは死んだ魚のような瞳になりながら立ちつくしていた。
毎日繰り返される光景だったが、今だに無我の境地に到達することはできずにいる。
彼の主君は、鼻のしたを伸ばしきっていた。
世界中の人間から畏怖と尊敬の念を向けられているクライシュのこのような姿を、誰が信じることができるだろうか。想像すらできないだろう。
実際にこんな光景を毎日目の当たりにしているジヴァンですら、いまだ夢ではないのかと疑っているぐらいなのだから。
「……う……。胸やけが……」
甘すぎる光景を前に堪えきれなくなって、思わずボソリと呟いたとき、エミーネがハッとしてこちらを振り返る。
「ご、ごめんなさい。ジヴァンさんの分もお茶を淹れてあるの。一緒に休憩しましょう。どうぞ、お菓子も召し上がって」
部下に最愛の妻の視線を奪われたクライシュは、剣呑な表情を向けてきた。見る者すべてが凍りついてしまいそうなほど、鋭い眼差しだ。
「いえ、結構です。私のことはどうかお気になさらず」
ジヴァンが生命の危機を感じて遠慮すると、クライシュの瞳にますます怜悧な光が宿る。
どうやら妻が自分以外の人間に茶を勧めたことも、それを相手が拒んだことも許せないでいるらしい。
いったいどう対応すればよかったのだと、泣いて平伏しながら尋ねたくもなる。だが、彼の忠実な臣下としては不必要な言葉を告げられない。
ジヴァンは恐怖にブルブルと震えながら、一刻も早く休憩時間が終わることを祈っていた。