秘密は真珠のように
風が夜の空を渡る。
北の海に面した城は、まだ秋の終わりだというのに、羽織るものが欲しいと思うほど冷え込んでいた。
いつもよりも早めに執務を切り上げたゲルハルトは、ある場所を目指し、足早に廊下を進んでいた。
晩餐の後も黙々と仕事を片づけていたので、肩は凝っているし目も疲れ気味だ。しかし、休憩や入浴などよりも優先したいものがある。
ゲルハルトはしばらく歩いて、ようやく通い慣れたその部屋にたどり着いた。
ノックする間も惜しく、扉に手をかける。
暖かな部屋の中、暖炉の前の椅子に、ひとりの女が腰掛けていた。
ゆるく結った白金色の髪、瞳は朝焼けを映したような菫色。燭台の明かりを受けて、雪をも欺くような肌がほのかに内から輝いている。
ゲルハルトの妻、ユリアネは、侯爵夫人として日々熱心に働いている。社交シーズンが終わったこの季節は城の女主人としてミューエから家政全般について学び、貴婦人のならいとして教会や病院への慰問を行うだけでなく、厨房にも出入りしているらしい。果実をジャムにしたり、肉や魚を干したり燻製にしたりと冬支度を手伝っているようだ。
その合間の僅かなひとりの時間のほとんどを、彼女はこの侯爵夫人の居室で過ごしている。壁には彼女が大切にしている肖像画を飾り、マントルピースの上には母の形見のリボンを仕舞った箱を置いていた。
そして、ゲルハルトの執務が長引き、日付が変わるような時刻になっても、必ず起きて彼の訪れを待ってくれていた。
「ユリアネ」
声をかけるが、返答はない。
ユリアネは、膝の上を見つめて細かく手を動かし続けている。
彼女は、刺繍をはじめ、裁縫がたいそう得意だった。ゲルハルトと結婚したあとも、季節ごとに孤児院の子供たちに服を縫って送り続けている。
一方で彼女は、自分自身が着飾ることにはあまり頓着していないようだ。
ゲルハルトがドレスや宝石類を贈ろうとすると、彼女は困った顔をして、『そんなにたくさんは一度に身に着けられない』と言う。おそらく、十五の年まで、侍女とふたりきりでつつましく暮らしていたことが影響しているのだろう。
ゲルハルトは、毎月どころか毎日でも、彼女に新しいものや良いものを見せてやりたい。そして、日々異なる美しい装いをしてくれれば嬉しいと思う。
彼女を愛人扱いし、心が離れていた間のことを忘れさせたいのだ。それだけではなく、彼女が男爵家の令嬢として得られていたはずのものを、全て返してやることはできなくても、少しでも埋め合わせたい。
ゲルハルトは、意固地な新妻のためにある秘策を練っていた。
あと一週間ほど後に迫っている彼自身の誕生日には、ユリアネに抱えきれない程のドレスや宝飾品を贈り、『身に着けるのが自分への祝いだ』と言い含めて着飾らせるのだ。
そうすれば彼女だって拒めないだろうし、贅沢をする後ろめたさも軽くなるはずだ。
ユリアネは、そんな思いがこもった夫の眼差しにも一向に気づいていないようだ。
手仕事に集中しているときの彼女の耳には、ちょっとやそっとの声や物音は届かない。時折、ゲルハルトが不安になってしまうほどに。
室内へと一歩足を進める。後ろから近づき、そっとユリアネの手元を覗く。
彼女は編み棒を握り、膝の上に幾つもの毛糸玉を載せていた。編みものをしているらしいが、ゲルハルトには何を作っているのか皆目見当もつかない。
白い指先が絶え間なく器用に毛糸を繰る。
そのさまに見とれていると、しばらくして、きゃっ、と小さな声があがった。彼女がようやく背後に立つ夫に気づいたのだ。
「ゲルハルトさま! いらしているなら、声をかけてくださったらいいのに」
彼女は頬を真っ赤に染めて後ろをふり仰いだ。
「声なら、かけた。何も、そんなに驚くことはないだろう」
「……まだ、お仕事をなさっていると思っていたので……」
彼女は膝の上のものをぎゅっと胸に抱き込み、ゲルハルトの目から隠した。
「熱心に何を編んでるんだ?」
「――な、内緒です」
毛糸の暗めの色合いからして、どうやら彼女自身の着るものではないようだ。孤児院の子どもたちに送るような服を一枚縫うのと比べ、編み物には何倍もの時間がかかる。それくらいのことは、男であるゲルハルトにだって想像できる。
そんなにも長い時間と深い情熱を、夫にも内緒で、一体誰のために傾けているのか。
「教えてくれないのか?」
ゲルハルトが重ねて尋ねても、彼女は気まずそうに目を伏せて押し黙ったままだ。
秘密の気配に、ゲルハルトの胸は怪しくざわついた。
ゲルハルトは、ユリアネのことなら何でも知っておきたい。髪のひとすじからつま先までどこにでも触れたいし、心のすみずみまで暴いてしまいたい。
本音を言えば、ゲルハルトは、領主の務めなど放り出して寝室にこもり、一日中でも彼女とともに過ごしていたいと思っている。
彼女の目に誰も見せず、誰の声も聴かせず、全ての時間を独り占めしたい。彼女が逃げ出そうとするならその手足に枷を付けてでも――。
思考の深みにはまりかけたとき。
彼女の腕から白い毛糸玉が零れ、床に転がってゆくのが見えた。
「あっ……」
ユリアネが椅子から立ち上がりかける。
それを引きとめるように、ゲルハルトは椅子の背もたれごと彼女を抱きしめた。腕のなかに彼女を閉じ込め、朱に染まった耳に鼻先を寄せる。
「ここにいろ」
薄い肩が小さくこわばっている。
それに気づいて、ゲルハルトの胸の内で罪悪感と独占欲がないまぜになる。
力を込めたままのゲルハルトの左手に、ほっそりとした彼女の左手が重なった。
ふたりの手には、揃いの白金の指輪がはまっている。
ユリアネには、もう一つ、常に身に着けている指輪があった。
「いつも身に着けているな」
ゲルハルトの母が幼い息子のために作らせた、銀製の魔除けの指輪。
「はい。……大事なものですから」
そして、十年以上も前に、ゲルハルトが六つだった彼女に渡したものだ。
ゲルハルトは、渡した相手が彼女だとは気づかず、気づいたときにはもう彼女を失ったと思っていた。この指輪も、捨てられたか失われてしまったと。
けれど、彼女はずっとこの指輪を大切に隠していた。ゲルハルトに攫われ、城に囚われていた一年以上の間も、誰にも見せなかった。修道院に入った後に、ようやく、手放せないのだと修道院長に打ち明けたという。
彼女の温かく華奢なからだと、優しく控えめな心の裡には、夫であるゲルハルトにさえ見せてはくれない秘密がある。
青く静かな海の底で、長い時をかけて育つ真珠のように。
ゲルハルトは、本当はわかっている。
自分が求めさえすれば、ユリアネは彼女の全てを明け渡してくれるだろう。
でもそれは、何かと引き替えに脅して吐き出させたり、力ずくで暴いたりすることと少しも変わらない。ユリアネの母を手に入れたいと願い、全てを取り上げた挙句に愛する女の心を壊してしまったゲルハルトの父と同じ所業だ。
今になって、ゲルハルトは思うことがある。
父が、ユリアネの母にしたことを少なからず悔悟していたのではないかということだ。
だから、誰かに暴かれるのを待つかのように、おのれのしたことを余さず日記にしたため、書庫に隠していたのではないか。ユリアネの母から刺繍のリボンを奪い、焼いたにもかかわらず、その切れ端を捨てることができなかったのではないか。
ゲルハルトは、ユリアネを妻に迎える前に、あの日記を全て父の墓標の下に葬った。それらが、空の棺の中に納めるべき父の魂そのもののように思われたからだ。
しばらくゲルハルトが黙っていると、おずおずとユリアネが口を開いた。
「――あの、もう、お仕事はいいのですか?」
「明日は安息日だから、早めに切り上げたんだ」
「寒かったでしょう。何か、温かい飲み物を持ってきてもらいましょうか?」
「いや」
「じゃあ、お湯をお使いに――?」
「まだいい。しばらく、こうしていたい」
ゲルハルトがそう言うと、ユリアネは肩からゆっくりと力を抜いた。
彼女の可愛らしい耳を唇で挟み、前に回した手であごを持ち上げ、こちらを向かせる。ゲルハルトが身を屈めて頬を寄せると、彼女はくちづけを待つように目を閉じ、喉を仰のかせた。
そっと唇を重ねあう。
少しの間だけ離れ、もう一度、今度は深くくちづける。
一日中だってこうしていたいという、ゲルハルトの願いは変わらない。
ただ、ユリアネ自身が、侯爵として生きるゲルハルトを望み、傍らにいて、どんなに遅い夜もいつまでも待っていてくれるから。ゲルハルトのために生きてくれるから、自分は破滅的な衝動を抑え込むことができているのだ。
彼女がその胸に隠している真意が知りたい。けれど。
――自分も待とう。ユリアネが打ち明けてくれるまで。
ゲルハルトは目を閉じて、愛しい妻の唇に溺れた。
一週間後、ゲルハルトの二十一歳の誕生日。
天蓋つきの寝台の中に、朝陽が細く差しこんでいた。うっすらと目を開けたゲルハルトは、すぐそばで眠るユリアネを起こさぬよう、垂れ布を閉め直そうと身を起こしかけ、ふと枕元に目を止めた。
彼の枕元に、見慣れぬ包みが置いてある。ゲルハルトは、白い布にくるまれ、茶色のリボンで端を括られたその包みに手を掛けた。ふんわりと柔らかかった。
訝しく思い、リボンを解いて布を開く。
中身は、男物の手編みのガウンだった。暗めの灰色を地に、藍色と白の毛糸でさりげない模様が丁寧に編み出されている。ユリアネが手掛けていたものと同じ色合いだ。
腕の中のガウンを見つめていると、ふと、背後で衣擦れの音がした。
「ゲルハルトさま」
少しだけ掠れた甘い声が名前を呼んだ。同時に、柔らかな温もりを背に感じる。ユリアネがそっと寄り添ってきたのだ。
「お誕生日、おめでとうございます」
彼女が、白い両手をおずおずとゲルハルトの腰のあたりに回す。
ゲルハルトは身じろぎもできなかった。
「……これは、私のために編んでいたのか」
しばらくして発することができたのは、そんな問いかけ。
「内緒にしていてごめんなさい。あの、秘密にしていたことを怒っていらっしゃる?」
ユリアネは戸惑ったような声で答える。
否定しなければと思うのに、うまく思いを言葉にできず、ゲルハルトは奥歯を噛みしめた。
「怒ってはいない」
それだけを口にして、細い腕をほどいて身体の向きを変え、向かい合う姿勢になる。不安げな顔をしたユリアネと視線が交わった。
「じゃあ、あまりお気に召しませんでしたか……?」
「そんなことはない」
ゲルハルトは目を逸らして俯いた。
彼女が、自分のために、小さな秘密をしのばせた、温かで柔らかい贈り物を作ってくれた。
嬉しいのに、照れ臭くて言葉にならない。
「よかった。着ていただけら、嬉しいです」
ユリアネが安堵したような声で言い、微かに小首を傾げた。
「大きさが合わなかったら、手直しも――、あっ」
ユリアネの言葉は半ばで途切れた。ゲルハルトが彼女に覆い被さり、抱きすくめたからだ。
ほっそりとしたその身体を確かめるように、きつく腕を回した。
「……ありがとう」
ゲルハルトはやっと声を絞り出した。
すると、ユリアネの白い耳があっという間に朱に染まる。
少しだけ身体を離すと、彼女の菫色の目が潤んで瞬きを繰り返し、頬も林檎のように赤く火照っているのがわかった。
ゲルハルトは無言で、その頬に、額に、唇で触れる。まぶたに、鼻先に、唇に、余すところなく雨のようなくちづけを降らす。
そのうち、ふれあいは深く、交わす吐息は熱くなっていった。言葉はもういらなかった。
隣の部屋では、昨晩ゲルハルトが用意したドレスと宝石がユリアネの訪れを待っている。
しかし、ふたりが寝室を出たのは、一刻余りも後のことだった。