媚薬の真相
目を覚ましたエルティシアは、ベッドに一人でいること、そしてもうとっくに日が高くなっていることを知ると、深いため息をついた。彼女はひどく落ち込んでいた。
「また朝のお見送りをしそこねてしまったわ……」
エルティシアがグレイシスと結婚をして、早半月が経った。けれどその間、彼女は一度も軍の総司令部に出勤して行く夫を見送れていない。目を覚ましたときにはいつも昼近くになっていて、グレイシスはとっくに出かけた後なのだ。
「なんて怠惰な妻なのかってグレイ様に思われてしまう……!」
「そんなこと、旦那様はこれっぽっちも思ってないと断言できますけどね」
女主人が目を覚ましたことを察して部屋に入ってきた侍女のリーナは、エルティシアの嘆きの言葉を聞いて、呆れた口調で答えた。その目は、明け方まで続いた夫婦の営みでグジャグジャになったシーツに向けられている。
「あの方は奥様が朝起きられない理由を誰よりもよくご存知ですから。レーンさんの話だと、奥様をゆっくり休ませてあげるようにと毎日のように告げて出勤されているそうですよ」
「グレイ様が……」
エルティシアは頬を染める。なんて優しいのだろう。だがその優しさに甘えてばかりいてはダメなのだ。
確かに以前、この屋敷に滞在していた時はまだ本当の結婚ではなかったし、エルティシア自身、怪我の療養をしていたのだから見送りをしなくてもよかっただろう。けれど今はすっかり傷も癒え、正式に結婚してグレイシスの妻となった身だ。朝の見送りも妻の重要な仕事のうちなのだから、きちんとこなせるようにならなければ。
「明日こそはちゃんと起きだして、グレイ様が出かけるときにお見送りをしなくちゃ」
エルティシアはドレスを身につけながら、そう固く決心をした。
「でも、あなたが起きられないのはそもそもロウナー准将が原因じゃない」
尋ねてきた友人のライザに相談すると、彼女は遠い目をして「これは惚気? 惚気なの?」と呟いてからエルティシアに呆れたような口調で言ったのだった。
「彼があなたの体力も考えずに盛るから、疲れ果てて朝起きられないのでしょうが」
「そ、それは……そう、だけど……」
ライザの言うとおり、エルティシアが朝起きられないのはグレイシスが毎晩彼女を激しく抱くからだ。一度で終わることはなく、二度三度と相手をするエルティシアはぐったりとしてしまい、体力が回復するまで起きることができない。ところが軍人として身体を鍛えているグレイシスは、多少ベッドで激しく運動しようが疲れる様子はなく、いつもの時間に起きだして出勤していく。そもそも二人の間には体力に差がありすぎるのだ。
もっとも、グレイシスもそれが分かっているからこそ、使用人にエルティシアを起こさないように言い含めているわけだが……。
「そんな気遣いする前に、盛るのをもう少し我慢すればいいものを」
眉を顰めるライザにエルティシアはとりなす様に答えた。
「し、仕方ないの。だってグレイ様は媚薬の副作用で、抑えるのが、その……難しいのですもの」
「媚薬って……あの時の?」
「ええ」
かつてグレイシスは、闇のルートで使われていた強力な媚薬を飲まされたことがあった。その影響が今も残っていて、時々抑えられない衝動に駆られるのだという。彼が媚薬を盛られたのはエルティシアにも責任があることなので、彼の渇きを癒やすためにできる限りのことはしたいと思っていた。だからつい先日も……。
エルティシアの脳裏に、請われるまま彼の欲望を口と舌を使って宥めたときのことが蘇り、顔にかぁっと熱が集まるのを感じた。
そんなエルティシアをよそに、ライザは眉を寄せる。
「変ね。あのみつあみ男がそんないつまでも副作用の残る危険なものを、友人であるロウナー准将に盛るかしら?」
「それは……」
エルティシアもちらっとそれを思わなかったわけではない。だが、グレイシスの言うことはほぼ無条件に信じてしまうところがあって、それ以上深く考えなかったのだ。
「今日、みつあみ男は休暇を取っているはず。彼から話を聞いて確認しましょう」
そう言ってライザは立ち上がった。
「え? なんでフェリクス様が今日休暇を取っていることを知って……?」
「昨日の夜会でばったり会った時に聞いたの。さぁ、行くわよ、シア」
ライザは戸惑うエルティシアを立ち上がらせて強引に連れ出したのだった。
「やあ、二人とも。突然どうしたのかな?」
先触れもなく突然屋敷を訪れた二人を、フェリクスは笑顔で迎えた。
「ごめんなさい、フェリクス様」
応接室に通されたエルティシアは、使用人がお茶を運んで出て行ったのを見届けてから、おずおずと口を開いた。
「その、少々尋ねたいことがあって……」
「聞きたいこと? グレイのことで?」
さすが付き合いが長いだけのことはある。フェリクスは、普段は彼相手に物怖じしないエルティシアがこんな様子を見せるのはグレイシスのことだけだと分かっているようだ。
「媚薬のことよ」
言いにくそうにしているエルティシアを見かねてライザが口を挟む。
「以前、あなたがロウナー准将に飲ませた媚薬。あれは後々も副作用があるものなの? たとえば、性欲が強くなるとか……」
「あの闇のオークションで使われていた媚薬のことかい?」
フェリクスは軽く目を見張った。何か月も前の出来事を今ここで聞かれるとは思わなかったようだ。
「副作用は皆無というわけじゃないが、一回だけなら問題ないのは確認済みだ。数日間は薬の影響が残ることもあるかもしれないけれど、その間に再度服用しなければ中毒性もなく問題ないはずで……シア?」
目の前でさっと青ざめ、次に顔を赤く染めてワナワナと震えるエルティシアにフェリクスが面食らう。ところが声を発したのはエルティシアではなくてライザだった。
「やっぱり騙されていたのよ! あのむっつりスケベが……! 堅物が聞いて呆れるわ!」
「えーっと、グレイが何かをしたか言ったかしたのかな?」
「その両方よ!」
目の前のライザとフェリクスの会話がエルティシアの耳を通り過ぎていく。
媚薬のことを言われるたびに自分が原因なのだと申し訳ない気持ちになった。少しでも癒やせればと思って喜んで我が身を差し出した。それなのに、その全部が嘘だったなんて……!
――酷いわ、グレイ様!
グレイシスの言うことを素直に信じていただけに、エルティシアはその真実に非常にショックを受けたのだった。
その夜、グレイシスが仕事を終えて屋敷に戻ると、不機嫌な様子の妻に出迎えられた。声をかけて抱き寄せようとしても、するっとかわされ、執事のレーンに話しかけられて目を離した隙にさっさと部屋に戻ってしまう。もっとも、腹を立てていてもちゃんと出迎えるところに、彼女の律儀な性格が表れていてそれもかわいく思ってしまうのだが。
いつもだったら笑顔で迎え、しばらく彼の傍から離れようとしないエルティシアのその態度の変化に、もちろん不審に思ったグレイシスは、着替えをすませるとすぐに彼女の部屋に向かった。
「シア、どうしたんだ?」
ソファに座り込み、頑なに彼の方を見ようともしないエルティシアの前に膝をついたグレイシスは、彼女の手を取って問いかける。
「何を怒っている?」
ようやくグレイシスと視線を合わせたエルティシアは怒りにきらめく瞳で彼を見た。
「フ、フェリクス様から聞きました! あの媚薬は一回だけならほとんど副作用がないそうじゃないですか!」
思えば彼が媚薬のことを持ち出すのは、行為の途中、エルティシアが恥ずかしさから躊躇したり嫌がったりした時ばかりだった。グレイシスはエルティシアが媚薬のことで罪悪感を抱いているのをわかっていて、彼女の抵抗を封じるために媚薬を利用していたのだ。今になってみればそれがよく分かる。
「媚薬のことを口にすれば私を思うとおりにできるからって……騙すなんて酷いじゃないですか! 私、ずっと申し訳なく思ってて……なのにっ」
騙されて悔しいやら腹立たしいやら悲しいやらでエルティシアの青い瞳に涙が滲む。
グレイシスはエルティシアの潤んだ目を見つめ、ふっと頬を緩めると、彼女をやさしくソファから抱き上げた。
「グレ……っ」
抗議の声をあげるエルティシアの口をグレイシスの唇が塞ぐ。しばらくして顔をあげたグレイシスは浅い息を吐くエルティシアを見下ろして告げた。
「シア。俺は嘘は言っていない。媚薬のことも本当だ」
「で、でも、フェリクス様は……」
「俺の言っている媚薬はあの夜フェリクスに盛られた薬のことじゃない」
「……え?」
エルティシアは目を見開いた。
あの夜の媚薬ではない? するとまたどこか別の場所で媚薬を盛られたことがあるのだろうか?
戸惑いを隠せないエルティシアに、グレイシスは艶やかな笑みを向けた。
「俺の言っている媚薬とはあなた自身のことだ。シア」
「え? わ、私?」
「そうだ。あなたは俺にとって媚薬のようなものだ。何度抱いても、満たされたと思うそばからすぐまた欲しくなる」
「グレイ様……」
「二年以上もの間、あなたを見るたびに膨れ上がる欲望を無理やり抑えてきた。けれど、あの夜、あなたを抱いてからはもう抑えがきかない。あなたの柔らかな肌を味わわずにはいられない。これを媚薬と言わずして何と言おうか」
「グレイ様……!」
エルティシアはグレイシスの首に手を回して抱きついた。グレイシスからの思いがけない言葉に身体も心も歓喜に満たされ、抱いていたはずの怒りや悲しみが跡形もなく解けてなくなっていく。
頭のどこかで「丸め込まれてるわよ、シア!」というライザの声が聞こえた気がしたが、エルティシアはそれならそれで構わないと思った。騙されていようが丸め込まれていようが、結局自分は彼を許して応じてしまうのだから。
グレイシスはエルティシアの耳に口を寄せてそっと囁く。
「シア。あなたが欲しくてたまらない。この飢えをどうか鎮めてもらえないか?」
その淫靡な誘いに、エルティシアの子宮がきゅんと疼いた。
彼女は自分がどうしようもなく彼に溺れているのを自覚する。彼が与えてくれるものならそれが何であれ喜んで受け入れるつもりだった。
エルティシアは頬を染め、彼の首すじに顔を埋めながら頷いた。
「はい。私で鎮めてください」
「いい子だ」
グレイシスはエルティシアの金色の髪にキスを落とした後、彼女を抱き上げたままベッドに向かった。
――やがてエルティシアの嬌声が部屋に響き渡り、それはいつまでもいつまでも続いたのだった。