手折るとき
目の前に横たえられた体。白無垢を着た美しい花嫁。
忌むべき展開だ。これを悲劇と言わずして何と言おう。
だが、この体の震えは何だ? 恐れの震えか? 怒りの震えか?
いいや、違う。これは──歓喜の震えだ。
俺は、紛れもなく歓んでいるのだ。
この娘の体を貪れることを──実の妹のように慈しんできた、何よりも大切なこの娘を、俺の欲望の犠牲にすることを──。
「に……さま」
意識のない萌が呟いた言葉に、体が凍りつく。
兄さま、と呼んだ萌の頬は安堵に緩み、無垢な微笑を浮かべている。
(あ、ああ──萌──)
俺は眠れる萌の前に膝をついて、泣いた。涙をこぼす側から、花嫁の香りに頭の奥が濁っていく。苦悶にのたうち回る心を、肉体の衝動が裏切る。俺がこの忌まわしい本能と戦って、勝てた試しなどない。すぐに諦めてしまえば楽になれるのに、俺にはそれができない。僅かでも抵抗することが、俺の最後の「人」である証だと思っているからだ。
俺は怖々と手を伸ばし、その温かな頬に触れた。冷えている。温めてやらないといけない。勝手にそんなことを考えては浅ましく息を乱す。
「大丈夫……大丈夫だよ、萌……きっと、優しくするから……お前を守るから……」
言い訳のように繰り返し「大丈夫」と口にしながら、俺は萌の衣を少しずつ剥いでゆく。
そして、なぜか俺は、萌と出会った頃のことを思い出していた。
────あのとき、萌は泣いていた。
周りの人間たちに化け物、妖怪などと言われて、無力な少女はただ一人で心の扉に鍵をかけ、じっと孤独に籠り切り、小さな声を漏らして泣いていたのだ。
「どうしたんだい」
なるべく驚かさないように、声をかけてやる。俺の想像しうる最も美しい花園に萌を迎え入れ、俺は初めて彼女に語りかけた。
萌はびくりと震え、ゆっくりと顔を上げる。そして、目の前の少年を見て、涙を溜めた目を大きく見開いた。
「誰……?」
「君を、いつも見守っているものだよ」
膝を抱えて縮こまる少女の横に腰掛け、なるたけ優しい声で囁きかける。萌は俺の目を覗き込み、信じられないというような顔をした。
「私と、おんなじ目の色……」
「そう。だから、君と一緒なんだ。僕には何も隠したり、秘密にしたり、怖がったりする必要はないんだよ」
この言葉の効果はてきめんだった。萌はすぐにこちらを警戒しなくなり、そして同じ目をしているためか、いつしか親しげに「兄さま」とまで呼ぶようになったのだ。
「兄さま。今日はね、怖いことがあったの」
「ああ。そうだね。石を投げつけるなんて、ひどいことをするやつがあるものだ」
「やっぱり、あの石を跳ね返してくれたのは、兄さまだったのね」
萌は俺にだけ見せる、心からの可愛らしい笑顔をほころばせる。
「とっても怖かったけど、私には兄さまがいてくれるから平気」
「あの子には二度とお前に意地悪ができないように、お灸を据えてやらなきゃいけないな」
年端の行かない子供であろうと、萌を傷つけようとするやつは許さない。そう、萌に怪我をさせようとすれば、それは百倍になって返ってくるということを教えなければならないのだ。
(側にいられない代わりに、絶対に守ってみせる。誰にも傷つけさせやしない。誰の手も、触れさせやしない──)
「嬉しい、兄さま」
俺が赤い目を燃やしていると、萌はうっとりとしてしがみついてくる。
「いつまでも、萌を守ってね」
「ああ……もちろんだよ」
萌は、俺の存在に慣れ切ってしまった。最初に俺が「力」を使って萌を追いかけ回す子供を転ばせたときも、陰口を叩く近所の女たちをまとめて川へ放り込んだときも、少し怯えていた様子だったのに、今ではそれを「嬉しい」と言う。
無理もない。萌はまだ幼いのだ。幼い者は順応が早い。同じことが繰り返し起きると、次第にそれが日常の風景として、当たり前に認識され始める。
純粋だった萌を、歪ませているのかもしれない。そんな気持ちは確かに心の隅に存在するものの、それよりも萌の世界で自分の存在が大きくなってゆくことへの満足感の方が強いのだ。
(そう、萌は俺の大切な存在なのだから。俺が守ってやるのは当然のことなんだ。萌が、俺を頼りにするのは、当然のこと──)
このまま、誰も萌に寄らなくなればいい。
萌を害する者も。萌を気にする者も。萌に優しくしたいと思っている者でさえ。
萌には俺がいればいい。俺のことだけを考えればいい。俺に依存し切って、一人では何もできなくなってしまえばいい──。
「ああ……萌……」
束の間の回想から現実に戻った俺は、目の前の白い裸体を掻き抱く。
ああ、そうだ。萌は俺がずっと守ってきたんだ。
苦しみからも、悲しみからも、痛みからも、萌を惑わすすべてのものから、萌を遠ざけてきた。
ずっとずっと丹精を込めて育んだ、俺の萌。
ようやく綺麗に花が咲いた。誰にも汚されることなく、無垢なままの可憐な花が。かぐわしい香りをまとって、俺の前にやって来てくれた。
「わかってる……わかっているよ、萌……」
俺が育てたのだから、俺が摘み取っても構わないはずだ。
違う。こんなことのために、萌を守り続けていたわけじゃない。
相反する声が俺の中でけたたましく喚き立てる。
ああ、うるさい。静かにしてくれ。お願いだ。
俺はただもう、苦しみたくないだけなんだ。だから、だから────。
娘の頬に熱い涙が滴る。
鬼は子供のようにむせび泣きながら、供物を貪り始めた。