ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

恋文

「ねぇ、バウム。これってジークの手紙にそっくりだと思わない……?」
 リリーは執務机の前に立ち、胸に抱いた愛犬に問いかけた。
 バウムは僅かに耳をぴくっと反応させるも、大きな欠伸をするその目はトロンとして今にも眠ってしまいそうだ。リリーはバウムをソファの上に寝かせると、机の上に無造作に置かれた封書を手に取り、窓辺に移って陽に透かしてみた。
「絶対そうだわ。何でこれがレオの机に置いてあるの?」
 その真っ白な封書は一見どこにでもある普通のものだ。
 けれどリリーには、こんな何の変哲もない見た目の手紙を、兄であるジークフリートから頻繁に受け取っていた過去がある。そのせいで白い封書を見ると兄の顔が思い浮かぶようになってしまっていた。
「ん~、見えそうで見えない……」
 目を細めたり角度を変えてみても、封書の中の文字を読むことは出来そうにない。中身が気になるあまり、リリーは次第に封を開けてみたいという誘惑に駆られていった。
「リリー、いるのか?」
「ひぁっ!?」
 出来心で封の端に指をかけようとした瞬間、唐突に声をかけられ、リリーは飛び上がらんばかりに驚いた。
 ぎこちなく振り返るとレオンハルトが扉の向こうから姿を現す。仕事の打ち合わせがあると彼が一階の応接間に向かってから、まだ三十分も経っていなかった。
「も、もう終わったの?」
「ああ」
 一言だけ答え、彼はリリーの手元をじっと見つめる。
 それに気づいたリリーは慌てて後ろ手に封書を隠し、何歩か後ずさった。机の上の物を勝手に触ったことを怒られるかもしれない。挙動不審な様子で目を泳がせていると、レオンハルトは自分の足下で尻尾を振って纏わりつくバウムに目を移した。
「……おまえは少し庭で遊んでおいで」
 そう言って扉を開けたまま外へ促すと、バウムは大きく耳をぴくつかせながら部屋の外へ出る。そして、そのまま尻尾を振って廊下の向こうへと走っていったのだった。
 会話が成立しているとしか思えない一連のやりとりに、リリーは「ほぅ…」と感心しきりだ。
 バウムはリリーと毎日のようにじゃれ合って、友達のようによく遊ぶ。けれどその接し方はレオンハルトに対するものとは全く違っていた。レオンハルトの方から構うことは滅多にないのにバウムは驚くほど彼に従順で、一体何が自分と違うのだろうといつも不思議に思ってしまう。
「リリー、その手紙が気になるのか?」
 問いかけに顔を上げると、いつの間にかレオンハルトはリリーのすぐ傍まで来ていた。
「あ……」
 一気に現実に戻り、彼の瞳から目を逸らせなくなる。
 後ろ手に隠していた封書をおずおずと差し出し、「ごめんなさい」と小さく謝った。
 レオンハルトは無言で封書を受け取ったが、そのままリリーの手を取りソファに座らせてから、彼も隣に腰掛ける。
 やはり怒られるのだろうか。不安に思っていると、レオンハルトはおもむろに封を開け始めた。
「怒っているわけじゃないから、そんなに怯えた顔をするな。机の上に置き忘れた俺も悪かった。……見たければ見ればいい。これはおまえの想像通り、ジークフリートからの手紙だ。ほとんど中身を読んだことはないがな」
「えっ!?」
 その言葉にリリーは目を見開く。
 手紙を貰いながら中身を読んでいない?
「おまえが何をどう勘違いしているか知らないが、あの男が俺に手紙など書くわけがないだろう。これは以前と同様、おまえに宛てられたものだ。恐らく内容もほとんど変わっていない」
「え……、じゃあ、どうしてこれがレオの机に?」
 素直に疑問を口にすると、レオンハルトは苦笑を漏らしてソファにもたれ掛かる。
「アルが俺に手紙を渡すから、仕方なく受け取っているだけだ。といっても、おまえに直接渡せば、またややこしい問題になると思ってのことなんだろう」
「……う」
 リリーは言葉が見つからず、しょんぼりする。
 “アル”ことアルベルトはレオンハルトの共同経営者だ。レオンハルトに頼まれ、リリーが一人の時は話し相手として訪ねてくることも多い。ニコニコして人当たりのいいアルベルトに的を絞り、ジークフリートはいつもリリーに手紙を渡すよう頼んでいた。
 あれは今でも続いていたのか。アルベルトがあえてレオンハルトに手紙を渡すのは、兄のことでリリーが頭を悩まさないように配慮する意味があるのだ。
 だって以前はそれで大きな失敗を犯してしまった。今だって受け取れば、やっぱりとても悩んでしまうと思うもの……。
「一応、俺の方も十通に一度くらいは返信している。中身のない内容ばかりだが」
 言いながらレオンハルトは手紙を取り出している。リリーに見せようとしているのだろう。
 しかし、リリーは今の言葉に耳を疑い、差し出された手紙には目もくれずに立ち上がった。
「……どうした?」
「そ、そんなの絶対に読まないっ!!」
「……?」
 珍しく、リリーは大きな声を上げていた。
 訝しげな顔で見られたが、リリーはそれに構わず思い切りレオンハルトに抱きつく。そして彼が手にしている封書を掴み取ると、乱暴に床に叩きつけた。
「リリー?」
「だって読まなくても分かるもの!! 私がここに監禁されているって書いてあるんでしょう? 一日も早く助け出すから待っていて欲しいって……っ。それにレオの悪口も沢山書かれてあるはずだわ。ジークはレオが大嫌いだものっ!!」
 身も蓋もないことを言い、リリーはレオンハルトの胸に顔を埋める。
 恐らく、こうして声を上げる理由を彼は分かっていないのだろう。戸惑う様子を見せるだけで抱きしめ返してくれないので、ますます感情が高ぶっていく。
「ひどい、レオ…っ、……ずるい!!」
「……ずるい?」
「そうよ、ジークばっかりずるい! 私なんて一度しかレオに手紙もらってないもの! それだってジークに破かれてしまって…っ! なのにジークはレオからの手紙を十通に一度も貰えるなんて、そんなのずるいわ!」
 我慢できずに本音を訴えると、レオンハルトは呆れた様子で息をつく。
「なにかと思えば……、おまえはそんなことで怒っているのか……」
 そんなことなどではない。どうして分かってくれないのだろう。
 リリーの頭の中はひたすら『ずるい』で埋め尽くされ、頬をぷっくりと膨らませて不満を露わにした。
「ジークにはいつもどんな手紙を書いているの!?」
 リリーは床に投げた兄の手紙に目をやり、感情のままに問いかける。
「……」
 けれどレオンハルトは僅かに頬をひくつかせただけで、答えようとしない。
 もしかして教えたくないということだろうか。そう思った途端、嫉妬心がさらに膨らんでいく。ジークフリートにレオンハルトを取られた気分になり、いやだいやだと彼の首にしがみついた。
 すると、レオンハルトはリリーの背をぽんぽんと叩き、苦笑を漏らす。
 まるで子供扱いだ。そう思ったが、乱れた気持ちがみるみる落ち着いていく。そうして簡単に大人しくなったリリーの様子に息をつくと、レオンハルトはぽつりと呟いた。
「……料理長に聞いたおまえの一日の食事メニューを羅列しているだけだ」
「え……?」
 その答えにリリーはきょとんとする。
 どういうことだろう。リリーにはさっぱり理解できない。
 首を傾げていると、レオンハルトは少しだけ噛み砕いて教えてくれた。
「ジークフリートにとっては、誰が手紙を書いたかよりも、おまえに関する何かが分かることの方が重要なのかもしれないな。……アルが言うには、時々返信をするだけでジークフリートの行動が落ち着くみたいだ」
「……それで…、私が食べたメニュー?」
「あぁ、いや。……それ自体に深い意味は……単純に何を書けばいいのか思いつかなかっただけだから、細かいことは気にするな」
 レオンハルトは小さく咳払いをして目を逸らす。
 確かにレオンハルトはマメな人間ではない。だからといって返信と称してリリーの食事のメニューを書き、しかもそれが通用してしまっているだなんて……。何だか想像の斜め上をいっているやりとりに、悪いと思いながらも顔が笑ってしまう。
 それにこうして冷静になると、先ほどの自分は何て幼稚だったのか。子供のような我が儘を言ってしまったことが、今になって恥ずかしくなってきた。
「レオ…あの、さっきは大きな声を出してごめんなさい。未だにジークが迷惑かけてるの、何にも知らなくて……それなのに、その……」
「謝る必要はない。説明するほどのことをしていたわけでもないんだ。……だが、こんなことで平穏に過ごせるなら、それに越したことはないと思わないか?」
「……ん、…うん」
「だから今は何も気にするな。おまえがすべきは、この先もずっと俺の腕の中にいることだけだ」
「…ん、」
 こくんと素直に頷くと、頬を撫でられ耳たぶに口づけられた。
 吐息を感じて頭の芯が微かに痺れる。
「それでもまだ不満や不安が残るというなら、……おまえも俺宛てに手紙を書けばいい」
「……え?」
 思いもよらぬ提案にリリーは目を丸くする。
 私がレオに手紙を書く?
「いいの?」
「思う通りにすればいい。そうしたら俺もおまえ宛てに手紙を書いてやる」
「本当!?」
「ああ」
「だ、だったら私ね、レオが好きって沢山書きたい! どんなふうに好きかって……、そういうのも書いていい? 毎日好きって言ってるのに、手紙の中でも言っていい?」
「ああ」
「それって恋文って言うんでしょう?」
「そうかもな」
「私、書くのも貰うのも初めて。嬉しい…っ!」
 一人先走り、あっという間に上機嫌になったリリーにレオンハルトは苦笑している。
「レオ、いっぱい書くから、待っててね」
 たくましい腕を背中に回され、その温もりに高揚してリリーは返事も聞かずに彼の唇にキスをした。
 彼とするキスが大好きだ。甘くて甘くてとけてしまいそう。抱きしめる腕も眼差しも何もかも、どうして彼だけはこんなに特別なのだろう。
 胸が苦しい。考えるだけで想いが溢れてしまう。
 そうだ。これも全部手紙に書いてしまえばいい。溢れた分はそうやって書き残していこう。取り留めのないことばかりを書いても、きっとレオは最後まで読んでくれるだろうから……。
「まだ日が高いが……、ベッドに行くか?」
 キスをしているうちに熱い吐息に変わったことに気づいてくれたのか、レオンハルトはリリーにそっと囁く。
「…ん」
 小さく頷き、リリーは強くしがみつく。ベッドに運ばれながら、彼に抱かれる自分を想像して胸が熱くなった。
 早く一つに解け合ってしまいたい。この場所は私の全てだ。レオがいないと、息を吸うことさえままならない。
 ほんの少しでいいから、レオも同じことを考えてくれたらいいのに……。
 そんなことを思いながらリリーは彼をじっと見つめる。
 レオンハルトの瞳が情欲に濡れていた。手を伸ばして頬に触れ、どちらからともなく唇をあわせて舌を絡め合う。頭の芯が痺れて、彼の他に何も見えなくなった。
「あ……、ん……」
 やがて部屋からは甘やかな吐息と衣擦れの音が秘めやかに響く。
 誰にも邪魔されることのない二人だけの時間は、日が傾くまで終わらなかった──。

一覧へ戻る