好きだ好きだ好きだ
便せん一枚に達筆で用件を敷き詰め終えて、ヴィンセントはまた西の窓に視線を遣る。欠けることなくそこにあると思っていた太陽の姿は、オレンジ色の名残をとどめてなだらかな山の峰に呑み込まれていた。
子供の頃の夕日は、ピンで留めたようにいつまでも同じ場所にあるものだった。幼いハリエットやオーウェンとともに野山を駆け回っている間中、あたりを照らしてくれているものだったのに。
いつの間にこうして、ほんのわずかばかり目を離した隙に消えてしまうようになったのだろう。
ともすれば時間を盗まれていたときと同様の喪失感にあぜんとしていると、左斜め前のドアからノックの音が響く。
「ヴィンセント様、よろしいでしょうか」
ジェイムズだ。
どうした、と声をかけると静かに空間は開かれる。白髪まじりの侍従の足下でテイルコートがなびいた途端、甘いバターの香りがヴィンセントの鼻先をかすめた。
「へえ、いい匂いですね。子供たちのおやつのおこぼれですか」
思わず表情を緩めてペンを置く。
結婚して数ヶ月、マスグレーヴ侯爵は社交シーズンの終了とともに妻と養子たち全員を連れてカントリーハウスへやってきた。子供たちにとっては初めての別荘暮らしだ。
初日、建物の大きさにぽかんとしていた彼らは早速翌日から乗馬に舟遊びにピクニックにと忙しい。初めて体験することが多すぎて落ち着きどころがわからないのだろう。目を輝かせて妻の手を引き、出掛けてゆく様子は見ていてとても喜ばしい。
対するヴィンセントはどこにいても多忙さに大差なく、いくら子供たちにねだられてもこうして書斎に引きこもる日々なのだが。
「いえ、これは奥方様からです」
ジェイムズは両目を細めてトレーの中身をこちらへ見せる。恭しく両手で持った銀のトレーには、フレンチトーストとティーセット、カトラリーがのっている。だから香っているのはバターと蜂蜜、そして眠りを誘うハーブティーに違いなかった。
「ハリエットがそれを? 私に?」
「はい。毎日お忙しそうなヴィンセント様にどうしても差し入れをしたいと、自らキッチンに立って調理なさったものです」
「……調理」
「そうです。ハーブティーのハーブも奥方様が摘んでいらっしゃったものですよ」
その台詞を聞くなりヴィンセントは勢い良く立ち上がった。ライティングデスクを離れ、ソファへと足早に移動する。
ハリエットが自分のためにキッチンに……そういえば結婚前に彼女の口から聞いた気がする。自分は頼りないかもしれないけれど美味しいフレンチトーストくらいは焼けるから、と。
――焼いてくれたのか。今日。
ヴィンセントがソファに座ると、ジェイムズはトレーをソファテーブルの上に置きカップに紅茶を注ぎ入れた。それから入り口、中央、デスクの上と部屋中のランプに火を灯して傍らへと戻ってくる。
部屋は明るさを取り戻したというのに、ヴィンセントはソファの中央に座ったまま動けなかった。湯気の上がるバゲット三切れぶんのフレンチトーストをしばし見つめたあと、堪えきれず右手で口元を覆う。
(ああ、もう……)
それは正真正銘、ハリエットがヴィンセントに振る舞う初めての手料理だった。
キッチンに立つ姿を想像すると震えるほど感激してしまう。彼女が自分のために、これを。
「……ジェイムズ」
「はい」
「このフレンチトーストは剥製的な何かにできないものでしょうか」
無理は承知しているが問わずにはいられない。
「はあ、剥製……でございますか」
「食べてしまうには惜しすぎます。未来永劫この世に留めたい」
半分冗談で、あとの半分は本気だ。できれば温かいまま保存したいが、それはできない相談だろう。
「勿体ない。とても食べられません……勿体……ない……」
口元を押さえたまま膝の上に肘を置き、ヴィンセントは悶える。これを作っている間、おそらくハリエットの頭の中はヴィンセントのことでいっぱいだったはずだ。なんという多幸感だろう。溺れそうだ。
「お召し上がりくださいませ。味わうことなく後に残されるほうが勿体ない行為かと存じますよ」
諭すように言ったジェイムズの声は呆れているが、ヴィンセントは聞かなかったことにする。あっさり平らげるなどできない。この感動をなんらかの形にして残してからでなければ。肖像画のようなものでもいい……そうだ、とそこでふと良い考えが浮かび、屋敷の南の塔を指差した。
「写真機がありましたね、倉庫に。あれで一枚記念写真を撮りましょう」
それなら味わえる上に記念にも残せる。最高の方法だと思ったのに、ジェイムズはまだ渋い顔をしている。
「冷めるまえにお食べなさいませ。それが一番、奥方様のお気持ちに沿う方法かと」
「……それは重々承知しています」
「ならば今すぐにどうぞ」
だが、と食い下がろうとしたが半目でじっと見下ろされてしまった。無言の圧力を感じる。
忠実だったはずのしもべは、近頃こうして頻繁に妻の肩を持ちたがる。というのもハリエットは良き妻で、ジェイムズのテリトリーには決して踏み込まない。その点、神経質なジェイムズが彼女を歓迎しないわけがなかったのだ。
「ヴィンセント様、お早く」
「わかりました……」
ああ勿体ない。
頭の中でセスとジャックが同様に惜しがっていたが、ヴィンセントは腹を決めてナイフとフォークを手に取る。何度か逡巡しつつもナイフをフレンチトーストに入れると、綿のような柔らかさでスッと切れた。
「なるほど、ハリエットが自信をもって作れるというだけのことはありますね」
柔らかいだけでなく、フォークで持ち上げても崩れない弾力を持ち合わせている点が見事だ。
「朝食前から仕込んでいたようですよ。旦那様のためにと」
「……気づきませんでした。朝も昼も一緒に食事をしていたのに」
程よく焼き色のついた部分を一切れ口に運んで、優しい甘さをヴィンセントは噛みしめる。仕事における殺伐としたやりとりを一瞬、忘れられた気がした。
――今でも信じられない。
十四年越しの恋が実ったなんて。
ことに結婚までの三年間は、いつ自分が足をすくわれるのではないかと……そうなれば二度とハリエットと逢えないと恐怖する日々だっただけに、感慨はひとしおだ。
彼女を思ってひとり、街角でかじったパンの味なき味を今でも覚えている。
兄たちの脅威から逃れられただけでまだマシな生活ができていると思っていたが、今思うにあの頃こそ自分はけもののような生き方をしていた。
爵位を得てここへ越してきてからもそう。どれだけ贅沢なものを口にしようと、砂と変わらぬ味にしか感じられなかった。
彼女に再会してからだ。
日々、空腹を満たすためだけだった食事がおいしいと思えるようになったのも、暗かった世界に明るい光が灯ったのも。
ハリエットが側にいるから。
「……好きだ」
ジェイムズが出て行った部屋の中、次々にフレンチトーストを頬張ってヴィンセントは呟く。
「すきだ、……きだ、好きだ……っ」
ずっとあなたを好きだった。
あなただけが私をけものでない生き物にしてくれる。
もしも再び離れるようなことになれば、今度こそ正気など保てない。いや、保ってなどいたくない。
皿を空にすると、ナイフとフォークをそこにのせて両手で両目をぎゅっと押さえる。瞼の裏の闇に奇妙な模様がふっと浮き出て、それさえ幸福の印に見えた。
――この幸せを二度と失わないように。
私は。
僕は。
俺は。
これからも永遠にハリエットへの献身をやめない。
ひとりでもふたりでもいけない。三は永遠の数字。彼女に永遠を誓うために我らは三人存在する。
(三度生きるのと同じだけの愛情を、未来永劫あなたに……)
誓いを新たに顔を上げると、階下から騒がしい足音が聞こえてきた。
子供たちはまた懲りずに自分を遊びに誘おうとしているに違いない。いや、多忙なヴィンセントを見兼ねたハリエットが子供たちにそうさせているという可能性もある。
――今晩だけは闇を忘れて明るいところにいようか。
ヴィンセントは軽やかな気持ちで立ち上がり、扉に歩み寄る。足音が近づいたタイミングでドアノブを引くと、子供たちがわっと仰け反った。その向こうで目を丸くして驚く彼女を見つけたら、自然と笑みがこぼれていた。
【了】