悪夢と白い蓮の花
柔らかく、温かい身体を寄り添わせて蓮花が真龍の腕の中で眠りに落ちた。
夜ごとの交情で肌は艶めき、それ自体が意志を持っているように真龍の手のひらに吸いついて、心まで包み込む。
「蓮花」
もう軽い寝息をたてている濡れた唇に触れながら囁くと、さっきまで真龍の熱を受け入れていた華奢な身体が無意識のうちにすり寄ってきて吐息を漏らす。
「……ん……」
微かに反応した蓮花に満足した真龍は、熱い身体を抱え直すと、自分もまた目を閉じた。
* * * *
――できなければ、意味がないの。価値がないのよ……よく覚えておきなさい。
美しい顔で罵りを吐く母の声に続いて、叩きつけられた茶碗が割れる破裂音が、耳をつんざく。
辺りの何もかもが歪んで見える中、散らばる茶碗の欠片を前にした真龍は呆然と立ち尽くしている。
この景色が今起きていることなのか、それとも過去のことなのか判然としないまま、真龍は闇の中に引きずり込まれそうな恐怖に襲われていた。今すぐにここから逃げたいのに、身体が強ばり、声も上げられずに逃げ出すことが叶わない。
価値のない自分を嘲る母の視線と声が、真龍の肌を切り裂き、血だらけの心を抉り出そうとしてくる。
母が喜んでくれると信じた贈り物を粉々にされ、取り繕う術もわからずに佇むしかない幼い自分の姿に、真龍の喉が干上がり額から脂汗が流れた。
この場所に取り残されるのだけは嫌だ。
助けてくれ――。
「……真龍さま……」
出口を求めてもがく泥の中、どこからか自分を呼ぶ声がして、真龍はその声の在処を探して闇雲に手を伸ばす。
苦し紛れに辺りをまさぐった指先がふわりと温かいものに触れ、耳元で案じる声が聞こえてきた。
「真龍さま……真龍さま……どうされました? 具合でも悪いのですか?」
指先から伝わる温もりと、自分を呼ぶ優しい声に真龍が瞼をこじ開けると、覗き込む大きな黒い瞳と視線が合った。
「……蓮花」
「どうなさいました? 真龍さま」
声にも揺れる視線にも深く心配する気配が溢れていて、真龍を現実へと引き戻す。
「……あ……蓮花」
悪夢にしいられた緊張で強ばる唇をようやく動かす。真龍に滲んだ汗を、蓮花が白絹の袖でそっと拭った。それから「今、お水を」とあやすように微笑みかけ、枕元に備えつけられた紫檀の卓の上から水差しをとりあげる。
「……飲ませてくれ」
母親の顔にはついぞ見たことがない温かい笑みに、真龍は思わずそう口走った。驚いたように振り返った蓮花に、真龍はまだ汗ばむ手を伸ばして白絹の袖を握る。
「おまえが飲ませてくれ、蓮花」
「はい……」
白い首筋を赤く染めたものの、素直に水差しの水を口に含んだ蓮花は真龍の唇に自分の唇を押し当ててきた。温かい唇を通じて、ひんやりとした水が真龍の口中に落ちてくる。口移しで与えられた水は渇いた喉を潤し、激しく脈を打つ胸を冷やしてから、真龍の腹へと収まっていった。
「蓮花……」
水を含ませてくれた蓮花の身体を引き寄せ、頼るように胸に抱え込む。
「大丈夫ですか? 真龍さま」
まだ気遣いながら、蓮花は汗が薄く残る真龍の額に白い手をあてる。
「ああ、何でもない」
蓮花を側に置いてからあの悪夢を見ることはなくなっていたと思っていたが、やはり身体の奥底に食い込んで、自分の心を蝕むことをやめてはくれない。
母を阿房城から追放したときにかけられた呪詛は、永遠に解けることはないのだろうか。
微熱が下がらないような気怠い疼きを抱えながら、真龍は腕の中の蓮花をいっそう引き寄せる。逆らいもせずに腕に従う素直さが愛しく、同時にその脆さが痛々しい。もし自分が守ってやれなくなったら蓮花はどうなるのだろう。彼女まで自分と一緒に暗い闇の中に引きずり込むことになってしまうのではないだろうか。
その怖れが真龍の身体を僅かに震わせた。
「真龍さまは、お疲れなのです。ここのところずっとお忙しいですから」
真龍の震えの意味を誤解した蓮花が、胸に手を回して慰めるように背中を撫でてきた。
「少しうなされていらっしゃいましたし……」
「ああ……そうか」
やはり何か言ったのだ。
あれほどの夢を見て、心のうちを叫ばないはずはない。
遠慮がちな蓮花の言葉で、真龍は己の奥底に巣くう悪夢の根の深さに気付き、背筋が凍る。
「……俺は何を言った」
濡れた蓮花の黒い瞳を覗き込んで尋ねた。
「教えてくれ、俺は何を叫んだんだ?」
「夢を見て言ったことなど、気にすることはありません。とりとめのないことですから」
甘やかにいなす蓮花は大人びて、真龍の全てを包み込む慈しみ深い微笑みを浮かべる。強ばりいきり立つ真龍の心を解きほぐすように、白い手はどこまでも優しく触れてきた。
「……俺は……ろくなことをしてこなかったから、嫌な夢ばかり見るのか」
加減を忘れれば折れてしまうに違いない身体を抱いて、真龍は呻いた。
脆い身体つきからは想像もできないほど強く、穢れのない心を宿した蓮花だけが、自分をこの悪夢の呪いから解き放ってくれる、唯一のものに思える。
「何度も何度も同じ夢を見るんだ。どうしたら、この悪夢から逃れられるのか……王になって誰より力を持っても、結局、俺は救われないのか」
心の底に隠していた本音を漏らす真龍の頬に、蓮花の滑らかな手が静かに押し当てられる。
「真龍さま、辛いことや哀しいことは誰にもあります。真龍さまはそれを忘れないでいるから、夢に見てしまうのです。真龍さまの心がとても優しいから、哀しいことを忘れられないのです。悪いことをしてきたからではありません」
「優しい? 俺が?」
馬鹿な――、とあしらおうとした唇が歪んでしまう。優しいのではなく弱いだけだ。いつまでも母の罵りに囚われている愚かな男だ。
だが蓮花は、真龍のそんな気持ちを吹き飛ばす迷いのない目をして頷いた。
「人がどう言おうと、真龍さまは優しい方です。私にはわかっています」
蓮花の声にも視線にも媚びる色は欠片もなく、心からの思いが真っ直ぐに伝わってくる。
「……おまえは、おかしな女だな」
それしか言えずに、再び蓮花を抱きしめるしかできない。
自分が優しいとはもちろん、少しも思わない。自分が気にかけているのは蓮花だけで、他の女などどうでもいいし、どう思われようと爪の先ほども気にしない。
けれど蓮花が自分を優しいと言ってくれるのが何故か嬉しい。
この女こそが自分の失ってしまった心であり、魂だと真龍は感じている。失ったらもう生きてはいけないだろう。
「蓮花」
名を呼ぶたびに愛しさがつのり、真龍の呼びかけに答えようと開かれた蓮花の唇を奪う。
舌を絡めて呼吸を奪い、のけぞって甘く苦しがる白い喉を強く吸い上げて、赤い花びらを散らす。
「ん……」
眠る前も抱いた身体に残った熾火が、再び蓮花の身体の中で炎に変わり始めるように、真龍は丸い乳房を手で覆い、その温かい柔らかさを確かめる。
「真龍さま……あ……」
抱けば抱くほど、蓮花は美しく清らかに変わっていく。
泥の中だろうと可憐に咲く、蓮の花になる。
この娘といればきっと自分は大丈夫だ――真龍は蓮花の白い身体を愛しながら、長く囚われ続けていた悪夢から抜け出し始めていた。
了