罰ゲームはドレスで
「あー! また負けた」
アデリシアの嘆きの声がクラウザー邸の談話室に響いた。
家族や友人たちとの語らいのためのその部屋では今、この館の主であるレナルドとリンゼイ、それに友人夫婦であるジェイラント・スタンレー侯爵とその妻のアデリシアの四人が机を取り囲んでトランプ遊びに興じていた。だが彼らがやっているのはポーカーゲームであり、遊びとはいうものの、丸いコイン状のチップまで用意されている。お金のやり取りはない。最初に均等に分けられたチップを使ってゲームをし、誰かの手持ちのチップが無くなった時点で一番チップが多かった者を勝者とし、手持ちのチップをすべて無くした敗者に好きな命令を一つだけできるというルールにしたのだ。
今回の勝者はジェイラントだった。実を言えば彼が一番勝ちが多い。心理戦が必要なポーカーゲームは彼の得意とするもので、文字通りポーカーフェイスで自分の手の内を決して気取らせないのだ。対して一番負けが多いのはポーカーに慣れてない上に、すぐ思っていることが顔に出るアデリシアだった。おかげで毎回ジェイラントにキスを要求され、顔を真っ赤にして応じさせられている。
「次は頑張りましょう」
頬を染めて席に戻ってきたアデリシアにリンゼイは慰めるように言った。けれどそう言うリンゼイも一度も勝てていない。駆け引きに関しては不得手ではないが、いかんせん男性陣が強すぎた。男性の集まりにはカードゲームは付きものだし、それにどうやら二人は平民に混じって街に繰り出していた時に、荒くれ男たちに混じってこの手の賭博も何度か経験していたようだ。そのため駆け引きがやたらと上手く、リンゼイとアデリシアはそれに翻弄され、あっと言う間にチップを失ってしまう。結果、いつも勝つのはジェイラントとレナルドのどちらかということになる。
ところがその次の勝負は違った。ワンペアでは勝負にならないとリンゼイが早々にドロップ(棄権)し、いい手札に恵まれなかったらしいアデリシアもそれに続いた結果、レナルドとジェイラントの一騎打ちになったのだ。お互い良い手札だったらしく、引く様子はない。必然、賭けるチップの数もつりあがった。
そしてその勝負の行方は――。
「フルハウスとはね……」
レナルドが自分とジェイラントのカードを見て呻くように言った。レナルドのカードは連番や同じ数字のものはないがそのすべてにダイヤのマークがついていた。いわゆるフラッシュという役だ。対するジェイラントのカードの五枚のうち三枚はキングのスリーカード。残りの二枚も8という同じ数字が並んでいた。スリーカードとワンペアの合わさった役はフルハウスと呼ばれていて、レナルドのフラッシュより強い。つまりこの勝負はジェイラントの勝ちだ。
「運がよかったんですよ」
ジェイラントが笑みを浮かべて言った。そんな彼にレナルドは顔をしかめて首を振る。
「運のよさも勝負のうちよ。……あーあ、いいカードが来たと思って判断を誤った。こんなに大負けしたのは久しぶりだわ」
途中で勝負を降りたリンゼイとアデリシアの手元にはほんの少し残っているが、今の勝負で手持ちのチップをすべて賭けてしまったレナルドの手元には一枚も残っていなかった。敗者としてレナルドはジェイラントの言うことを一つ聞かなければならないのだ。
「ルドにやって欲しいことですか……」
ジェイラントは顎に手を当てて思案する。どうやらレナルドが負けて自分が彼に命令をしなければならない場面は予想していなかったらしく、すぐには思い浮かばないらしい。
「何でもいいからとっとと言いなさいよ」
痺れを切らしたレナルドが言うと、何か思いついたようにジェイラントは顔を上げ、にっこり笑いながらとんでもないことを口にした。
「それではルドに女装してもらいましょう」
「はぁっ?」
レナルドがあんぐりと口を開ける。仰天したのは彼だけではなく、リンゼイもアデリシアも同様だった。何しろレナルドは自分の女顔が嫌いで少年期に一時荒れていたくらいだ。今はその顔を受け入れているとはいえ、女装するには抵抗があるだろう。ことに罪悪感を抱いている母親とそっくり同じ姿になると分かっているから尚更だ。
けれどそれを誰よりもよく知っているはずのジェイラントが唖然とする三人を余所に楽しげに言う。
「確かルドにも着られそうなドレスがあったはずです。ルドの今は亡きおじい様は芝居好きで、劇団を呼んでは招待客の前で自分も寸劇に混じって披露していたそうですから」
「確かにジジイの衣裳部屋を引っ掻き回せば男性サイズのドレスくらいは出てくるでしょうよ! だけど、そもそもアタシは女装なんぞする気はないわよ!」
レナルドが血相を変えて抗議する。けれどそんな彼にジェイラントは眉をあげて見せた。
「遊びとはいえ、勝者の言うことを聞くというルールですよ、ルド。この期に及んで拒否とは男らしくありませんね」
「てめぇ。だからって女装しろってのか、この顔で!」
頭にきたのか、思わず女言葉をかなぐり捨ててレナルドはジェイラントを鋭く睨みつける。リンゼイだったらビクッとなりそうだが、慣れているジェイラントは平然としていた。微笑みすら浮かべている。
「もうそれほどその女顔は気にしてないでしょう。それに、たぶんルドの恐れているようなことにはならないと思いますよ」
「あ?」
「私が持っているチップすべて賭けてもいい。女の格好をしても、ルドが自分で思っているほど伯爵夫人に似ることはありません」
――ジェイラントは穏やかな笑みを浮かべながらやけに確信を込めた口調で言った。
「……あの、嫌なら侯爵に頼んでこの女装を無効にしてもらってきますけど……?」
談話室の隣の控え室で、使用人に探し出してもらったドレスを着るレナルドを手伝いながらリンゼイは恐る恐る声をかけた。レナルドはよほど嫌なのか、さっきからずっと不機嫌そうな顔をして無言でドレスに袖を通している。幸いなことに、持ってきてもらったドレスは面倒なコルセットやパニエを必要としない紫のハイネックのシュミーズドレスだった。
背中に回ってボタンを留めているリンゼイの邪魔にならないように髪をかき上げながら、レナルドが諦めたような吐息をつく。
「いいわよ。あいつに頭をさげる必要なんてないわ。こうなりゃ腹を括るわよ。……でも遊びだろうがルールだろうが今後一切こんな格好はしないから」
ぶつぶつと唸るようにつぶやくレナルドにリンゼイは苦笑しながら言った。
「でも、レナルドさんは嫌かもしれませんが、実際、とてもよく似合ってますよ」
ドレスを身にまとうだけで、背の高さや体格を除けば、ハッと目を引く濃艶な美女がそこにできあがっていた。
レナルドは顔をしかめる。
「似合うのは分かってるわよ。何しろ母親そっくりなんだから」
確かにレナルドはびっくりするほど母親似だ。けれど、彼の柔らかそうな栗色の髪を簡単な形に結い上げながら、リンゼイにはジェイラントの言っていたことが何となく分かってきていた。
確かに顔立ちやパーツの一つ一つはよく似ている。けれど作りは同じであっても、持っている雰囲気がまるで違うのだ。
リンゼイは姿見を少しも見ようとしないレナルドに、小さな手鏡を差し出しながら微笑んで言った。
「侯爵の言う通りです。レナルドさんはお義母様とよく似ているけど、でも全然違いますよ」
レナルドの母親はとても優しく繊細な人だったという。肖像画にもそれが現れていて、たおやかで楚々とした雰囲気で、優美という言葉がとてもよく似合っていた。対してレナルドは、華やかで艶やかで、一言で言えば妖艶という言葉がぴったりだ。男だからということもあるが、そこに繊細で楚々とした雰囲気はまるでない。同じパーツなのに、びっくりするほど両者の印象は違っていた。
普段は男女の差から来るものと思われていたその違いが、同じようにドレス姿になったことでかえって浮き彫りになった形だ。おそらく生前の伯爵夫人を知っている人ほどその違いは鮮明だろう。
レナルドはリンゼイから受け取った手鏡を覗いた後、苦笑しながらつぶやいた。
「……鏡の向こうから母親とそっくりな顔が見返してくるかと思ってた。でも確かにこれは……違うわね」
「はい。スタンレー侯爵はたぶんそれが言いたかったのではないでしょうか」
「……ふん。女装なんて言い出さなきゃもっとよかったんだけど」
口を尖らせてそう言うと、レナルドは椅子から立ち上がった。
「さて、あいつらに見せて、さっさとこの格好から解放されるとするか」
「あ、まだ化粧が……。せめて紅だけでも」
彼を着飾らせることが内心楽しくて仕方なかったリンゼイはつい悪ノリして言ったが、もちろんレナルドに一蹴される。
「却下。化粧なんて、冗談じゃないわよ」
ところが、扉に向かって歩き始めたレナルドが不意に足を止めて振り返り、リンゼイのところに足早に戻ってきた。その顔にはなぜか妙な笑みが浮かんでいる。
「気が変わったわ。紅ならつけていってもいいわよ。ただし……」
その言葉に反応する間もなく顎を取られ、降りてきた唇に口を塞がれた。
「んっ……」
強く押し付けられ、唇で唇を擦られて、その感触に背筋にゾクッと快感が走る。けれどキスはそれ以上深くなることはなく、リンゼイの柔らかい唇を堪能した後、ゆっくりと離れていった。
「これで十分よ」
レナルドは自分の唇に指で触れて艶やかな笑みを浮かべた。弧を描くその唇は彼女がつけていた紅でうっすらと赤くなっている。リンゼイの胸が早鐘を打ち、頬が赤く染まった。
「……もう。二人に何をしたのか分かっちゃいますよ」
「構いやしないわ」
そう言って笑うレナルドはドレスを着て髪を結い上げた姿で、どこから見ても妖艶な美女だ。けれどリンゼイの目には、まぎれもなく「男」として映っていた。
「わぁ、レナルドさん、素敵です!」
談話室に戻ったレナルドはアデリシアの感嘆の声で迎えられた。
「美人に仕上がりましたね。でも……私の言った通りだったでしょう?」
にっこりと笑うジェイラントにレナルドは「ふんっ」と鼻を鳴らした。
「言っておくけど、金輪際こんな格好はしないからね」
「それはもったいない」
リンゼイはそんなやり取りを談話室の戸口で微笑んで眺めていたが、部屋には入らず、そのままそっと廊下を進んで、ある一人の美しい女性が描かれた肖像画の前で足を止めた。
「あの人は大丈夫ですよ。お義母様」
リンゼイはその肖像画を見上げながら言った。
――レナルドの母親である故クラウザー伯爵夫人。レナルドに妹たちを託し、けれど誰よりも彼を心配しながら儚く逝った人。
「彼を誰よりもよく理解してくれる友達がいますもの。それに、私たちが……私が、お義母様の分までずっと彼の傍にいて支えますから。だから……大丈夫です」
そう告げるリンゼイを、絵の中の人が優しい笑みを浮かべて見下ろしていた。