ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

幸福な時間

「俺さ、自分で言うのもなんだけど、いい父親になると思うんだよ」
 エリアスの上司であるヒュー・グレイヴスが、突然そんなことを言い出した。
 街の見回りの最中である。何か変わったことはないか、不審者はいないかと、人どおりの多い市場に目を配っていたエリアスは、思わず眉を顰めた。
 いつも真っ先に突っ込みをいれるクリスとルイは今は一緒ではない。エリアスたちは街の中心部を見回っているが、彼らは郊外の見回りをしているのだ。この業務は二人一組になって行うことが原則なので、エリアスはヒューと組んでいた。他の団員も各自担当区域を見回っている。
「……誰かを孕ませたんですか?」
 エリアスが隣を歩くヒューを半眼で見やると、彼は慌てて首を振った。
「違う違う。そうじゃなくて、俺みたいにいい父親になりそうな人間が結婚に縁がないのはおかしくないかって話」
「恋人ができても長続きしない人が、自信満々によくそんなことが言えますね」
 呆れるエリアスに、ヒューは情けない顔で反論する。
「好きで別れてるわけじゃない。なぜかいつもフラれるんだ」
「ヒュー隊長が甲斐性なしってことですか」
「そんなにはっきり言うなよ。……ちゃんと高級な飯屋に連れて行ってるし、贈り物もしてるし、泊まる宿だって評判のいいところを使ってるのに……」
「貢げばいいってもんじゃないですよ。どうせ、仕事を優先すると怒るような女とばかり付き合ってるんでしょう」
「よく分かるな。だからきちんと贈り物をして機嫌をとってるんだ」
 それなのになぜフラれるんだ? とヒューは首を傾げた。
 フラれる原因が本気で分からないらしい。恋愛事に疎いエリアスにだって、彼の何が駄目なのかとっくに気づいているというのに。
 今までヒューが付き合ってきた女は、団長補佐という肩書きと金目当てで寄ってきただけなのだ。本当に好きなら、相手の立場を考えてくれるはず。もし次に誰かと付き合う時は、お互いに尊重し合える人にしたほうがいい。
 これまでノーラとしか付き合ったことがないエリアスだが、恋愛に何が大事なのかは理解しているので、上から目線できっぱりと断言した。
「ヒュー隊長は、女を見る目がない」
 ヒューは大きく目を見開いて驚きをあらわにする。
「ノーラ以外の女を視界にすら入れようとしないお前にそれを言われるとは……。お前に女の良し悪しが分かるのか?」
 確かにノーラ以外の女に興味はないが、男女関係なく周囲の人たちの人間性はちゃんと見てきたつもりだ。だからその驚き方は少し心外である。
 反論しようとすると、突然、ヒューが目を瞠って小さく声を上げた。
「……あ!」
 何事かとヒューの視線を追うと、一台の馬車が街道をゆっくりと走っていくところだった。細部まで凝った細工が施された立派な馬車だ。御者も仕立ての良いコートをまとっている。それなりに地位のある人間が乗っているのだろう。 
「誰ですか?」
 ヒューの知り合いの馬車なのかもしれない。そう思い、視線を戻すと、彼は真面目な顔で答えた。
「現宰相のヒンシェルウッド侯爵の娘、オリヴィア様と、クラウスの奥方の兄上、アーヴェル様だ。ほら、宰相の娘が最近婚約したって噂になってただろう?」
「ああ……それを聞いて、何人かの騎士団員が泣いてましたね」
 城で行われたパーティーの警備をしていた時にオリヴィアを何度か見かけたことがあるが、他の貴族の女たちと比べて服装も振舞いも控えめだったという印象しかない。
 なぜ団員が泣くのかと首を傾げるエリアスに、ヒューが丁寧に説明してくれる。
「オリヴィア様は性格がいいし、守ってあげたくなるような可愛らしい容姿だろう? 王都は奔放な女性が多いから、奥ゆかしい彼女に憧れていたやつは多かったんだ。俺もその一人なんだけどな。あ~、アーヴェル様が羨ましいなぁ」
「へえ……」
 エリアスは別に羨ましくないので適当に流しておく。悔しがるヒューは無視して、人混みへと視線を戻した。
 すると突然、またヒューが声を上げた。
「あ、クラウス!」
 街の様子を眺めている最中だったので、エリアスもクラウスの姿にすぐに気がついた。色とりどりの玩具を売っている店で、彼は真剣に何かを選んでいるところだった。
「何か買ってますね。子供の玩具?」
「だろうな。今、アイルちゃんが妊娠中だから」
 クラウスは、いくつかの幼児用玩具を両手に抱えている。これから生まれてくる我が子の遊び道具を買いにきたらしい。なかなかの子煩悩になりそうだ。
 しかしその微笑ましい光景に、ヒューが水を差した。
「クラウスのやつ、身重だと危ないからって、自分が一緒じゃないとアイルちゃんを外出させないらしいぞ」
「初めてのお子さんですからね。心配なんでしょう」
「違う。それを口実にアイルちゃんを軟禁してんだよ。腹が大きくてもアイルちゃんの美しさは変わらないだろう? 他の男を近づけないために屋敷に閉じ込めてるんだ。そういうやつなんだよ、クラウスは。……お前、あいつの気持ちが分かるなんて言うなよ?」
 分かる。もしノーラが妊娠したら、自分も同じことをするかもしれない。いや、妊娠していなくても、そうしたい。
 エリアスは、胡乱な目で見てくるヒューから視線を逸らした。するとヒューは、はっと小さく息をのむと、まさか……と切り出す。
「お前、ノーラのことをあのぼろい家に閉じ込めてるんじゃないだろうな?」
 ぼろい家というのは、エリアスとノーラの新居のことである。屋敷を失ったエリアスは、自分に見合った家を借りたつもりだが、周りから見れば?小さくて古い家?らしい。
 だが、今、そのぼろい家にノーラはいない。なぜなら――
「実は、先日引っ越したんですよ」
 さらりとした報告に、ヒューは目を丸くした。
「は? どこに?」
「庭付き裏山付き家具付きの大きな一戸建てに」
「裏山?」
 眉を顰めるヒューに、エリアスは頷く。
「俺とノーラは孤児みたいなものだと言ったら、クラウス様が貸してくれたんです。クラウス様所有の家だったらしくて、本当は?あげる?と言われたんですけど、分不相応なので格安で借りることにしました」
 エリアスの説明に、ヒューは納得顔になった。
「クラウスなら言いそうだな」
「同じように団長に言ったら、団長は馬を二頭も贈ってくれました」
 ノーラは動物が好きなので、喜々として馬の世話をしている。ご機嫌なノーラを見ているとエリアスも嬉しくなるので、団長は素晴らしい贈り物をしてくれたと思う。
 ついでにとばかりに軽い口調で報告するエリアスに、ヒューは一瞬動きを止めた後、周囲の迷惑になるほど大きな声で叫んだ。
「はあ? あの人、いつの間にっ!」
「クリスからは調理器具や食器類一式をもらいました」
「聞いてないぞ!」
「ルイからはいろいろな種類の布をたくさん。それで服を新調しろと言われました」
「ルイもかよ!」
「ヒュー隊長からは……」
「何が欲しい? 何が欲しいんだ、言ってみろ!」
 エリアスの肩を両手で掴んだヒューが、がくがくと揺さ振ってくる。それに身を任せながら、エリアスは首を振った。
「いえ、ヒュー隊長は、ぼろい家用にベッドを買ってくれたじゃないですか。引っ越してからもあれを使っているので……」
「もっとでかいの買ってやるよ!」
「いいです。俺たちにはあれくらいがちょうどいいんですよ」
「でも……」
 ヒューが何か言おうとしたが、その直後、エリアスは素早く視線を人混みに向け、ぐるりと体を反転させた。
 ノーラに呼ばれたのだ。
「エリアス!」
 再び、ノーラがエリアスを呼んだ。
 エリアスの耳は喧騒の中でもノーラの声をきちんと拾っていた。視線の先には、人混みの中をエリアスに向かって駆けて来るノーラがいる。
「ノーラ!」
 待ちきれず、エリアスもノーラに向かって走った。そしてしっかりと彼女の体を抱き締める。
「偶然ね。まだ仕事中でしょう?」
 背中に腕を回しながら、ノーラは至近距離でエリアスを見上げてきた。思わずキスをしたくなったが、追って来たヒューの姿が視界の端に映ったので、なんとかその欲望を堪える。
「ああ。ノーラはどうしてここに?」
「裏山で夕飯用の山菜ときのこを採ってきたの。エリアスが昔よく採ってきたあのきのこがあったのよ。ネノスの町よりも高値で売れたわ。やっぱり売るなら王都よね」
 にこにこと嬉しそうに微笑むノーラが可愛くて、ヒューの目なんて気にせずにキスしてしまおうかと思った。
 しかし、そうする前にノーラがヒューの存在に気づいてしまった。慌ててエリアスから体を離したノーラは、恥ずかしそうにヒューを見る。
「こんにちは、ヒュー隊長」
 ノーラの挨拶にヒューは笑顔で応えたが、すぐに怪訝そうな顔になって、彼女の持っている籠を指差した。
「エリアスの給料、食うもんに困るほど安くないよな?」
 きのこを売って家計の足しにしなければならないほど貧乏なのかと、ヒューは眉間に皺を寄せる。
 ノーラはヒューの心配を察したらしく、小さく笑い声を上げた。
「お給金は十分なほどいただいています。これは趣味なんですよ」
 ネノスの町で、ノーラも貧乏生活に慣れてしまったようだ。生まれた時から貧乏だったエリアスは金のない生活が普通だったし、孤児院暮らしを経て一人暮らしをしていたノーラも、質素な生活のほうが落ち着くらしいのだ。
 ヒューはエリアスの耳元に顔を寄せると、小声で訊いてきた。
「おい、エリアス。ノーラがダネルにもらったって言ってたあの金、どうしたんだ?」
「あれなら、慰謝料としてもらっておきましたよ。だって、あいつのせいで俺たちは三年間も離れ離れでいたんですよ。もっとふんだくっても良かったと思います。ノーラが使うべき金なんですよ、あれは」
 当然の権利だと主張すると、なぜかヒューは複雑な表情になった。
「お前ら、逞しいというかちゃっかりしてるというか……苦労してきたからなんだろうなぁ。……いや、うん。安心した。お前らならどこででも図太く生き抜けるよ」
 呆れたような表情をしたと思ったら、ふいに気の毒そうな顔になり、最後には満面の笑みを浮かべて、ヒューはエリアスの肩を叩いた。
「はあ。ありがとうございます」
 褒められているのだと解釈したエリアスは、一応頭を下げておく。するとヒューは、エリアスの頭に手を置き、ぐりぐりと髪の毛をかき回した。
「エリアス、ノーラのことを送って行ってやれ」
 予想外の言葉に、エリアスは勢いよく顔を上げる。
「いいんですか?」
「ああ。もうそろそろ終業時間だしな。直帰していいぞ。気をつけて帰れよ」
 ヒューは手を振って、エリアスたちに背を向けた。その後ろ姿に、エリアスとノーラはお礼を言う。
 改めて、彼が上司で良かったと思った。
 実の父親よりもヒューのほうがエリアスのことを理解してくれている。エリアスがネノスの町ではなく王都で暮らそうと思ったのは、兄のような彼の存在があったからだ。
 ノーラと手を繋ぎ、帰路へとついたエリアスは、ふとヒューが言っていたことを思い出した。
「ノーラ……俺はいい父親になれるかな?」
 唐突な質問に、ノーラはきょとんとしながらも答えてくれた。
「なれるわ。子供にヤキモチを妬きそうだけど」
 子供にヤキモチ……妬くに決まっている。だって、ノーラを独り占めできなくなるのだ。そんなのは嫌だ。
「……自信がない」
 不安な気持ちでぽつりと呟く。するとノーラは、エリアスの腕に抱きつくようにして体を寄せてきた。
「大丈夫。エリアスはお母さんを大事にしていたもの。同じように子供も大事にできるわ」
 ノーラは笑みを浮かべてエリアスを見上げてくる。本気でそう思っているのだと分かる、真っ直ぐな瞳だ。
 彼女ができると言うのなら本当にできるかもしれないと思った。
 エリアスは笑顔で頷く。
「ああ、大事にしたい」
「うん。何人できても皆大事にしてね」
 未来を想像しているのか、ノーラは幸せそうに笑った。
 この笑顔を見続けていられるのなら、エリアスは何でもできる。
 離れていた時間は取り戻せないけれど、これからの未来はすべてノーラとともにいられるのだ。
 子供が産まれて大きくなるまでの時間くらい、二人きりでいられなくても我慢する。それからの人生も長いのだ。
 死ぬ時は一緒だ。
 だからそれまで、この幸せを満喫しよう。
 エリアスは、早く思い切りノーラを抱き締めたくて、家までの道を急いだ。

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