革紐
「ぁっ……も、やだぁ……! ど、うして、こんなこと……! レオ、おねが……」
ウィンスノート伯爵家の主の寝室のベッドの上、翡翠の瞳を潤ませて、彼の愛しい妻が哀願する。
――ああ、可愛い。本当に可愛い。
レオナルドは込み上げてくる感情に煽られて、暴走しそうになる己をグッと押し留める。
やっと捕まえた小鳥だ。
あの邪魔な兄を排除し、ようやく手にした自分だけの小鳥。
その小さな羽は、感情のままに扱ってしまえば、簡単に折れてしまうだろう。いっそその羽をもいで、飛び立てないようにしてしまおうかと思うこともある。それをするのはとても簡単だ。レオナルドにはそれだけの力があるし、何よりもこの小鳥はもう彼の妻だ。鳥籠に入ってしまったも同然の状態で、彼の行動を妨げるものは何もない。
だがレオナルドは、彼のこの可愛い小鳥の、屈しない強い瞳もまた、愛していた。
羽をもいでしまったら、反抗的で、けれど泣くまいと涙を目に浮かべながら歯を食い縛る、その表情を見られなくなってしまうだろう。
それは彼の本意ではなかった。
だからレオナルドは、自分の中の、狂気にも近いその欲求を理性の力で嚥下するのだ。
「お前は本当に愛らしいな、マリアンナ」
甘く優しい笑顔で、今にも零れそうな翡翠の涙をキスで吸い上げる。塩辛いはずのその雫が、甘露にも思えるのはどうしてだろう。その味をもっと確かめたくなって、レオナルドは味わっていた目尻を下り、すべらかな頬へと舌を這わせる。
「あっ、ん……ひぁ、も、やだっ……」
先程までの愛撫でどこもかしこも敏感になってしまっているマリアンナは、顔中を舐め擽られ、ひくんひくんと身を震わせる。
「ああ、本当に可愛い……」
うっとりと呟けば、マリアンナがギッとこちらを睨み上げてきた。
――ああ、その眼。
どれほどいたぶろうが、どれほど快楽で溶かそうが、彼の小鳥は決して屈しない。
「じゃあ、この紐を外してください、今すぐに!」
マリアンナは縛られた手首を突き出してそう叫んだ。そこには良くなめされた赤い革紐が巻き付いている。
手首だけではない。首、胸周り、胸の下、腰、尻、太腿、膝、足首、挙句の果てには、指にまで、その細い紐が巻き付けられている。ご丁寧に各場所で蝶々結びをされているため、マリアンナはたくさんの真っ赤なリボンをつけた、贈り物のような風体だ。白く柔らかな肢体に、くい込まない程度に、けれどもしっかりと結ばれたそれらは、それぞれは細いけれどもマリアンナの動きを封じるには十分な代物だった。
「何故だ? こんなにも似合っているのに」
平然と答えるレオナルドに、マリアンナは一瞬呆気にとられた顔をして、それから頬を赤く染めて怒り出した。
「似合ってなどいません!」
「似合っているとも。クリームのように白く滑らかなお前の肌の色に、この緋色はよく映える」
「だからそうじゃなくて……ぁっ」
なおも怒ろうとするマリアンナを余所に、レオナルドは、紐を巻かれて少し押し潰された乳房を掴み、その中央に実った小さな果実をパクリと食べた。
「ぁあっ……だ、だめって……」
そのまま舌先でコロコロと転がし、吸い付いてから甘噛みをすれば、マリアンナは身をくねらせて嬌声をあげる。レオナルドはその痴態に喉元をクツクツと震わせながら、先程からモゾモゾと動いている彼女の柔らかい太腿へと手を伸ばす。
弄る手の向かう先に気付いたマリアンナが、焦ったように声をあげる。
「っ……ダメっ!」
狼狽する妻とは反対に、嬉しくて堪らないレオナルドは、当然のことながら手を止める気配もない。辿り着いたその秘めやかな場所が、自分の望み通りの状態になっているのを感触で確かめると、羞恥に顔を背けて目を閉じている妻の耳に、そっと囁きかける。
「なにがダメなものか。こんなに滴らせておきながら……?」
するとマリアンナはパッと目を開き、ギリッとこちらを睨み上げてくる。
「だからっ……! どうしてあなたという人はっ……!」
――ああ、その眼だ。その眼が、私を狂わせる……。
レオナルドは、高揚感とも欲望ともつかない感情を、歓喜とともに噛み締める。
この感情を、最初はどう表現していいか分からなかった。
生意気なその眼差しを愛しいと心の底から思いながらも、一方でその強さをへし折りたいと渇望する。
両極端な己の欲求に、困ったものだと自嘲してみせても、反省するつもりはさらさらない。
何故ならば、この感情が、自分にとっての『愛』だと、今はもう分かっているから。優しくしたいのに、虐めたい。その笑顔を愛しているのに、泣き顔をもっと見たいと切望する。
恐らくマリアンナは、こんなでたらめな夫の態度に混乱してしまうだろう。当然だ。自分とて、どちらが本当の自分であるかなど分からないのだから。いや、どちらも真実、自分自身であるからこそ、分からなくなるのか。
どちらにしても、これがレオナルドである以上、マリアンナには受け入れてもらわなければいけない。
けれど彼の小鳥は油断ならない。気を抜けばすぐにでもこの檻から逃げ出してしまうだろう。だから彼は、少しだけ妥協することにしたのだ。
マリアンナを虐めるのは、ベッドの上でだけ。それ以外では、甘く優しい彼女の夫であろう。
閨事の最中だけ、と限定することで、マリアンナはとりあえず納得したようだった。今の所逃げ出す素振りは見せない。それどころか、昼間には甘えるような仕種まで見せるようになった。猫のように身を摺り寄せてくる妻の姿は、実にレオナルドを満足させた。
――ああ、けれど。
レオナルドは背筋を這い上がるような快感を覚えながら、妻の反抗的な眼差しを見詰める。
この屈しない翡翠の眼差しを、レオナルドは堪らなく愛しているのだ。
「愛しているよ、マリアンナ」
レオナルドは恍惚とした表情でそう告げて、妻の中に入るために、己の夜着の前を寛げる。
「だからっ……! あなたはどうしてわたしの話を聞いてくださらないの……んんっ!」
怒り心頭に発するマリアンナが再び噛み付いたが、覆い被さって来たレオナルドに強引に口を塞がれる。
「愛してる……愛してるよ、マリアンナ」
「あ、ぁあっ、も、だからっ……ふぁっ、この紐を外し……あああっ」
ウィンスノート伯爵夫妻の夜は、今日もこうして更けていくのだった。
***
後日。
マリアンナは部屋いっぱいに広げられた乗馬服の数々に、呆気にとられていた。
「こ、これは一体どうしたの?」
控えていた執事に問えば、彼はにこやかに答えてくれる。
「奥さま用に誂えました、乗馬服でございます」
「え? だって、わたしはここに来てまだ採寸を一度もしていないわよね?」
女性でありながら馬に跨るマリアンナは、乗馬の際には男物の乗馬服を着る。今までは兄のお下がりを着ていたのだが、自分の買い与えた服以外を身に着けるのを、レオナルドが良しとしないため、新たに作ることになっていた。一向に職人を家に呼ぼうとしないので、半分諦めかけていたというのに。
ベッドの上に所狭しと並べられたそれらの内の一枚を取って自分に当ててみれば、どうやら丁度良さそうな感じだ。
「どうやってわたしのサイズが分かったのかしら?」
不可思議に首を傾げていると、執事がその答えをくれた。
「例え職人であろうと、奥さまの身体に他の者が触るのは我慢ならないと旦那さまが仰られまして、ご自分で測ると……」
夫の独占欲の強さに呆れるやら恥ずかしいやらで、顔が熱くなってしまう。マリアンナは狼狽しながらもまだ首を捻る。
「で、でも、レオナルドはわたしのサイズを測ったりなど……」
「え? ですが、奥さまのサイズだと仰って、革紐を……」
「――――ッ!!」
『革紐』の単語で、ひと月ほど前の夜を思い出し、マリアンナは絶句した。
――あの拘束具は、このための……!?
夫は、夜にはしつこいくらいに意地悪になる。自分の性癖を満足させるために、マリアンナの嫌がることをしたがるのはよくあることだった。だから今回もその一環とばかり思っていた。
恥ずかしいからやめてと泣いて懇願してもまったくやめてくれず、腹立ちのあまり『ダイキライ!』と叫んだくらいだったというのに。
「わ、分かりにくいのよ……!」
怒ればいいのか喜べばいいのか、複雑な想いになりながら、マリアンナは額を押さえたのだった。