手紙
「良いですか、くれぐれもライアン様の書斎に飾られている小さな額には手を触れないこと、中を見ることも禁じます」
整列した使用人達の前でセバスが告げた言葉、見てくださいとかけてある物を見るなという理不尽な命は、アルフォード家に仕える使用人たちに与えられた新たな規則となった。
☆★☆
『ライアンへ』
丸い文字で綴られた己の名前を見るたびに、ライアンの頬は緩んでしまう。
目を細めたのは南側に面した窓から差し込む午後の陽ざしが眩しいからか、それとも小さな額に飾ったセレーナからの想いに歓喜しているからか。
ライアンは執務机に腰掛け、うっとりとセレーナからの手紙を見つめた。
西の離宮の窓から飛んできた真っ白な紙飛行機。セレーナが飛ばしたことは分かっていたから、隠れていた物陰から出て拾った。何でもいいから彼女と話すきっかけが欲しかったのだ。
セレーナに会いたい一心で西の離宮に通い続けたが、頑なに心を閉ざしてしまった愛しい人は一度としてその愛らしい姿をライアンに見せてはくれなかった。
自業自得。
あの時の自分を語るならこれ以上に相応しい言葉はないだろう。あの苦しみはすべて自分の愚かさが招いた結果だ。
だが、彼女を諦めるつもりなど毛頭なかった。使用人たちの笑い者になろうが、社交界で後ろ指を指されようが関係ない。セレーナがもう一度笑顔を見せてくれる日まで何年だって通い続ける覚悟でいた。
ライアンにとって、セレーナだけが唯一で生きる理由なのだ。
彼女を想い、過ごしてきた十年を経て結ばれた恋心。懺悔と恋慕が入り乱れて歪んだ感情に、忍び込んだ恐怖。セレーナを手に入れたからこそ、覚えた不安。
もし、彼女が過去を思い出してしまったら?
小さな恐れは瞬く間に大樹へと成長し、ライアンの心を太い根で雁字搦めにした。気がついた時には、あとには引けないところまできてしまっていた。
(ごめんね、セレーナ……)
何度この言葉を唱えただろう。
大切に愛していたいのに、心に巣食った猟奇に取り憑かれ、ひたすらにセレーナの体を貪っていた自分は果たして正常だったのだろうか。
彼女が何に怯え、心を閉ざしていたのかも見えていなかった。セレーナがライアンの前から去った時、ようやくすべてが遅すぎたのだと痛感した。
包み隠さず自分の心をさらけ出すこと。それがセバスの助言から導き出したライアンの答えだった。
今度こそ、愛してもらいたいから。
ライアン・アルフォードという存在をすべて知ってほしい。初めて誰かに強く理解してほしい、求めてほしいと願った。
信じてと言わなければ伝わらない想いで、どうしてセレーナの心が得られるだろう。思えば一度として心で彼女と向き合ったことがなかった。愛の言葉を囁くことで、真実を伝えているつもりになっていたのだ。
そんな愚かな自分に宛てられた、セレーナからの手紙。
『お元気ですか? 毎日たくさんの薔薇と手紙をありがとう。もうすぐ家の中が温室になりそうです。ありがたいけれど、できれば本数を減らしてくれると嬉しい。だってこの匂いに囲まれていると、カントゥルの別邸でのことを思い出すからです』
少し堅苦しい言葉たちで始まった文面。彼女はどんな想いでこの手紙を書いていたのだろう。
(僕も思い出すよ)
セレーナをカントゥルの別邸へ招いたあの日を思い出すと、胸に甘酸っぱい思いが溢れてくる。
嫌だと言いながらも快感に抗えないセレーナの姿に、どれほどの興奮を覚えたことか。あそこでセレーナが気を失っていなかったら、間違いなく自分はセレーナを抱いていた。象牙色の肌に歯を立て、秘めたる部分に己が欲望を突き立てていたに違いない。
蕾を開花させた薔薇のようなセレーナの無垢な色香は芳醇さを増すばかり。抱きしめるたびにその香りに酔いしれ、溺れてしまう。
滾る欲望をもってしても、彼女の艶めかしさには太刀打ちできない。ひとたびあの肌を前にすれば瞬く間に自分はセレーナを快感の扉へ導く従順な下僕と成り下がってしまう。だが、それがひどく心地良いと感じていた。
便箋に付いた折り目と、不自然に走った皺にライアンはまた柔らかい笑みを浮かべた。
あの時、慌てて部屋から飛び出してきたセレーナを見た時、奇跡が起きたと思った。
『あなたとの出会いは物語を読んでいるみたいに素敵だったけれど、ずっと私は不安でした。近づいてもちっとも傍にいる気がしなかったの。私にはあなたの心が見えなかった。フィオナ様とのことも、私との結婚が賭けの対象にされていたという話もうやむやにされて、なのに私を求めるあなたの心が分からなかった。何でもいいから、話して欲しかったの。だって私達、夫婦でしょう? 信じたくても、あの時のあなたは陽炎よりもおぼろげな存在だったわ。でも、全部私のためを思ってのことだったのよね。疑ったりしてごめんなさい』
(違うよ、セレーナ。あなたが謝る必要なんてないんだ。全部僕がいけなかったんだよ)
犯した罪を受け入れる強さがあれば、違う現実があった。過去を打ち明ける機会はいくらでも持てたはずなのに、そうしなかったのはライアンに勇気がなかったから。手に入れた幸せを失うことが怖かったのだ。
沢山ひどいことをしてきたのに、手紙に綴られているセレーナの言葉はどれも優しい。
『ライアンもずっと苦しんでいたのに、あなたの心が見えないことを理由にして、私はそのことに気づこうとしなかった。自分の事だけでいっぱいいっぱいになっていたの。手紙に書かれたあなたの気持ち、味わってきた後悔、私への懺悔。もう十分伝わったわ』
(本当に? 僕の心は余すところなくあなたに伝わったのかな。僕がこんなにもあなたを愛しているということも?)
『……ねぇ、ライアン。いつまで玄関で立ち止まっているつもりなの? いつもの強引さはどうしたの、早くこの部屋まで私を迎えに来て。ちょっとくらい傷つけたからって何よ、ライアンの馬鹿、いくじなし! そんなの私が好きになったライアンじゃない、本当に嫌いになってたら手紙も薔薇も受け取るわけないじゃない。どうしてそれに気づかないの。――気づいてよ。あなたに会い……』
手紙はそこで途切れていた。
読むたびに涙が込み上げてくる。ライアンは急激に熱くなった目頭を指で押さえながら、喉を焼く歓喜に打ち震えた。
セレーナが自分を想ってくれていた。その証を目にすることができた幸運と、セレーナと繋がっていた運命に感謝する。
(もう二度と離さない。嫌がられてもずっと傍にいるよ)
ライアンは震える指先で額をなぞり、手紙に口づけた。
「ライアン、お待たせ。……って、やだ。またそれ見てるのっ!?」
扉から姿を見せたセレーナが手紙の前に立っているライアンを見るや否や、顔を真っ赤にさせて叫んだ。
今日はこれからセレーナにカムエウスの街を案内する約束をしているのだ。
彼女は何か欲しいものがあるらしく、しきりに「街へ出かけたい」とおねだりをしてきた。本当は一日ベッドの中で戯れていたい欲望を抑えて頷いたのが、つい一時間前のことだ。
えんじ色のデイ・ドレスに小さな飾り帽を合わせた姿で恥じらう愛らしさに、ライアンは今すぐ彼女を抱きしめて再びベッドに連れ込みたい衝動に駆られる。
そんな邪心も知らず、セレーナは小走りに走ってきたかと思うと、ライアンを押しのけ飾られた額を外してしまった。
「もうっ、飾らないでって言ってるでしょ! 手紙を額に飾るなんてデリカシーがなさすぎ。ここは美術館じゃないのよ!」
「僕にとっては美術品よりも価値のあるものだよ。それに僕以外、誰も見ないよ」
「そんなわけないじゃない! この部屋を掃除する人全員が見てるの!!」
「だったら隣に僕の手紙を飾ろうか。そうすればどれだけ僕たちが愛し合っているかが皆にも伝わると思うけど」
「駄目! 絶対に駄目っ。これ以上辱めないでっ!!」
憤慨するセレーナもとても可愛い。怒られているのに少しも嫌な気持ちにならないのはなぜだろう。
「そんなことするなら、これは没収!」
「これは僕の宝物だよ。お願いセレーナ、返して?」
「嫌! だってまた飾るんでしょっ」
「だったら使用人達には見ないよう言っておくよ、それでも駄目?」
伺い顔で覗き込めば、つんと尖らした唇が見えた。むくれた表情に「お願い」と畳みかける。
このやり取りも何度しただろう。それでも優しいセレーナは渋々ながらも、毎回こうやって最後には額を返してくれるのだから、これが優しさでなくて何だと言うのか。
「……絶対に見せないでね。飾るなら人目のつかない場所にして」
「もちろんだよ」
あぁ、なんて可愛らしい人だろう。
その願いが叶うことはないことに気づかない、ライアンの可愛い妻。いつだって目に付く場所に飾っておきたい、セレーナに会えない時間も彼女の愛を感じていたい。ライアンはセレーナから得た愛を世界中に知らしめたくてたまらないのに、どうして人目のつかない場所になど飾れるだろう。
午前中ずっと彼女の体を堪能していたにもかかわらず、傍に引き寄せるだけでまた触れ合いたくなるこの衝動は、まぎれもなく愛。
受け取った額を机の引き出しにしまうのを見て、セレーナはようやくむくれた表情を解いた。
「それで。セレーナは何が欲しいの?」
細い腰を引き寄せ、指で顎を撫でて上向かせると「箱よ」と簡素な答えが返ってきた。
「何の箱?」
「宝物をしまう為の箱。少し量が多いから、手頃な大きさの物がないの」
「へぇ、セレーナの宝物って何? 僕が知っている物?」
彼女の持ち物はすべてライアンが厳選した物ばかり。数えきれないほどのプレゼントのどれがセレーナの心に響いたのだろう。
問いかけると、セレーナは悪戯っ子のような顔で笑った。
「それは秘密です」
そう言って、チュッと触れるだけの口づけをくれると、あっさりとライアンの腕の中から出て行ってしまった。
「早く! 急がないと日が暮れちゃうわ」
一足先に部屋を出たセレーナは、わずかに頬を赤らめながらライアンを急かす。
一瞬の口づけにまたひとつセレーナへの愛を募らせたライアンは、その愛らしい姿に破顔した。
「今、行くよ」
僕の可愛いセレーナ、いつまでも僕を虜にさせて。