二者択一
ジャニスは朝、目を覚ますと隣に夫がいないことに安堵の息を吐いた。
今日はゆっくり安眠できたようだ。
寝台に夫がいると、ジャニスの朝は穏やかなものではなくなるのは、夫と一緒に寝始めてから日常のようになってしまっている。これを防ぐ手がまだジャニスにはない。
それでも、昨夜も散々に攻められた身体がまだだるい。さらりとした夜着でゆっくりと身体を起こしたジャニスがひとつ息を吐くと、天蓋の向こう、寝室のドアが勢いよく開いた。
「おはようジャニス! 今日は良い天気だよ!」
ばーんと音を立てて入ってくるのはこの子爵邸の主で夫であるマリス以外にいない。朝からいなくてほっとしていたのに、とジャニスは声だけで顔を顰めた。
音もなく目を覚ましたというのに、この夫はどうしてジャニスが起きたことを知ったのか、不思議で気味が悪くなる。しかしそんなジャニスを気にしないマリスは天蓋のカーテンを開いて、今日もにこやかな曇りない笑顔を見せた。
「ジャニス、今日はお願いがあるんだよ」
「……なんですか」
梳いてもいない乱れたままの髪の毛を直すこともしないで、ジャニスは胡乱な目を向ける。結婚して以来、マリスに振り回されっぱなしのジャニスは、体裁を取り繕うことも綺麗に無くした。何を言って聞かせても、どうせ聞いてくれやしないのだとジャニスは諦めつつある。それでも今日は、事前にジャニスに伺ってくるだけましだ。
しかしその「お願い」に、ジャニスはさらに眉を吊り上げるのだった。
「お膝抱っこと、膝枕、どっちがいいかな?」
「――は!?」
「あ、今日僕の誕生日なんだよね。お祝いは、そのどちらかでお願いね?」
「……え!?」
麗しいという言葉が今日も似合う笑顔の夫を、妻はやはり今日も理解出来なかった。
苦渋の選択というものかもしれない。
ジャニスは突き付けられた二択のどちらかを選ばざるを得なかった。
今日は本当に、マリスの誕生日らしい。夫は今日、十八歳になるようだ。ジャニスにしてみれば、自分の歳になると誕生日なんて喜ぶものでもないが、マリスは何が楽しいのか始終にこやかで嬉しそうだ。
それでも妻として、今日知らされたとはいえ夫に対し何も用意していないわけだし、かと言ってすぐに思いつくものもない。渋面で考えた結果、二択から選ぶしかなかったのだった。
着替えをして髪を整え、化粧もして貴族夫人となったジャニスは、居間のソファに座りスカートの上を均す。
「…………」
すぐ隣で、マリスが目を輝かせて膝の上を見ていた。選んだのは、膝枕である。とてもじゃないが、マリスの膝の上に座るという選択肢は選べなかった。それなら、自分の膝に頭を乗せるほうがましである。
本当に、こんなものの何がいいのか解らない――ジャニスの困惑などまったく気にしないマリスは、今か今かと待っていた。ジャニスの合図を、である。
「……じゃあ……どうぞ?」
「うん!」
子供のように頷いて、マリスは上体を倒してジャニスの膝に頭を乗せる。ぱふっと軽い音を立ててジャニスの膝に落ちた頭は、軽かった。
中身が入っていなかったらどうしよう。ジャニスは不意に過った考えに不安になって、柔らかな金色の髪に触れる。何度か触れたことのある髪は、とても柔らかで指通りが良い。頭を振って確かめたかったのだが、大人しくしているマリスが本当に子供のようで、ついそのまま撫でた。
「……ああ、気持ちいい……幸せだ」
座ったジャニスからは、俯きがちな横顔しか見えないが、マリスの声は本当にうっとりとしていて言葉通りに聞こえる。こんなことで喜ぶなんて、夫はなんて安上がりなのか。ジャニスは思わず顔を綻ばせた。
口元と一緒に、目元も緩む。すると俯きがちになっていたマリスは、何故か目敏くジャニスの変化に気付きぱっと顔を上へ向けた。頭を撫でていた手が浮いて、同時に驚いたジャニスの目が丸くなる。
「ジャニス……」
どうしたのか、と問う前に、マリスが珍しく目を眇める。
「――その顔は反則だ」
「え――っん!」
そして腹筋だけで上体を起こしてジャニスの唇に咬み付いた。
さらに逃げないように首の後ろを支えられて、口付けがはしたない音を立てて深くなっていく。
「んっ、ん、ふぁっあっ、ん」
乱れた呼吸の合間に声が絡む。マリスの口付けは、ジャニスからそんなものも引き出そうとする。しかし今まで大人しくしていたのに、何があって急に襲いかかってくるのか。ジャニスはマリスの肩を必死で押し返す。押し返しても剥がれないのは解っているが、抱き寄せることもジャニスには出来ない。
そうすると、マリスは珍しくジャニスの抵抗を受け入れたように唇を解放した。
ちゅっと音を立てて、マリスの顔が離れる。そしてそのまま、マリスはジャニスの膝の上にもう一度倒れ込んだ。
「マ、マリス?」
「……あああ、もう、今日は大人しくこれだけで我慢するつもりだったのになぁ」
「え?」
俯せにジャニスの膝に顔を埋めて、細い腰に腕を回しぎゅうと力を込める。どういう意味だとジャニスが困惑していると、マリスはしばらく膝の上を堪能したあとで、腕を伸ばしてジャニスのドレスの裾をたくし上げ始めた。
「……っちょ、っと?! 何をするの!?」
「暴れちゃ駄目だよジャニス」
「ばかなこと言わないで!」
こんな時間にこんな場所で、ドレスを乱され直接足を触れられて、大人しくなどしていられない。
「膝枕してくれるって言ったじゃないか」
「……っい、った、けど! いや! 手を入れないで! これは膝枕じゃないでしょ?!」
「膝枕の一環だよ……ああ柔らかい。すごく気持ちいい……」
「…………っ!!」
ジャニスを固定するように腰に腕を回し、もう片方の手を足に絡めるマリスから逃げ場を探してはみるものの、ジャニスは結局動けないことを確認するだけだった。
マリスの手は柔らかな場所を探して、絶えずジャニスの足を撫で続ける。
「嬉しいよジャニス……すごく素敵なお祝いだ。来年もお願いしようかなぁ……」
「……っ!!」
ジャニスの膝の上でうっとりと呟くマリスに、ジャニスは髪が乱れるのも気にならないほど強く首を振る。もちろん横へだ。
絶対にお願いされるものかと、ジャニスは眦を吊り上げて決意した。
こんなことなら、マリスの膝に座ったほうがましだったのでは――ジャニスは激しく後悔するのだが、結果があまり変わらないと気づくのは、来年の誕生日のことだった。