ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

愛妻に優しい枷を

 近頃のエネヴィア共和国元首アルトゥーロ・オルセオロの口癖ときたら、平和の極みと言っていい。
「ルーカはどこだ?」
 隣国との首脳会談を終えて執務室に戻った途端、コルノ帽を脱ぐより先に口にした台詞がそれだ。日はまだ高い位置にあるのに、本日早くも三回目を数える。
 共に部屋を訪れ、外套を受け取ろうとしていた女中頭のアンナは片眉を上げて呆れ顔になったが、外野にどう思われようとアルトゥーロはかまわなかった。
「どこだ。まさかまた炉ではないだろうな」
 気ばかりが急いてそう尋ね直せば、補佐官の机に書類の束を置きながらミケーレが平然と答える。
「そのまさかですよ。会談の最中、国立工房へ向かうと母上づてにお聞きしました」
 やはりだ。国立工房と言えば元首官邸の敷地内に設けられたユアーノビーズ生産の修行場で、つまりは炉である。
 予想通りの、そして最悪の返答を聞き、アルトゥーロは苦々しい気分でため息を漏らす。
「……知っていたなら何故わたしに黙っていた、ミケーレ」
 会談では貿易協定の条件を厳しく提示されて万事休す、私的な立場では妻の制御がきかない、今日は厄日だ。
「会談中に申し上げるわけにはいかないでしょう」
「終わったら即刻伝えろと言っているんだ」
「きちんと予測がついていらしたではないですか。ここを出て奥方様の向かわれる先と言ったら工房しかありませんし、わざわざ問わずともよろしいのに」
 当たり前に言って青紫色の外套を脱ぎ、金の髪を払いながら愉快そうに笑みを浮かべる友を前に、アルトゥーロはコルノ帽を脱ぎながら舌打ちをする。そうして黒檀色の前髪をくしゃくしゃ引っ掻くと、苛立った声で嘆いた。
「認めたくないからわざわざ聞いているのだろうが。誰か、たまには否定してくれ!」
 一国の政治の頂点にありながら妻に振り回されるその姿に、ミケーレとアンナは目を合わせてほほえましげにしたが、アルトゥーロの悩みは切実だった。
 あれほど工房へ行くのは控えろと言ったのに、何故大人しくしていてくれないのか。普段は大概従順なのに、仕事のことになると途端に制御がきかなくなる点はどうにかならないのか。
 工房までの道のり、階段で転んだらどうする? 炉で危険な目にあったらどうする? 万が一重い物でも持ったら――自分ひとりの体ではないのだから、少しは自重してもらいたい。
 そう、ルーカは現在身重なのだ。


 ユアーノ島の解放から一年、穏やかな初夏にまた今年も『海との結婚』の時期がやってくる。祝祭の街が、年間を通してもっとも盛り上がり、もっとも生の喜びを謳歌する季節だ。
 すなわち再婚からちょうど一周年を迎えるオルセオロ夫妻の間には嬉しい変化があった。
 妻の懐妊だ。
 判明したのは五ヶ月ほど前で、現在は七ヶ月目を迎え、出産予定日まであと三ヶ月と迫っている。三十になるアルトゥーロにとっては切望の、待ちに待った第一子なのだ。
「ルーカ! どこだ、ルーカッ」
 がなり声とともに前触れもなく飛び込んできた元首を、工房内の者たちは控えて迎える。二日にいっぺんはこの調子なので、皆、もう慣れたものだ。
 ここ、元首官邸の敷地内に設立された国立ビーズ工房は、中央に太い柱状の炉を有している。その壁面に開いた六つの穴からそれぞれガラス種を掬う仕様になっていて、いちどきに六人が作業できるというわけだ。
 特殊な金型と冷却灰を備えた作業机は壁際にずらりと列になって配され、講師が指導にあたりやすいよう見習いは内向きで座る。実に効率的だ。
 修行中の者、講師としてユアーノ島からやってきている細工師、手伝いとして参加している本島の吹きガラス工房の親方――全員が工房のマークの入れられた皮の前掛け姿で、手にはそれぞれ金型や銅線を握ったまま、アルトゥーロに向かって頭を下げている。しかしルーカの姿は見えない。
 ここではないのか? もしやすでに具合が悪くなって運ばれたのでは……。
 常に炎を絶やさない炉の周囲は四十度を超える猛烈な暑さで、アルトゥーロは吹き出す汗にますます妻の身を案じる。
「ルーカ、返事をしろ!」
「あ、アルトゥーロさまっ」
 再び呼んだところで、奥から二番目の席を覗き込んでいたルーカが満面の笑みで振り返った。豊かな砂金石色の髪は麻ひもで簡単に纏められ、淡い桃色のマタニティドレスに不釣り合いな前掛けをしている。そのうえ右の頬には一文字にススがついていて、炉の前に立ったことは明白だった。
「もう会談はお済みなのですか?」
 とととっ、と駆け寄って来られて、アルトゥーロは蒼白でその動作を制止する。
「走るなっ」
 むしろ動くな。いっそ立つのもやめて欲しい。危なっかしくて生きた心地がしない。
 命じられて即座に立ち止まったルーカはしゅんとして、やや膨らんだお腹の前で手を組み合わせた。
「……アルトゥーロさまは少々神経質すぎます」
「本人が無鉄砲なら周囲が神経質にもなるだろう!」
「周囲、と申しましても、ここまで厳しいのはあなただけなのです。一緒にいるときは階段ひとつ上らせてくださらないし……ひとりで寝起きもさせていただけないし……母さまは逆に、もっと動かないとお腹の子に良くないと言いますのに」
 もごもごと籠った言い訳に一理あることはわかっていたが、アルトゥーロは耳に蓋をして聞かないふりをする。なにしろ心配でいてもたってもいられないのだ。
 いっそ彼女に枷をつけて、環境の整った部屋に閉じ込めて、どんな危険からも遠ざけておきたいくらいに。
「……で、なにをやっているんだ、こんなところで」
「ビーズ作りですけど」
「しれっと言うな。まったくおまえは、いくら調子が良いとはいえ――」
 働きすぎだ。少しは心配するこちらの身にもなってくれ。そうぼやこうとして言葉を切ったのは、ルーカの向こうに見慣れない人物を見たからだった。
 腰から下に大きく広がった薄紫色のドレスに、つけ襟の優雅な胸元、そして美しいブロンドの巻き髪。
 膝を折ってアルトゥーロに対等の挨拶をする年嵩の彼女は、つい先程まで会談を行っていた隣国の首相の夫人だった。
「首相夫人。いつからこちらへ」
 虚をつかれてそれだけ問うと、返されたのは上機嫌な声だった。
「会談は男性同士の場として入れてくださらないでしょう。退屈していたところを、奥方様がこちらへ誘ってくださいまして……いけなかったかしら?」
「いえ、そのようなことは」
 たとえ不本意に思っていても、アルトゥーロはそのように答えるしかない。エネヴィアは海上の小国、そして相手は大陸の大国、立場的にはずっと下なのだ。
 するとなにやらもぞもぞと卓上の冷却灰をまさぐったルーカが、薄汚れた両手を嬉々としてこちらに差し出した。そこには銅線に通ったままの、平たいビーズがのっている。
「あなた、見てください。これは夫人が作られたビーズなんです。黒と金の羽模様、初めてとは思えないほど美しいでしょう」
「夫人が? ここで作業したと言うのか」
「はい。とても器用でいらしたから、失敗もなさりませんでした。これは本国へお戻りの日までにネックレスにしてお渡しすることになっています。きっと素敵に仕上がりますわ」
 会談の間にそのようなことが行われていたとは。驚いて視線を向けると、夫人は照れたようにはにかんで、肩をすくめる。
「ふふ。ルーカ様にお手伝い頂いて、ですけれど、なかなかうまくいったと自分でも思います。とても面白い体験でした」
「それはそれは……お怪我などなさいませんでしたか」
「いいえ、まったく。皆様、身重のルーカ様を気遣うのにとても慣れていらして、わたしにも同様に細心の注意を払ってくださいましたから、難しいことはなにひとつありませんでしたわ」
 見渡せば、工房内の者は遠慮がちに、しかし得意げに笑みを浮かべている。そこには細工師としての誇りが滲み出ているように見える。
 ――皆、ルーカを護ってくれていたのか。
 わたしの目が届かないところで、わたしが不在の場面でも。
 すると夫人は周囲の人々とルーカ、そしてアルトゥーロに順に視線を流し、しみじみと言う。
「おかげで、エネヴィアはすばらしい人材を持つ技術大国なのだとわかりました。資源の少ない島国と聞いていましたから、どのような実態かと疑問にも思っていたのですが……この国では人が資源ですのね。これだけは他国が踏み込んで損なってはいけないものだと、実感しました」
 それはまさにアルトゥーロが懸念し、会談でも相手国の首相に念を押して伝えたことだった。貿易協定を結ぶ際、ここだけは聖域にしてほしいと。結果は、厳しいものだったが。
 どれだけ訴えても伝わらなかったはずのことをさらりと言われ、意表をつかれて返答に詰まる国家元首を余所に、笑顔で答えたのは身重のファースト・レディだ。
「ありがとうございます。ここへ来る前にお聞かせくださった貿易協定の件、見直していただけるように旦那さまへ取り計らっていただければ嬉しく思います」
 アルトゥーロは耳を疑った。何故それをルーカが。
「ええ、必ず。ですからルーカ様はご心配なさらず、どうか元気なお子さんを産んでくださいませね」
「はいっ。教えて頂いた出産時の心得、きっと忘れません」
 交わされる親しげな握手を前にして、アルトゥーロが肝を潰したことは言うまでもない。


「……その、本日は出過ぎた真似をいたしまして、申し訳ありませんでした……」
 その晩、寝台で寝そべるアルトゥーロに近付くルーカはおどおどしていた。炉へ行くな、という言いつけを守らなかったことと、夫の領域である政治に口を出してしまったことを後ろめたく思っているらしい。膨れた腹部を気遣いつつ寝台に上ってきて、恐る恐る、夫の黒い髪をそっと撫でる。
「あの、要らぬお世話かと思いましたが、少しでもお役に立ちたくて……」
「謝るな。怒ってなどいない。むしろ感謝している。まさか、夫人を通して首相の考えを変えようとは」
「感謝? ですが、言いつけを守れませんでした。もう十回目なのです」
「いい。今日だけは、炉へ行ったことは許してやる」
 まったく、ルーカはファースト・レディとして有能すぎる。
 政治のことなどなにもわからない、と言っていた二年前が嘘のようだ。もともと勤勉な性格のため吸収は速いだろうと思ったが、ここ一年で学び、伸ばした知識は数知れない。加えて国立工房で教鞭を執り、自らも生産に携わり、技術革新にも余念がないのだ。
 この賢夫人を国民が熱狂して支持しないわけがない。
 エネヴィアでは近頃、女児に男名『ルーカ』をつけるのが流行しているほどだ。
「アルトゥーロさまはやはりお優しいですね。優しくて、強くて、ご立派な元首です」
 甘く穏やかな声が降ってきて、アルトゥーロは下ろしていた瞼を持ち上げる。こちらを見つめる、緑色の澄んだ瞳と視線がぶつかる。
「おだてても次はないぞ」
「あら。私は事実を申し上げたまでですよ。他国の紛争にも巻き込まれず、国民が平和な日常を送れているのはどなたの功労ですか?」
 有能で、美しく、清らかで、夫を立てる良き妻だ。
 非の打ち所などない。身重でも工房通いをやめない点と、手元に集中するあまり周囲が見えなくなる点、そして我に返った瞬間に繰り出す頭突きを除いては。
「……すべておまえのおかげだ。感謝している」
「また、そういうことをおっしゃって」
「謙遜ではない。事実、わたしはおまえがいたから職務に邁進して来られた。おまえがわたしを、満たし続けてくれたから」
 ただ前だけを向いていられたのだ。
 アルトゥーロは膨れた腹に頬を擦り寄せ、ひとりの男としての幸福を噛み締める。
「無事に産んでくれ。子も、おまえもだ。どちらも欠けたらいけない。絶対だぞ」
 こんなに大切なのに、何の苦労も代わってやれない我が身がもどかしい。悪阻で苦しむルーカを前に、何度自分が引き受けられたらと思ったことか。三ヶ月もすれば命がけで出産に挑むことを考えると、心臓が引き裂かれそうな心地がする。
 はい、と微笑んで応えたルーカは、アルトゥーロの肩に手を置いて言う。
「きっと無事に産みます。この子も、私も。……以前は自分など二の次で良いと思っていたのに、今は誰にも渡したくないんです。誰にも、何も、何ひとつ」
 どこか決意のこめられた声が、とても頼もしく感じられる。
 アルトゥーロは少し笑って、肩の上の手を取ると、一段と火傷痕の増えた指先に、甲に、掌に、ゆったりと唇を押し当てた。労いと、愛情と、それから永遠の誓いを込めて。
「わたしの妻はおまえだけだ。わたしの子の母親もだ。代わりなどいないのだから、心して生活してくれ。頼む」
 愛よりずっと贅沢で清福な言葉を囁けば、手を引かれて、同じように口づけを返される。
「私の夫も、私の子の父親も、アルトゥーロさまおひとりだけですよ」
 たまらなくなって体を起こし、唇を重ねれば、傍らの卓上で蝋燭の炎がゆらと揺れた。ガラス越しの月はとろけ、柔らかく歪んでいる。
 夜警のゴンドラがゆく音。かすかな潮騒。
 祝祭を控えた海上の人工島、エネヴィアの夜はふける。
 塩分の高い羊水に包まれ、水路が脈を巡らせ、少しずつ形を変えて成長し――、いつか生まれ落ちる日を夢見ているかのように。

【了】

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