うたた寝
「まだ寝ていても大丈夫ですよ。お疲れでしょう?」
龍月が目を覚ますと、柔らかく微笑む女が傍に座っていた。
存外深く眠っていたのか瞬間的に混乱し、それが誰なのか思い出せない。
清楚な容貌に柔らかな声。緩やかに纏められた黒髪が白い肌に映えている。大きな瞳は潤んだ様に魅惑的だった。
「どうしました? ……私の顔に何か付いています?」
「いや……」
女は答えない龍月へ心配そうに小首を傾げた。
ぼんやり辺りに視線を巡らせれば、見慣れた室内ではあるが控え目に飾られた花に違和感を覚える。
――あんな物は無かったはずだが。
普段は必要最低限の物しか置いていない殺風景な部屋で、人の気配自体希薄だ。
それが妙な温かみを持って存在している。
他にも其処彼処に己の嗜好とは違う諸々が配置されていた。生活感――安心感とも言えるものが。
例えば女物の櫛や読みかけの本。繕い途中の何かなど。そのどれもが馴染みの無い物だ。
そしてうたた寝をしていたという事実に驚きを禁じ得なかった。
いつもなら浅い眠りを僅かに取れれば良い方で、まして人前で無防備に眠りこけるなど考えられない。他人の気配が有る場所で緊張を解くなどこれまでの龍月には無い事だった。
しかし、今静かに寄り添う女の存在は心地良い。
未だ名前も思い出せないのが不思議だが、言葉にし難い感情が湧き上がって来る。
――ああ、俺はこの女をよく知っている……
「喉が渇いたのですか? お茶でもいれましょうか」
そう言って腰を上げかけた女の腕を慌てて取った。
柔らかな感触と微かに香る花の匂いが安らぎをもたらし、握る手に力が篭る。
「あの……?」
龍月が未だ寝そべったまま相手を見上げれば、女の艶やかな黒髪が眼前に滑り落ちて来た。さらさら揺れるそれは如何にも触り心地が良さそうで、触れたくなるのを耐えていると、女は握られた腕に小さな手を重ねて来た。
「その様に掴まれては、何も出来ません」
「……しなくて良い。傍に、居ろ」
何故そんな事を口にしたのか龍月自身にも分からなかった。他人など煩わしいだけなのに。
だが、一時たりとも離れるのが惜しくて引き留めたいと願っている。
「……何処にも行きませんよ。ずっと一緒だと、約束したじゃありませんか」
困った人だと言わんばかりに女は眉尻を下げ、諭す様に龍月の頬に触れた。その優しい感触が、自分よりもずっと小柄な身体に包み込まれる様な錯覚を引き起こす。
そんな約束をした覚えは無いけれど、安堵する自分自身がいた。そのまま目を閉じて眠ってしまいそうな満足感が胸中に広がり、温かいもので満たされる。
「ああ……そうだったな……」
女の折れそうな細腰に両腕を絡ませ、衝動のままその膝に頭を乗せた。
「龍月さん……?」
張りが有りながら柔らかい腿と、女が龍月の額に掛かる髪を払う指を堪能し、その甲に自らの手を這わせて引き寄せる。
桜貝の様な爪は短く切り揃えられ、清潔感が漂っていた。
それを見詰めている内に不意に湧いた悪戯心から舌先で舐めると、真っ赤になった女が抗議して来た。
「……っ、止めてくださいっ、こんな……昼間から……っ」
「ならば、夜なら良いのか」
「そんな意味じゃ……」
耳まで朱に染めて大きな瞳は恥ずかしげに逸らされたが、拒まれていない事はすぐに分かった。瞳の奥には僅かな期待が揺れている。
それが嬉しくて揺れる黒髪に手を伸ばす。思った通りさらさらと指から逃げつつ、しっとりとした感覚が気持ち良い。
龍月に取り入ろうとする女達とはまるで違い、余計な化粧もしていないせいか白い肌は間近で見ても肌理細やかで美しかった。無性に口付けたくなるが、それをして逃げ出されてはかなわない。
だから不埒な本音に蓋をして、女を拘束する腕に力を込めるに留めた。
「ふふ……大きな子供みたいですね」
気持ちの良い風が、庭から吹いて来る。何処かから聞こえる子供達の歓声が甲高く響いた。追いかけっこでもしているのか、笑い声が途切れる事はない。
それらが心地良く、龍月は再び穏やかな眠りへと落ちそうになる。
最早女が何者かなどどうでも良い。今この瞬間に己の腕の中にあればそれで良かった。
これから先もずっと永遠に―――
「………げつ、龍月」
軽く身体を揺すられる感覚に意識が浮上した。
「……秋彦」
「どうした? お前がうたた寝なんて珍しいな。体調でも悪いのか?」
秋彦は赤茶けた髪を掻き上げながら、人懐こい笑みを零した。
「いや……何か、夢を見ていた気がする……」
ぼんやりする頭を軽く振り、龍月は伏せていた文机から身体を起こした。
いつも通り自室で面倒な書類に目を通していたはずなのに、気付けば四半刻は経過している。
「へぇ? ますます珍しい。天変地異の前触れか?それとも予知夢かな。どんな夢を見たんだ?」
「……覚えていない」
先程まで感触や匂いまで感じていたはずなのに、今はもうその片鱗さえ捕まえられなかった。僅かに黒と白の残像が揺れるのみ。
しかし疼く様な温もりだけが胸に残っている。
「何だよ。でもその様子だと悪夢という訳じゃなかったらしいな」
「……」
鼻腔には微かに甘い花の香。なのに、肝心の内容は全く思い出せない。誰と会ってどんな会話をしたのか。そもそも他人が登場したかどうかさえ酷く曖昧だ。全て覚醒と共に弾けて消えた。
だが無意識に続きを見たいと願っている自分に気付き、自嘲する。
――馬鹿馬鹿しい。ただの、夢だ。
「……それより、何だ。わざわざ呼びに来る用事が有るのだろう」
「海軍中将様がいらしたぞ。流石は軍人、時間には正確だ」
「……もう、そんな時間か」
まだ日は高いはずなのに、急に翳った気がするのは何故なのか。
件の人物は軍部の中枢に居る恰幅の良い中年で、細い目の奥で何を考えているか、いまいち分からない。蛇のように体温を感じさせない冷酷な男。その腹の中はいつも謎だ。
だが、大方効率的に敵を屠る作戦の相談に違いないと当たりを付け、面倒だと嘆息した。
他人がどうなろうと知った事ではないが、あの陰鬱な顔を見ているとこっちまで気が滅入って来る。
それなのにそんな薄暗い場所こそが龍月にとっての日常であり、居場所だった。
「何とも皮肉だなぁ。昨日は信頼する部下が自分を暗殺する計画を御伺いに来ていたなんて、思ってもみないだろうね」
「……俺は聞かれた事に対して見える物を告げるだけだ」
それ以上でも以下でも無い。
慈善事業じゃあるまいし、彼等がどんな末路を辿ろうとどうでも良い。結果が陰惨なものであっても関係ない。
そしてそれは自分自身にも言える。
――早く、終われ
全て、何もかも。消えて無くなれば良い。
いっそ偽りを告げ、この家ごと滅びてしまおうかと思う時も有る。
自分にはそれが可能であるし、護りたいと願う程の思い入れは存在しない。
だが、何かがいつもそれを食い止めた。
あと少し、もう暫く耐えればきっと―――
「……行くか」
先程までの凪いだ心は消え去り、九鬼家当主の仮面を被る。
このまま腐っていくのかと僅かに波立つのは、下らない感傷だ。久方振りに夢など見たから、らしくなく調子が狂う。
目に映るのは、眠るためだけの――それさえ満足には得られない殺風景な部屋。
金をかけた豪華な牢獄。
きっと死ぬ迄此処から逃れる事は叶わない。吐き気のする現実に一瞬だけ眩暈がした。
――せめて、誰か一緒に――
立ち上がった瞬間、目蓋の裏を一瞬掠めたのは、艶やかな長い黒髪だった。