ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

鬼ごっこ

「雨、止まないな…」
 溜息を漏らしながら美濃は空を見上げた。
 宮殿を出た頃は晴れていたのに、今はシトシトと雨が降りだしている。しかも数日前にも降った雨で所々柔らかくなっていた土が、この雨で更にぬかるみを帯びていたようで、途中、そこに足を取られて転んでしまった。
 どうやらその時に捻ってしまったようで、足首に痛みを感じて動けなくなってしまい、近場にあった比較的大きな葉が茂る木の下に座り込み、それから美濃はここでずっと雨宿りをしているのだ。
「……私、何やってるんだろう」
 小さく呟き、血が滲んだ手のひらを見つめてまた息を吐く。
 彼女の服はドロドロに汚れ、頬にも泥が飛び散っている。かなり派手に転んでしまったということは、それだけで充分に想像出来た。
 こうしている間も葉と葉の隙間から雨が少しずつ降り注いでいる。湿り気を帯びた服は徐々に体温を奪い、美濃は震えながらもう一度空を見上げた。雨はまだ止みそうにない。
 そして薄暗い森の中、ぽつんと一人でいることに次第に心細くなり始めた美濃は、不安な面持ちで立ち上がろうとする。
 ──しかし、その直後だった。
 トン…と、小鳥が枝に留まるほどの微かな音が雨に混じって聞こえたのと同時に、向かいの巨木から葉に溜まった雨粒がボタボタと勢いよく音を立てて零れ落ちる。美濃はびくっと身体を震わせ、その様子を視界の端に捉えながら恐る恐る上を見上げた。
「──ッッ!!」
 枝の上に立つ白装束が風で揺れ、紅い双眸がまっすぐに美濃を見下ろしていた。
 もう見つかった。現れた『彼』の姿に愕然としていると、弧を描いた唇は僅かに動き、何かを呟く。
「……じゅうきゅう……、きゅう……、……いち……──」
 微かに届いた声にハッとした美濃は、痛む足を引きずりながら走り出した。どくんどくんと激しく鳴り響く自分の心臓の音にせき立てられる。今はこの場から逃げることだけを考えなければと。
「…きゅう……ご…、………、じゅうろく………」
 声は更に近くなる。
 追いかける足音は聞こえてこないというのに、声は美濃の背後に迫っていた。
「……きゅうじゅうなな……、さんびゃくきゅうじゅう、はち………」
 次第にその声が何を呟いているのかが分かり、美濃は唇を噛み締める。
 数を数えて遊んでいるのだ。愉しそうに、歌を口ずさむように。
「はぁっ、…はあっ、はあっ、はあっ…ッ、は…ッ、……あっ!!」
 その時、またしてもぬかるみが美濃の行く手を阻む。足裏がずるっと滑って上半身が大きくぐらついた。
「……さんびゃくきゅうじゅう、きゅう…、……」
 バランスを失った身体は、立て直す間もなく倒れかかる。
 声は尚も近づき、バシャ…、と、すぐ後ろで大きな足音が響き渡った。美濃はその音を耳にしながら、自分の身体が地面に叩き付けられる瞬間を想像して目を瞑った。
 しかし、倒れ込む寸前のところで強い力に引っ張られ、美濃の身体はふわりと宙を舞う。
「……──よんひゃく…」
 吐息とともに耳元で低い声が囁く。
「……あ、…っ」
 美濃は一瞬のうちにその大きな腕の中に閉じ込められてしまったことを知り、がくがくと身体を震わせた。
 先ほど捻った足首がやけに痛む。まるでそこが心臓になってしまったかのようにどくどくと脈打ち、熱を孕んでいるようだった。
 顔を歪ませて痛みに堪えていると身体の向きを変えられて、正面から向かい合うように抱きかかえられる。真紅の瞳と視線が合い、僅かにそれが冷酷に細められたのを見て美濃は恐怖で身を縮ませた。
「……っ、…い、いや…、ひどいこと、…しないで。…多摩、…多摩っ」
 彼の名を何度も呼びながら首を振って身体を捻る。
 言葉とは裏腹に逃れようとするその動きは、無意識によるものだった。
 多摩はその仕草に片眉をぴくりと震わせて苛立ちを見せ、抱きしめる腕に力を込める。
「その足でまだ俺から逃げられると思っているのか?」
 右足首に腕が伸び、僅かに腫れている様子を確認するために多摩の指先がそっと触れた。
「…んっ」
 小さく声を上げ、肩を震わせる。
 多摩は薄く笑いを浮かべて美濃の首筋に唇を寄せた。
「やはりおまえは鬼ごっこが下手だ。……宮殿で百、追いかけながら四百数えただけで俺の腕の中に逆戻りだ」
「……、ん、……やっ」
「…そのうえ、この短時間で全身泥まみれになり所々擦り傷まで出来ている。……身体も、やけに冷たい」
「…ッ、……んっ」
「……二人くらい入れそうな木の窪みをそこで見つけた。多少はこの雨風も凌げるだろう。……次からは雨宿りするなら、そういう場所に身を隠すんだな」
 このまま宮殿に戻るわけではないのか、耳元でそう囁くと、多摩は美濃を抱えて歩き出す。
 追いかける間も多摩にはそんなものを見つける余裕があったことが悔しくて、美濃は彼をキッと睨んだ。
 しかし、彼の白装束が美濃の泥で汚れ、その艶やかな黒髪も雨に濡れて雫が滴り肌を濡らしていることに気づいて思わず息をのむ。よく見ると真紅の瞳を縁取る長い睫毛もしっとりと濡れていて、瞬きをすると時折涙のように雫が頬に伝う様子に一瞬で目を奪われてしまう。
 不意に多摩と目が合い我に返ったが、普段よりも強く感じる多摩の色気と瞳の奥に潜む情欲に、この先で彼が何をするつもりでいるのかが分かってしまい、美濃は唇を噛み締めて小さく震えた。


 ──巨木が立ち並ぶ一角で、雨音に紛れて微かに声が響き渡る。
 それは先ほど多摩が美濃を抱えて入った、一際大きな巨木の窪みから響き続ける美濃の声に他ならなかった。彼女は左右の太ももを抱えられて強引に多摩の上に跨がされたまま、随分長い時間をかけて彼の好きなように揺さぶられ続けていた。
「………あっ、…あぅ…、……っ」
 ただ彼にしがみつくことしか出来ない体勢で、美濃は眉を寄せて声を上げた。
 木の窪みに身を隠した直後に始まった愛撫ですぐに身体は熱を帯び、呆気なく陥落してからどれだけ経ったのか…。いつものことながら、本当にこの身体は簡単だと頭の片隅で自分を嗤った。
 ぐじゅ、と結合した場所から聞こえる淫らな音に唇を噛み締めると、多摩の舌先がその唇を突いた。反射的に開いた隙間に滑り込まれた彼の舌は好きなように咥内を蹂躙し、貪るように口を塞ぐ。
「ん、…んぅ、………っ、ふぅ……」
「……俺の知らぬ間に、勝手に傷を作るな」
 責めるように言いながら、多摩は擦りむいた美濃の腕に唇を寄せる。
 先ほども血の滲んだ手のひらを同じようにされたが、その甘やかな唇と舌の動きは決して痛みを与えようとするものではなく、気遣う様子さえうかがわせるものだった。
 時折見せるこの優しさは美濃を混乱させる。触れるなら身も心も滅茶苦茶にして欲しかった。
 今日に至っては彼から逃げたのだから、もっと酷くされても不思議はない。それなのに、多摩はもどかしいほどの動きで美濃に甘い快感を与え続けるだけで、激しく組み敷こうとはしないのだ。
「…、あ、…あっ、……あ、…ああっ」
 堪えきれず、動かせる範囲で自分の腰を少し揺らしてしまう。けれど、余計にもどかしくなり、美濃は首を振って多摩に目で訴えた。
 快楽に弱い身体は、火がついたらのぼり詰めるまで彼を求め続ける。
 そうなるよう、長い時間をかけて彼に躾けられたのだ。
「……激しくすれば傷に響くぞ。それでもいいのか?」
「はっ、…あっ、あぅ…、多摩…、多摩…っ」
 既に怪我のことなど頭の片隅にもなかった。何を言われているのかも分からなくなり、夢中で頷く。
 耳元で多摩が小さく笑ったのが聞こえた。
「駄目だ…、俺を貪欲にのみこんで悶え続けろ」
「…やあっ、…っああぅ…っ」
「雨が上がるまでこのままだ」
「……っ」
 涙が零れる。雨足は強くなるばかりで止みそうもなかった。
 もしかしたら今日はこうすることがお仕置きなのかもしれない。ほんの少しだけ冷静になった頭の隅でそう考え、先ほどからはしたなく喘ぎ続ける自分を軽蔑する。
 ──だけどいやだ……。こんなお仕置きはいやだ。……だって、多摩が…、多摩の触れる手が今日はやけに優しい。……そんなのは、いやだ。
 何故か今日に限って、単に意地悪をされているだけではないように思えて嫌なのだ。
 両足を抱えられているのは痛む足が地面に着かないようにするため、激しくしないのは傷に響くから、彼の足下に泥が多く跳ねているのは美濃が転倒する前に地面に降りて助けようとしたせい……なぜそんなふうに思ってしまうのか。そんなはずはない。全て気のせいだ。
 いやだ、こんなのはいやだ。酷くしてほしい、何もかも分からなくなるくらい激しくしてくれないと余計なことを考えてしまう。
 揺さぶられるたびに身悶える自分にまた追いつめられ、助けを求めるように手を伸ばすと柔らかな彼の唇がそっと美濃に触れる。
「……美濃、このまま雨が止むことなく降り続ければ、俺たちはここで朽ちるまで抱き合うのかもしれぬな」
 多摩は薄暗い木の窪みから空を見上げ、吐息を漏らすように囁いた。
「…あっ、……あ、…っ、…あぅ…っ」
 一体いつまで続くのだろう。
 逃げれば追いかける。追いかけたら捕まえる。もうずっと同じことが二人の間で繰り返されている。
 分かっていても美濃は逃げる足を止めることは出来なかったし、多摩は追いかける足を止める気も無かった。
「………傍にいれば怪我などさせぬものを」
 多摩は美濃の腫れた足に視線を落とすと溜息と共に小さく呟く。
 しかしその声はあまりにも小さく、激しい雨音にかき消されて美濃の耳に届くことはなかった。

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