あの日の約束
「約束を果たしに行こう」
夕食の席で、カリーファが言った。
ここ数日、すれ違ってばかりの生活だったので、カリーファがライラと同じ時間に夕食をとることが随分久しぶりなことに思えた。
ようやく顔を見れたと思った矢先の唐突な誘い。瞬けば「忘れたのか?」とカリーファは優しい表情で目を細めた。
「あ……いいえ、決してそのようなことは。――でも、よろしいのですか? 政務がお忙しいのでしょう」
解毒薬の副作用から回復したカリーファは、周囲が目を見張るほど精力的に政務をこなしていた。くだんの後処理も彼を激務に追い込んだ理由のひとつであり、それが双子の妹マレイカのせいだという後ろめたさがあるから、どれだけ淋しくても不満を口にすることはできない。そう思っていた。今、彼が優先させるべきことは国政であり民であって、ライラではないのだ。
それに急がなくても満天の星空は逃げない。ライラの今の願いは、カリーファの休息だった。
躊躇うと、カリーファは「いいんだ」と苦笑した。
「アミナ、支度はできているな」
「はい」
アミナの口ぶりは事前にそれを聞かされているものだった。カリーファは鷹揚に頷き、まだ戸惑い顔のライラを見た。
「決まりだ、明日出発しよう」
こうして、ライラの初めての旅行が決まった。
(これが砂漠なのね、なんて美しいの)
砂丘の側面からゆらゆらと立ち上がった砂が、茜色の空へ流れて行く。まるで煙のようだ、とライラは思った。地上のすべての光を引き連れて太陽が地平線に隠れると、空を染めていた光の残滓は、緩やかにインディゴの夜空へと滲んで消えた。
初めて目にした砂漠の広大な景色に、ライラは息をするのも忘れて見入っていた。
カリーファの操るラクダに乗り、オアシス沿いに建てられた天幕に到着したのは、太陽が斜めに傾き始めた頃だった。その後こうしてオアシスの傍でカリーファと一緒に夕暮れの空を見ている。
ライラはそっとカリーファを見遣った。今朝、見送りに出ていた宰相の仏頂面は暗にライラを責めていて、カリーファが強引にこの時間を作ってくれたことを知った。
(ご無理をさせてしまったのね……)
申しわけない気持ちの反面、いけないと思いつつもライラを優先してくれたことに歓びを感じていた。
「美しいな」
手を繋いで沈む太陽を眺めていたカリーファがぽつりと呟いた。
「やっとお前と見ることができた。十年もかかってしまって、すまなかったな。……ライラには、他にもたくさん詫びなければいけないことがある。呪詛のことも、地下室でのことも」
「陛下、もうよいのです」
すべて終わったこと。そう片付けるのは早計かもしれないが、今が幸せだからそれでいいとライラは思っていた。カリーファは命を賭けて呪詛から救ってくれただけでなく、ライラを愛してくれた。
「陛下と出会わなければ私は一生この景色を見ることはありませんでしたし、人を愛する歓びも知らずにいたはずです。道のりは決して優しくはなかったですが、こうしてお傍においてくださるご慈悲をいただけるだけで、それだけで……よいのです」
握り合った手にキュッと力を込めて感謝と彼への愛を示した。カリーファは滲み笑うと、触れるだけの口づけをくれた。
「あまり可愛いことを言うな、この場で抱きたくなるだろ」
「――っ! 駄目ですよ、人の目がありますっ! それにまたアミナに叱られてしまいますっ」
「気にするな」
「いけませんっ、お放しください、陛下! どこに手を――あっ!」
ライラの腰を攫おうとする腕に抗った拍子に、砂に足を取られた。グラリ…と体が傾いだ直後、
「ライラ!」
バシャンーーッ!!
派手な水しぶきを上げて、二人一緒にオアシスへ落ちた。咄嗟にカリーファがライラを庇ってくれたが、そのせいで彼を下敷きにしてしまったのだ。尻もちをついた体勢のカリーファは当然ずぶ濡れで、胸の辺りまで水に浸かっている。
「へ、陛下! 大丈夫でございますかっ!? も……申しわけございませんっ!」
体を跨ぐような恰好になっていることに慌てふためき、ライラは慌ててそこから飛び降りた。
「あの、まさか落ちるとは思わなくて、それでその……っ、本当にごめんなさいっ!」
俯いているせいで、カリーファが今どんな表情をしているかは分からない。よほど腹立たしいのか、カリーファの肩が小刻みに震え始めた。が、次の瞬間。
「ふ、ははははっ!!」
カリーファが弾けるような笑い声を上げたのだ。
「――え」
てっきり罵声が飛んでくるものだと覚悟していたライラは、子供のような無垢な笑顔に呆気にとられた。
「へい、か?」
こわごわ呼びかけると、カリーファは大丈夫だと首を振った。
「平気だ。それよりもお前は大事ないか? どこかぶつけたりしなかっただろうな」
「私はどこも」
「そうか。……くっ、しかしとんでもない誕生日だな。まさかオアシスに落とされるとは」
クツクツと楽しそうにカリーファは笑ったが、彼の発した意外な単語にライラは目を丸くした。
「たん……じょう、日? 今日は陛下のお誕生日だったのですかっ?」
「何を言っている。本当に自分のことには関心がないのだな。今日はライラの誕生日だろ」
「え、あ……れ?」
カリーファはやれやれと微笑とも苦笑とも取れる曖昧な笑みを浮かべて、もう一度ライラを体の上に上げた。昼間の熱がまだ大気に残っているせいか、水に濡れてもちっとも寒くなかった。
「やっぱり忘れていたな。アミナから聞かされなかったらあやうく祝い損ねるところだったぞ。お前は俺を恋人の誕生日も祝えない最低男にさせるつもりか?」
「そ、そんなことはっ。ですが、だって」
思ってもいなかった展開と恋人という言葉に狼狽すると、カリーファはことさら優しい声音でライラを呼んだ。動揺に揺れる瑠璃色の目をのぞき込んで破顔する。
「誕生日おめでとう、ライラ。この世に生まれてきてくれて、ありがとう」
「へ……か」
「こんな俺を許してくれただけでなく、愛してくれてありがとう。お前のためならどんな努力も厭わない、改めて誓わせてくれ。俺は一生ライラだけを愛していく。だからライラはできるだけ俺の傍で笑っていてくれないか」
言って、カリーファがあやすようにライラの体を揺すった。
「お前の喜ぶ顔が見たくて、この数日頑張ったんだぞ。なぁ、笑ってくれよ」
「陛下……」
感動で涙が溢れてきた。
「――会えなくて、淋しくなかったか?」
問いかけて、カリーファがコツンと額を合わせてきた。
「淋しかったと言ってくれないか。ライラの心が俺でいっぱいだったことを教えてくれ」
少しだけ甘えた口調に、胸がキュンとなった。こんな甘美な幸福をもらってもいいのだろうか。
こみ上げる気持ちを言葉にするのももどかしくて、気がつけば自らカリーファの唇に口づけていた。
「淋しかった……っ、本当はずっと陛下とこうしたくてたまらなかった」
唇を啄み、想いを告げる。
「嬉しい、……ありがとうございます。陛下」
「ライラ、煽るな。夜まで待てなくなる」
「待たないで」
ライラは離れた唇を追いかけて、また唇を重ねた。カリーファの首に腕を絡ませ、体を密着させて彼の愛を求めた。
「私を……愛してください」
今すぐ、カリーファを感じたいから。もう一秒だって待てやしない。
ライラの大胆なお願いに、一瞬秀麗な美貌が驚愕に染まった。色違いの双眸に劣情の焔が灯れば、それは最高に淫らな時間の始まりを意味する。
いつの間にか夜空には無数の星が瞬いている。満天の星空の下で、ライラ達は互いを求め合う。水面に映った満月が二人の生む波紋に揺れた。