ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

帰省

「お嬢様! ご無事で!」
「お帰りなさいませ。シルフィスお嬢様」
「皆……心配かけてごめんなさい」
一年ぶりに戻ったコリンソン邸の玄関前で、馴染みのある使用人たちに出迎えられたシルフィスは、震える声で言った。涙が出そうだった。
そのシルフィスの肩をアルベルトの手がそっと包む。そのぬくもりに力を得たシルフィスは、涙をこらえ、顔をあげて言った。
「トマスをはじめ、皆にも迷惑をかけました。ごめんなさい。それから……ありがとう」
 ロッシェがシルフィスの後見人として管理はしていたが、四六時中この館に出向いていたわけではないだろう。彼にはレフォール伯爵として統治すべき領地と領民がいる。なのにこの館が何の問題もなく運営されているのは、古くから仕えてくれていた彼らが頑張ってくれていたおかげだ。
「いいえ。家族を亡くされて辛い思いをしているお嬢様を支えて差し上げられなかったのは、私の不徳の致すところです」
 家令であるトマスが目を潤ませながら言った。
 トマスは初老の男性で、古くからコリンソン家に仕えてくれている、彼女にとってはいわば第二の父親のような存在だ。一年の半分は王都の別宅に滞在して留守がちだったシルフィスの両親に代わってこの屋敷を取りまとめ、レオノーラとシルフィスの成長を見守ってくれていた、コリンソンにとってはなくてはならない存在だ。彼と、それにロッシェがいれば領地のことは問題ないと思ったからこそ、シルフィスはこの土地を離れる決心ができたのだ。
 シルフィスは静かに首を振った。
「いいえ。お父様たちを失って悲しんでいたのは、皆も同じです。それなのに私は自分の悲しみや苦しみのことしか考えられなかった。そんな私が領地を治めることを皆が不安に思って当然です」
「いいえ、違います!」
 トマスとその横に控えていた侍女頭が弾かれたように顔をあげた。
「私たちが」
 だが何か言いかけたその言葉を遮ったのはアルベルトだった。シルフィスの肩に手を回したまま淡々と告げる。
「積もる話はあろうが、ここでする必要はないだろう」
 その言葉でトマスはここが玄関先であることを思い出したらしい。いつも落ち着いた彼には珍しく、慌てたように頭を下げて言った。
「申し訳ありません。さ、どうぞお入りください」

 それからしばらくの後、シルフィスとアルベルトは彼女の私室に並んで立っていた。
 アルベルトにはこの屋敷の中で一番立派な客室が用意されていたのだが、その部屋に入ることはなく、一年ぶりに私室に戻ろうとする彼女の傍を離れなかった。
 シルフィスは一年前――出奔した時と何一つ変わってないままの、白の地に金色の装飾がほどこされた部屋を目を細めて眺める。そんな彼女にアルベルトは尋ねた。
「懐かしいか?」
 シルフィスはその言葉に少しの間考えてから静かにうなずいた。
 懐かしい。その言葉は間違いではない。だがシルフィスのこの部屋に対する想いはもっと複雑だ。彼女にとってここは何も知らずにただ周囲に守られていた少女時代の象徴でもあり、けれど同時にアルベルトとレオノーラとの婚約を聞かされて泣き暮らした場所でもあった。最後にレオノーラの声を聞いたのもこの部屋だ。悲しくもあり、懐かしくもあり、そして愛おしくもある場所だった。
 シルフィスは傍らのアルベルトを見上げ、微笑んで言った。
「アルベルト様、私のわがままを聞いてコリンソン邸に連れてきてくださってありがとうございました」
 アルベルトはコリンソン邸への帰省にいい顔はしなかったのだが、シルフィスがどうしてもと願って連れてきてもらったのだ。
 コリンソンはロッシェとトマスの二人がいれば問題ないと分かっていたものの、アルベルトと結婚する前にどうしてもこの目で確認したかった。それがせめてものけじめだ。
「気は済んだのか?」
「はい」
 古くから仕えてくれている使用人たちにも会って詫びることもできた。こんな自分を皆が変わらず大切に思ってくれていたことも分かった。もう満足だ。それに……。
「それに……ここに来て分かったことがもう一つあります。私はすでにディーステル邸を我が家だと思っているのです」
 懐かしい自分の部屋。けれど、どこか妙によそよそしさを感じてしまうのは、一年間も離れていたからというだけではなくて、もうすでにアルベルトがシルフィスのために作ってくれたディーステル邸のあの部屋が、自分の部屋だと感じているからだろう。侍女のファナが待ってくれているあの部屋が今の自分の居場所だ。
「ああ、そうだ。君の家はもうここではない」
 アルベルトがうっすら微笑みながらシルフィスの頬を両手で挟み込んだ。
「君のいるべき場所は私の隣だ」
「アルベルト様……」
 落ちてくる唇に胸を高鳴らせながらシルフィスは目を閉じた。
 初めはやさしく触れるだけだったその口づけが、やがて深いものになる。だが夢中になって応えていたシルフィスの耳に、不意にその音は飛び込んできた。
「シルフィスお嬢様」
 ノックと共に扉の外から呼びかける声が聞こえ、ハッとする。アルベルトが顔をあげて扉に目を向けた。
「トマスか。何用だ?」
「は、はい。ロッシェ様がいらっしゃいましたので、お知らせを……」
「ロッシェお兄様が?」
 シルフィスは慌てた。彼女の帰省に合わせてロッシェもコリンソン邸に来ることになっているのだが、こんなに早いとは思っていなかったのだ。
「私ったらお出迎えもしないで……。すぐに行きます!」
 アルベルトと婚約をしてコリンソン邸から離れていたとはいえ、この家の主はシルフィスだ。相手が親戚で後見人であっても身分の高い客人には出迎えて挨拶を交わすのが礼儀だ。
「先に行け。私は後から行く」
 アルベルトが扉を開けてシルフィスを通しながら言った。
「はい。ではお先に失礼します」
 シルフィスはアルベルトに微笑むと、ロッシェを出迎えるべく玄関ホールに向かって歩き始めた。
 コリンソン邸の見慣れた廊下を進むシルフィスの足取りは軽い。ちょうど一年前、同じ廊下を罪の意識と悲しみと苦しみを抱えて逃げ出すために歩いていた少女はもういない。いるのはアルベルトの隣を自分の居場所と定めた一人の女だ。
 シルフィスは階段を下りながらそっと笑みをこぼした。
 逃げるように屋敷から離れた一年前とは違って、今度こそは笑顔でこのコリンソン邸を後にするだろうと思いながら。
 
 ***
 
「トマス。言いたいことがあるなら言え」
 アルベルトはシルフィスの部屋の外で何か言いたそうに留まっていた初老の家令に声をかけた。トマスは逡巡したあと、小さな声で尋ねた。
「もうシルフィスお嬢様はここへは戻ってこられないのですか……? コリンソン家は主なしでやっていかなければ……?」
 アルベルトは目を細めて冷淡に告げた。
「そのことについては一年前にも申し渡しているはずだ。この領地のことはロッシェとお前が相談して決めろと。約定に従ってシルフィスの身柄はディーステル家が引き受けると」
「それは……」
 トマスはそっと目を伏せながら、一年前故コリンソン伯爵たちの葬儀の後、女中頭や執事と共にアルベルトに呼ばれて申しつけられたことを思い出していた。
『シルフィスがコリンソン家の家督を継ぐことはない。婿を取ることもあり得ない。私が許さない。彼女はディーステル家のものだ。そのつもりでいろ』
 強い執着を滲ませた言葉に彼らは身を竦ませた。レオノーラを選んだとされるディーステル伯爵。けれど、トマスをはじめとして誰もそれを本当だと思っていなかった。コリンソン伯爵が都にいる間、留守宅を預かるシルフィスへのアルベルトの細やかな配慮を知っていたからだ。だが主であるコリンソン伯爵に逆らうことはできず、そのことに目を瞑ってしまった。その結果がこれだ。
 シルフィスが出奔した後も、彼らは何もできず、させてもらえず、蚊帳の外に置かれた。こうしてシルフィスは静かに確実にコリンソン家から引き離されていったのだ。
「里帰りくらいは許そう。だが、そこまでだ。彼女は私とディーステル家のことだけを考えていればいい」
「ディーステル伯爵様……」
「お前たちはロッシェと協議をしながら引き続きこの領地の運営にあたれ」
「……はい」
 アルベルトはそう言い渡すと廊下を歩き始めた。だが、数メートル行ったところでふと足を止めた。
「……いつか私とシルフィスの子供がコリンソンの名を継ぐことになるだろう。主は戻ってくる。だからそれまでここを頼む」
 アルベルトは振り返ることなくそう言うと、再び歩き出した。トマスはその背中に頭を深く下げる。
「承知いたしました。命に代えてもお守りします」
 やがてアルベルトの姿が廊下の向こうに消えると、トマスは顔をあげて窓から外を見た。そこには、屋敷をぐるりと囲むようにシルフィスの愛した林が広がっていた。
 あの林にも、いつしか元気な子供の声と足音が戻ってくるだろう。
 トマスは眩しそうに目を細めて、この屋敷に再び主が戻るその時に思いを馳せた。

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