兄と弟
「やあ、マヴロス。準備は終わったのかい?」
レヴァンが城を出て行く前日。
ノックもなしに部屋に入って来たセドリックに、レヴァンは冷たい視線を向ける。
「出て行け」
退室を促しているというのに、セドリックはにこやかに見つめ返してきた。さらに悠々とソファーに腰を下ろし、大げさな動作で足を組む。
「今日までは僕は君の兄だろう。冷たいことを言わないで欲しいな」
「出て行け」
繰り返すレヴァンの言葉を無視して、セドリックは、はあ…とわざとらしく溜め息を吐き出した。
「君はさあ、イチャイチャする時も仮面をつけているわけ?」
「お前の気配がしたからつけたんだ」
レヴァンはぎろりとセドリックを睨む。早く出て行け、となおも視線で訴えるが、セドリックは出て行く気がないどころか、居座る気満々の様子で微笑んだ。レヴァンは小さく舌打ちすると、腕の中で固まっているフィリナと視線を合わせ、頬を優しく撫でた。
「で、それはどんな趣向なのかな? ご主人様と侍女の禁断の愛ごっこ?」
突然の訪問者に驚き、硬直しているフィリナを見て、セドリックが呆れたように笑う。レヴァンはそれを怪訝に思いながら、あらためてフィリナの格好を見下ろした。
数時間前、引っ越しの手伝いに来てくれたフィリナに、荷物は既に運び終わったと伝えると、彼女は、目立たないように侍女服を持ってきたのに……と肩を落とした。王宮の人間に、第三王子のマヴロスと公爵令嬢のフィリナが一緒にいる、という認識を持たれないための彼女の気遣いなのだと分かったから、その気持ちを無駄にしないため、レヴァンは、後片付けがあるからと理由をつけて、フィリナに侍女服を着てもらうことにした。
先日の古城での一件は、セドリックが事実を捻じ曲げて秘密裏に処理をした。だからマヴロスとフィリナの関係は表には漏れていない。
明日から新しく生まれ変わる“レヴァン”の妻になる彼女が、第三王子との関係を疑われては、“レヴァン”が“マヴロス”だと気づく人間が出て来るかもしれないのだ。それはできるだけ避けたかった。
だから今彼女が、紺色の地味な侍女服を着ているのは、決して、ごっこ遊びのためではない。こうして二人でソファーに座って寄り添っているだけだとしても、特別な趣向の類ではないのだ。どんな服を着ても可愛いフィリナを見ていたら、少しだけ、フィリナがもし自分の侍女だったら、毎日様々な場所であれこれできたな……と考えてしまい、無性に押し倒したい衝動に駆られただけだ。
そして、状況をまったく理解していない無防備なフィリナを抱き締め、いざ事を進めようとしたところに、セドリックが乱入してきたのである。
「セドリック殿下、あの…」
セドリックに揶揄されたフィリナは顔を真っ赤にして立ち上がり、紺色のスカートの裾を摘んだ。自分から離れ、他の男を見るフィリナにレヴァンは不満の眼差しを向ける。それを見たセドリックは、小さく笑って手を振った。
「挨拶はいいよ、フィリナ嬢。僕は引っ越しの手伝いに来ただけだし、こっそり抜け出すんだから、人手が足りないだろう? 荷造りはまだ終わっていないのかい?」
以前と特に変化のない部屋をぐるりと見回して、セドリックは首を傾げた。小さく頭を下げて座り直したフィリナは、ちらりとレヴァンを見て答える。
「私も、お手伝いをしようと思って来たのですけど、もう終わったみたいで……。今から後片付けをしようと思っていたのです」
「え? 何も持って行ってないじゃないか」
目を丸くするセドリックに、レヴァンは小さく首を振る。
物欲がないレヴァンの私物は少ない。王子として必要最低限のものはいつもいつの間にか部屋に置いてあったので、何かを欲し、買い揃えようと思ったことはない。レヴァンの荷物といえば、フィリナにもらったものくらいなのだ。それを袋に詰めただけなので、引っ越し準備をしたという実感はあまりない。明日はそれだけを持って、あちらの家に向かう予定だ。
「生活に必要なものはあちらで用意してくれているから、あとは勝手に始末してくれ」
だからさっさとこの部屋から出て行け、とレヴァンは顎で扉を示した。それを見なかったことにするつもりなのか、セドリックは王子らしい完璧な笑みを浮かべて、大きく手を打った。
「そうだ。君に何か贈ろう。うんうん、それがいい。何か欲しいものはないかい? 遠慮せずに何でも言っていいんだよ? たとえば、城とか」
「いらん」
「僕の側近の地位とか」
「断固拒否する」
「王位とか」
一番必要がない、とレヴァンはセドリックを睨んだ。その視線を平然と受け止めたセドリックは、大きく両手を広げて見せる。
「君は欲がないねぇ……。マティアスなら調子にのって、“一生高い酒が飲める権利”とか言いそうなのになぁ。あ、そうだ。僕にももう素顔を見せてくれてもいいだろう?」
「嫌だ」
即答するレヴァンに、セドリックは不満そうに溜め息を吐き出す。
「どうせ明日から仮面を外すっていうのに、どうして君は頑なに素顔を見せないのかな?」
「今日までは俺はマヴロスだからな。王との約束は今日まで有効だと思っている」
「君は意外と頭が固いねぇ。マティアスはそうでもなかったんだけど……ああ、でも、君の叔父さんも頭が固いか」
セドリックは苦笑しながら、背もたれに体を預けた。
「ハルは本当に生真面目だよ。僕の護衛になって欲しいって頼んだのに、無下に断ったんだよ」
「当たり前だ。ハルとお前は合わない」
レヴァンがきっぱりと断言すると、セドリックは声をあげて笑う。
「そうそう。彼もそう言ったんだ。僕とは反りが合わないって。それに、今まで不自由を強いられた君が幸せになるのを見届けるまでは君から離れないってさ。頑固だよねぇ。マティアスよりも、ハルと君のほうが親子みたいに似ているよ」
「…………」
実はレヴァンも密かにそう思っていた。セドリックが語る父と自分には、あまり共通点がないと以前から思っていたのだ。父と似ているのは顔だけで、性格は叔父であるハルに似ている気がしていた。レヴァンには機知に富む会話はできないし、大声で笑うこともできない。人を笑わせることを得意としていたらしい父には、似ても似つかない性格である。ハルが父親だと言われたほうが納得できる。
レヴァンがそんなことを考えているのに気づいたのか、身を乗り出したセドリックが、声をひそめて言う。
「もしかして、君の本当の父親ってハルなんじゃないかい?」
「有り得ません」
間髪入れずにセドリックの言葉を否定したのは、どこからか現れたハルだった。黒一色の服装で目元以外を覆っている彼は、じろりとセドリックを睨み、
「いい加減なことばかりを言っていると、あなたの悪事をすべて王に話してしまいますよ」
と抑揚のない口調で言って、あっという間に姿を消した。
「…………悪事」
「…………悪事?」
ぽつりと呟くレヴァンとフィリナに、セドリックは何事もなかったようににっこりと微笑んで口を開く。
「マヴロスがここを出て行ったら、君たちはすぐに婚約する予定なんだろう?」
ハルの言葉が気になって仕方がなさそうなフィリナだったが、セドリックがなかったことにするつもりなら蒸し返さないほうがいいと判断したらしく、素直に頷いて見せた。そんなフィリナが可愛いので、レヴァンも敢えて聞かなかったことにする。
「はい、その予定です。祖父母も父母もとても喜んでくれています。けど……弟が口をきいてくれなくなりました」
悲しげに俯くフィリナの頭に、レヴァンは頬を寄せる。心の中では、『他の男のことで落ち込むな』と思っているが、それを表には出さない。しかしセドリックはレヴァンのそんな気持ちが手に取るように分かるらしい。彼は何度も頷いた。
「大好きなフィリナ嬢を奪われるんだ。弟も寂しいのさ。フィリナ嬢も、大好きな弟が結婚することになったら寂しいだろう?」
“大好きな弟”を強調しているあたりが、セドリックの意地の悪さをあらわしている。フィリナが自分以外にそんな感情を持っているのだと思うと、レヴァンの心は穏やかではない。
フィリナはレヴァンの波立つ心情に気づかず、寂しいです、と答えた。体中がもやもやとした何かに支配され、レヴァンはフィリナの肩を掴んでいる手に力を込める。
不機嫌なレヴァンに気づいているはずなのに、セドリックはレヴァンの神経を逆なでするようににやりと笑った。
「弟はいいよね。マヴロスも、兄様~って甘えた声で僕を呼んで、毎日後をついてきたなぁ」
「記憶を捏造するな」
レヴァンが憮然と言い返すと、セドリックはにこにこと楽しそうに笑う。完全に面白がっている顔だ。
「そういう弟だったら良かったなぁっていう願望だよ。少しくらい夢を見たっていいじゃないか。だって……」
そこまで言って、レヴァンから視線を逸らし、
「明日から僕は一人になるんだよ」
とセドリックが寂しそうに目を伏せたのは、意地の悪い彼の演技なのだろうか。それとも……。
真意を確かめるためにじっとセドリックを見つめると、彼は突然、いいことを思いついたというように大きく手を打った。
「君たちが結婚したら、マヴロスのにやけた顔を見に行くね。大丈夫。いつ、どこで、どんな倒錯的な性行為をしていても顔色を変えないって約束するから」
フィリナの侍女服姿を見て、セドリックは、『踊り子さんもいいよね』と目を細めて笑った。レヴァンはすかさずフィリナを抱き寄せて、セドリックの視線から彼女を隠す。
フィリナを邪な眼差しで見ていいのは自分だけだ。他の人間がフィリナで不埒な妄想をするのは許しがたい。
油断も隙もないセドリックを睨み、レヴァンは鋭く言い放つ。
「来るな。来てもフィリナとは会わせない。追い返してやる」
「やっぱり君は素直でいいね。純粋な弟をもって僕は幸せだ」
憤慨するレヴァンを見て、セドリックは笑った。
「明日からは……他人なんだけどね」
続けて寂しそうに小さく呟かれた声は、フィリナを抱き締めることで気持ちを落ち着けようとしているレヴァンの耳には届かなかった。