君に溺れる夜
――名も知らない、そんな人に恋をしてしまった。
熟れた果実のように鮮やかな赤、高価な宝石を思わせる魅惑的な青、深くつややかな黒、目に鮮やかな若葉のような緑、きらびやかな金に銀――定期的に開かれる仮面舞踏会のダンスフロアは、いつも色の洪水だ。
シルビアもまた、蠱惑的な深い紫色のドレスで華やかなダンスフロアに色を添える。
会場を埋める絶え間ない音楽とおしゃべりに圧倒されていては、自分すら見失ってしまうだろう。
慣れない者なら空気だけで酔う。ここはそんな場所だ。
「一曲お相手願えますか?」
三曲踊って飲み物を受け取ったとき、そう声がかかった。とんっと鼓動が跳ね、グラスのなかで果実酒が小さな波紋を広げる。弾みで跳ねた滴が相手の上着にかかり、シルビアは慌てた。
「も、申し訳ありません」
謝罪するものの相手の顔を見ることができなかった。
心臓が暴れ、グラスを持つ手に汗がにじむ。
「いえ。……少し、染みになるかもしれないな」
音楽に紛れてしまいそうなほど小さく訴えられ、シルビアはそろりと視線を上げる。そして、じっと見下ろしてくる男に狼狽えた。
言葉ほど困った様子はない。それどころか口元にはかすかな笑みすら浮かんでいた。
かあっと頬が熱くなる。
彼の本当の名はわからない。仮面舞踏会では本名を名乗らないのが習わしで、ゆえに彼は“ジョーカー”という仮初めの名をシルビアに告げた。そして、シルビアも彼に“シーア”と告げている。
「……染み抜きをします。こちらへ……」
グラスを給仕に返し、シルビアはジョーカーを誘うように歩き出す。ダンスフロアでは多くの紳士淑女がダンスを楽しみ、会話に花を咲かせ、料理人が腕によりをかけた見目も美しい食事に舌鼓を打っている。親交を深めようと精力的に動く者もいればひとときの出会いを楽しむ者もいて、幸いにして、誰一人その場を離れる二人に注目する者はなかった。
廊下に出たシルビアは、背後からついてくる足音に緊張しながらまっすぐ控え室へと向かう。
ドアの前に立つシルビアを見て、ジョーカーは口元に笑みを忍ばせた。
「この部屋で私に脱げと?」
質問する声には揶揄するような響きがある。
シルビアはぎゅっと手を握りしめ、それを胸に押し当てた。
これ以上はだめだ。
ここから先に彼を通してはならない。
そう思った。
それなのに、シルビアの足は自然と廊下の奥へと向かっていた。鼓動はますます速くなり、熱に浮かされたように頭がぼうっとする。背後からついてくる足音に高揚と動揺を覚えながら、シルビアはドレスのスカートを軽くつまみ二階へ続く階段を上がった。
シルビアの寝室は屋敷の奥にある。
今まで家族や使用人以外は通したことがない。
その場所に、今、異性を招こうとしている。
「お嬢様? どうかされたんですか? ご入浴の支度は、まだ――」
シーツをかかえて足早に近づいてきた侍女が、ぴたりと立ち止まるなり戸惑ったように言葉を呑み込んだ。どうやらジョーカーが気になるらしい。当然だろう。仮面舞踏会もまだ中盤。こんな時間に抜け出すように寝室に向かえば、不自然このうえない。
「あ、あのね、ジョーカー様のお召し物に果実酒がかかってしまって、だから、染みになる前に染み抜きをしようと思って……部屋に、案内を……」
そんなことは給仕に任せれば、シルビアよりずっと手際よく完璧に処理してくれるだろう。
そもそもが、家人用の控え室ですむことだ。
言い訳するように言葉を重ねるほど矛盾が露呈する。
「だから、これは――」
自分がなにをしようとしているのか、混乱しすぎてそれさえもわからなくなる。
侍女のマリーは噛みしめていた唇をゆっくりと開いた。
「わかりました。後ほど、染み抜きの道具をお持ちいたします」
道を譲るようにマリーは廊下の脇により、こうべを垂れる。
「あ……ありがとう。お願いね」
どくんっと、ひときわ大きく鼓動が跳ねた。震えそうになる足を懸命に前に出し、シルビアはジョーカーとともに寝室に向かう。ノブを掴むと息が乱れた。
今、とてもいけないことをしようとしている。
異性を寝室に招くだなんて、あまりにも――あまりにも、軽率で。
「すみません。やっぱり、誰か他の者に染み抜きを……」
言いながらドアノブから手を離した。だが、背後から伸びてきた大きな手がシルビアのものに覆いかぶさってドアノブを掴んだ。
背中に彼の体温を感じて体をこわばらせるシルビアの耳に、
「もう遅い」
熱っぽい声が吹き込まれる。と同時にドアが開かれ、シルビアは強引に寝室に押し込まれた。
ドアが閉まる音がやけに大きく響き、シルビアはすくみ上がる。
「ジョーカー様……ん……っ」
乱暴なほど強く腕を引かれ、呼びかける唇が彼のもので塞がれた。難なく滑り込む舌先が確認するように歯列をなぞる。ぞくぞくと熱が背筋を這い上がり、シルビアは両手をつっぱって彼から逃れようとした。
けれど、そんな抵抗はなんの役にも立たなかった。
ジョーカーの腕はシルビアを抱き込み、苦しいほど力が込められる。片手がシルビアの首に添えられ、逃げようとする頭を固定してしまう。
「ん、んん……!!」
縮こまったシルビアの舌を、ジョーカーのものがぞろりと擦り上げた。
「だめです、ジョーカー様……!」
訴える声ごと舌を吸い上げられ、敏感な粘膜を深く絡め取られる。濡れた音とともに愛撫するように舌を強くこすりつけられ、シルビアはうっすらと目を開けた。ジョーカーの鳶色の眼差しがシルビアの心を射貫く。まっすぐ向けられる欲望にぞくりとした。
シルビアは混じり合った唾液を羞恥とともに飲み下す。
体の奥に灯がともる。
彼の腕から力が抜けたのがわかったのに離れることができなかった。すがりつくようにたくましい胸に身を寄せたシルビアは、背中をそろりと撫で上げられて小さくあえいだ。
「約束をしていたな」
唇をほんのわずかだけ離して問いかけられた。吐息が唇をくすぐり、シルビアは身をすくめる。
「約束……?」
問いに答えるようにジョーカーは膝を入れてシルビアの足を強引に割り開き、手を内ももへと移動させた。ぴくりとシルビアの体が震える。
次になにをされるか予想し、シルビアの息が乱れた。
ジョーカーはそんなシルビアを冷徹に見つめ、刺激に弱い柔肌を、布越しに愛撫するようにさすりながら上へと動かしていった。
そして、敏感な部分を擦り上げる。
ひくんとシルビアの体が揺れた。
「君がもっと気持ちよくあえげるときに」
聞き覚えのある台詞にシルビアはぎゅっと目を閉じた。
“ゆっくり触ってあげよう――”
ジョーカーの言葉とともにそのときの記憶が鮮やかによみがえる。
ほんの数日前、仮面舞踏会がおこなわれているカーテンの裏で、指で花芽を幾度も優しくこねられた。筋張って長い指はその奥にも忍び込み、大胆に抽挿を繰り返した。
そのとき感じた甘い痛みと強い快楽――それらをまざまざと思い出し、体の奥からじわりと熱がしたたり落ちる。
「さあ、ベッドへ行こうか」
シルビアの首筋に唇をよせながらジョーカーが甘く誘う。低くかすれるその声に、逆らうことなどできるはずがない。
長い夜ははじまったばかりだった。