王子様と猫と嫉妬
「しっとにかられる、ってどういう意味?」
昼下がり、一緒に図書室で本を読んでいたリルが、突然顔を上げてサミュエルに尋ねてきた。
「しっとにかられる……。嫉妬にかられる、かい?」
頭の中で整理をするかのように、サミュエルは反芻(はんすう)した。
「一体、なんの本を読んでいるんだい?」
リルは、いつもリスだの妖精だのの挿絵の横に、申し訳ない程度に文字が入っている本しか読まないはずだ。それに、そんな言葉が入っているとはとても思えない。
「えっとね、神様と、トラと、お月様のお話」
リルが広げて見せたのは、絵よりも文字の方が多い童話だった。
「こんな本、君が読めるの?」
そう言うと、リルはあからさまにむっとした様子で口を尖らせた。
「読める。王子様、リルのことバカにした。リルだってこれぐらい、読める」
「バカにしてないよ。ただ、少し驚いただけ」
ぱっと見ただけでも、教えていない単語がたくさん並んでいた。リルには五歳の子が習う程度の読み書きしか教えていないはずなのに。
「リル、この本の内容はわかったのかい?」
「うーんと……お月様のことを、神様とトラが好きになって、お月様は、トラの方が好きで、神様は『しっとにかられて』トラのことを殺すの」
どうやら、内容まで把握出来ているようだ。サミュエルはおもしろくなくなると、リルから本を取り上げ、棚に戻してしまった。
「どうして、本、しまったの?」
「意地悪をしたんだよ」
リルの顔が哀しみに歪む。サミュエルはリルのこの顔が好きだ。この顔をした後には、必ずサミュエルのご機嫌を取るためにすり寄ってくるからだ。案の定、リルは大きな瞳に不安を浮かべ、すがるようにサミュエルの腕に自分の手を置いた。
「どうして意地悪、した? しっとにかられるの意味、リルがわからなかったから?」
「違うよ。わかっていたら、もっと意地悪をしていた」
「どうして?」
「だって、そんな言葉を知っていたら、君はおりこうさんな猫だってことになる」
サミュエルは普段から、ことあるごとに『おりこうな猫は嫌い』と言っていた。そのことを思い出したのか、リルは項垂れるとサミュエルの肩におでこをくっつけた。
「……リルは、おりこうさんじゃないよ。王子様の、バカな猫だよ」
「そうだね、君はバカな猫だよね」
「うん、バカな猫だよ」
なんの羞恥も臆面もなく、笑いながらそんな台詞を口にするリルは、哀れなほどみっともない。サミュエルは満足した笑みを浮かべ、リルの顎を撫でた。
「じゃあ、バカな猫はバカらしく、もっと簡単な本を読んだらいい。人にいちいち意味を聞かなくてもわかるような、絵ばかりの本をね」
「うん、そうする」
知性のある淑女なら一瞬にして沸騰してしまいそうな嘲笑の言葉に対し、リルは無邪気な笑顔を見せると傍らの本を取って広げた。挿絵がメインで、文字は申し訳程度に書いてあるだけの本を見て、サミュエルはほっと胸を撫で下ろした。
「リルね、この絵本、好き」
「そうなんだ。何がそんなに好きなの?」
尋ねると、リルは絵本のページを捲ってサミュエルに差し出した。
「ほら、この王子様が、とても綺麗なの」
「……王子様が?」
ページには、星をあしらった杖を掲げ、長い金色の髪を風になびかせた美しい王子の姿が色鮮やかに描かれていた。琥珀色の瞳は、物憂げに遠くを見つめていて、子ども向けの本だというのに、色気すら漂わせているようにサミュエルには見えた。
「この王子様、リルと同じ髪の色。リルと同じ瞳の色。お揃いで、嬉しいから、好き」
小さな手が、王子の描かれたページの表面を愛しそうに撫でる。その仕草があまりにも可愛くて、それゆえ無性に苛立たしくて、サミュエルは自分の頬が引きつるのを感じていた。
「王子様は、魔法が使えるの。お姫様が花とお話したいって言えば、話をさせてくれるの。王子様はなんでも出来るの」
『王子様』について語るリルの瞳が輝きを増す。それに比例するように、サミュエルの苛立ちはますます大きくなる。
リルにしてみれば純粋に、絵本の中の登場人物に憧れているだけなのだろう。けれどサミュエルは、リルの口から自分以外の『王子様』の話が出て、それを褒め称えていることに腹が立って仕方なかった。
リルは自分だけを見ていなければいけない。リルの口から、他の誰かの名前が出ることすら我慢出来ない。
「金髪でも、琥珀色の瞳でもなく、魔法も使えなくて悪かったね」
鋭く突き刺さるような冷たい声に、リルの顔が凍りついた。さっきのような戯れとは違い、本気で怒っている声だと察したからだ。
「リルは、僕よりも絵本の中の王子様に夢中なんだね」
「そ、そんなこと……。絵本の中の王子様は、お話出来ないし、リルを抱きしめてもくれない。リルは、王子様の方が好き」
抱きついてきたリルをそっけなく突き放し、サミュエルは絵本を取り上げた。
「じゃあ、この王子様がもしもリルと話が出来て、抱きしめてくれたら、僕よりも好きになるの?」
自分でも、あまりにも子どもじみた愚問だとわかっている。けれどサミュエルはこのくだらない感情を、リルにぶつけずにはいられなくなっていた。
「そんなの……わからない」
「へえ、わからないんだ」
「わからないっていうのは、だって、この王子様が絵本から出てくるなんてこと、絶対にないから……」
「絵本から出てきたらどうなの? 僕より好きになるの?」
「それは、そんなのは、そんな……」
答えに窮し、リルが唇を固く結ぶ。『もしも』や『例えば』に対する上手い切り返しなど、リルが出来るはずがないことはサミュエルも重々承知だ。だったら尚更、一言、『好きにはならない』とだけ言えばいい。それを本気で困り果てているリルの様子を見て、サミュエルの苛立ちは怒りに変わっていた。
「君には失望したよ」
「王子様……あっ!」
リルが手を伸ばすよりも早く、サミュエルは絵本を真ん中から引き裂いた後、王子の描かれたページをびりびりに破り捨てた。
「あ、あ、あ……」
唖然として口を開けるリルの上に、ただの紙くずとなった『王子様』の欠片が舞い落ちる。リルは大きな目をますます大きく見開いて、落ちてくるそれを凝視していた。
そんなリルの肩を抱き、サミュエルはふっと表情を和らげると、耳元に唇を寄せ、これ以上ないぐらい優しい声で囁いた。
「こういうのを、嫉妬にかられるっていうんだよ。わかった?」
そしてまだ動けないままのリルの唇を奪うと、ソファーに押し倒し、いつもより強く舌を吸い上げた。
最初は人形のように無表情で、されるがままだったリルの唇から、甘い声が零れだす。サミュエルはリルの髪についていた紙切れを握り潰すと、床に捨てた。
――可愛いリル、僕だけのリル。
その愛が辛すぎて重すぎて、時々殺してしまいたくなる、僕だけの、猫。