フィオレの仮の主
フィオレは王宮の中庭に続く長い回廊を走っていた。
急がなければ。アンナリーザを長時間一人にしてしまった。フィオレの『仮の主』はいつも良からぬ輩に狙われてもおかしくない身の上であるため、彼女の傍を離れるのはできるだけ短時間に留めなければいけないのだ。
(……ああ、今日も送れなかった……)
フィオレは衣服の中に隠している小さな紙切れを、ドレスの上からそっと押さえて奥歯を噛んだ。
それはフィオレの『真の主』への報告書だ。本来であれば、よく訓練された伝書鳩を使って主へ送るのだが、先日その鳩が射殺されてしまったのだ。殺したのは物見櫓に常在している弓兵だ。戦が大好きなペトラルカの王はあちこちに喧嘩を吹っかけていて、いつ何時敵から急襲されるか分からない。そのため城の守りを非常に堅くしているのだ。鳩などは密書の通信手段として知られているから、射落とすように命じられているのだろう。
鳩がダメなら、少々危険だが中継してくれる密使に手渡そうと思い、城下町に定期的に立つ市場に向かった。いつもなら同志が商人として紛れ込んでいるはずなのだが、今日は姿が見えなかった。その場所で代わりに店を広げていた店主に「いつもここで香辛料を売っていたお店はどこに行ったか知らないか」と訊ねてみると、店主は気の毒そうに肩を竦めた。
『ああ、検問が厳しくなってね。外国から来る物売の出入りは禁止されるようになったんだよ。今じゃペトラルカの民である証がなけりゃ、王都に入ることもできやしないよ』
(ああ、なんてことだ……! 鳩も人もダメとなると……カーティス様にアンナリーザ様の窮状をお伝えできない……!)
アンナリーザの伯母から強姦魔を送り込まれているという危機を伝えたかったのに、いよいよ連絡手段がなくなってしまった。カーティス自身も潜伏して生活しているから、伝達手段が限られている上、不確定な方法を取るしかなく、これまでも出した報告書が届かないこともしばしばだった。
ペトラルカ王は年々警戒を強めているから、下手な動きをすればフィオレの正体がバレかねないし、そうなればその主であるアンナリーザにも累が及ぶだろう。孤立無援で喘ぐように生きている彼女に、これ以上の苦難を与えることがあってはならない。
(こうなれば、私がこの手でアンナリーザ様を守り抜かなくては……!)
戦闘は苦手だが、戦わなくとも身を守る術はある。それらを駆使して、とにかくアンナリーザの身を守るのだ。
裾の長いドレスが邪魔で仕方ない。たっぷりとした布を両腕に鷲掴み足首を曝け出して走っていたのだが、それを見た通りすがりの女官たちが、目を丸くしてヒソヒソと囁き合っている。
「これだから〝タダ飯食らい〟のところは……」という囁き声が聞こえてきて、フィオレは唾を吐き捨てたくなった。
(ハン! お前たちの方がよほどタダ飯食らいだろうが!)
あのゴテゴテとした衣装もアクセサリーも全て、この国の民から搾り取った血税で買った物だろうに。
何一つ民のためになることをしていない連中が、よくもそんなことが言えたものだ。
(少しはアンナリーザ様を見習ったらどうだ! 浪費することしか能のない寄生虫どもが)
フィオレの『仮の主』であるアンナリーザは、着れなくなったドレスや靴を、そして伯父から気まぐれに賜った本なども読み終わったら孤児院へ寄付したりしている。
(ご自身こそ、着る物に困るほどの境遇に身を置かれているというのに……)
アンナリーザの亡くなった父親は、このペトラルカの王弟であり将軍であった。当然ながら裕福であったはずで、その遺産が一人娘であるアンナリーザに遺されていないわけがない。それなのに、アンナリーザには金貨一枚も入っていないらしい。おそらく伯父であるペトラルカ王か、あるいは周囲の腰巾着どもによって横領されているだろうことは想像に難くない。
だがアンナリーザは『お世話になっているのだから』とその横領について口を噤んでいるのだ。
(……まあ、アンナリーザ様が声高にそれを訴えたとて、王にそれを握り潰されるのがオチだろうが……)
この王宮では、アンナリーザのことを心から気にかける者は一人もいない。王とて彼女に利用価値があるから王宮に置いているだけで、そうでなければ捨て置いていたに違いない。
そんな孤立無縁で、自分の衣食にも困るような状況の中にあっても、自分ではない誰かのことを常に念頭に置いて行動するアンナリーザの高潔さに、フィオレはいつも心を打たれるのだ。
王族や貴族といった権力者が彼女のような人ばかりであればいいのにとさえ思う。
すっかり『仮の主』に心酔しているフィオレだったが、最初からそうだったのではない。
最初は、むしろ仇敵であり、憎むべき対象だった。
なにしろ、あの大悪党ピエルジャコモの一人娘だ。レストニアの民は全てピエルジャコモを憎んでいると言っても過言ではないだろう。フィオレも父と母と兄と姉を、ピエルジャコモに殺された。家族を殺し、祖国をめちゃくちゃにした仇敵の娘を、どうして憎まずにはいられるか。フィオレの『真の主』であるカーティスの命がなければ、この手で縊り殺してやりたいとすら思った。
(なぜカーティス様は仇の娘を守れなどとお命じになったのか……)
フィオレの家は、代々レストニア王を陰で支える諜報部隊の一族だ。一族全ての者がレストニア王に忠誠を誓い、その命には絶対忠実であらねばならない。フィオレが成すべきことは、カーティスの命令を遂行することだけ。そこにフィオレの意志や感情など交えてはならない。
だから心にわだかまる憎しみや怒りを抑え込んだ。
王城に紛れ込むために、王都周辺で起きた馬車の事故で亡くなった娘の身分を拝借した。女官として王宮で働くために田舎の領地から出てきた子爵令嬢で、不慮の事故の犠牲となったのは気の毒だったが、フィオレにとってはうってつけの身の上の死人で、大変に助かった。
この『フィオレ』という名前も、その娘の名前だ。丸ごと乗っ取った形になるが、身分を借りる代わりに、丁寧に埋葬したので許してほしい。
こうして無事に王城に潜り込み、アンナリーザの侍女となることができたフィオレは、仇の娘だと思っていたアンナリーザの私利私欲のなさや我慢強さに驚かされることとなった。
王の姪で、英雄の忘形見だというのに、アンナリーザは王宮の中で無い者のように扱われていた。王の正妃がアンナリーザを目の敵にしているせいだ。そして王も姪を手駒としてしか見ておらず、自身の妻に虐められているのを知っていながら放置していた。正妃の不興を被ることを恐れ、まだ十二歳の少女を助ける者はなく、アンナリーザは王城の中で見捨てられた孤児も同然だった。彼女の面倒を見る者はなく、着る物はおろか、その日の食事すら運ばれないこともあったほどだ。
そんな中であっても、アンナリーザは努めて明るく振るまっていた。
泣いたり怒ったりするのではなく、笑顔や言動に気をつけることで、相手からの好意を引き出し、自分に必要な物を取得していた。
フィオレがアンナリーザに対して最初に得た印象は『頭の良い娘だ』というものだった。
相手のことをよく観察し、不快に思わせないように、そして良い気分にさせるよう振る舞う方法を、アンナリーザは子どもながらに知っていた。注意力、観察力、分析力が備わっていなければできないことだ。
(……〝周囲の顔色を窺わなくてはてはいけない境遇にあった〟からだ……)
大人の顔色を窺うことを余儀なくされていたということだ。
フィオレはカーティスから、アンナリーザが王城に来る前にどんな環境で育ってきた娘なのかを聞いている。残念ながら、彼女は伯父伯母だけではなく、両親にも恵まれなかった。両親もまた、彼女を半ば放置していたのだ。
そんな酷い環境で生きてきた彼女は、本当ならもっと歪んでいてもいいはずだ。人を信用できないだろうし、後ろ向きな性格になっても不思議はない。
だがアンナリーザは違っていた。酷い環境であることを嘆くのではなく、なんとかその場を凌ぐ方法を考える。さらには、自分も余裕などない身の上であるくせに、他の者に手を差し伸べようとするのだ。
一度、正妃の指示でアンナリーザの食事が用意されなくなったことがあった。アンナリーザは伯父に直談判することでそれを解消したが、無論正妃が自分の指示だったと素直に吐くわけがない。結果、アンナリーザの料理を用意しなかったという罪で、料理長が処分されることとなってしまった。
フィオレにしてみれば、正妃に命じられたからとはいえ、なんの罪もない少女の食事を奪ったこの料理長とて同罪である。だから処分されればいいと思ったが、アンナリーザは違った。
青ざめた顔で伯父に料理長の命乞いをしたのだ。
『料理長はきっと私の分をわざと作らなかったわけではありません。人は間違うものです。一度の間違いはお許しになってあげれば、料理長は伯父上の寛大なお心に感謝し、もう二度と同じ過ちは繰り返さないと思います。その上、叔父上が恩赦を施したことを知った者たちも、叔父上の度量の大きさを褒め称えることでしょう』
姪の提言に、王は満足そうに頷いて料理長を許した。料理長はもちろん泣いてアンナリーザに謝罪し、感謝した。それ以降、アンナリーザが食べ物に困ることはなくなった。
まさに彼女の人徳ゆえに問題が解決した例と言えるだろう。
これほどまでに過酷な環境に身を置きながら、どうして他者に慈悲深くあれるのか。
アンナリーザは、その件だけではなく、万事においてそんな調子なものだから、フィオレの復讐心はすっかり萎え、今では彼女を守り抜くのが自分の使命であり、幸せなのだと思うようになった。
(……ピエルジャコモの娘だから、なんだと言うのか。アンナリーザ様の高潔さの前には、血筋など瑣末なことだ。まさに、カーティス様の伴侶に相応しいお方。カーティス様は、さすが、人を見る目をお持ちだ)
フィオレの『真の主』であるカーティスは、アンナリーザを自分の伴侶に選んだ。
いつかクラウンとティアラを頭上に乗せた二人が、手を取り合ってレストニアの国造りに励む姿を想像し、フィオレの胸は歓喜に膨らむのだ。
(ああ、アンナリーザ様、カーティス様。お二人のお子様をお守りする日を、このフィオレ、心待ちにしております……!)
***
「まあ、フィオレ。ライオネルを一晩中抱いてくれていたの?」
朝、身支度を整えて子ども部屋にやってきたアンナリーザは、ベビーベッドの前で息子を抱き揺らしていた腹心の女官の姿を見て、驚いて目を見開いた。
ペトラルカから付いてきてくれたフィオレは、アンナリーザの腹心の女官であり、本当の姉妹のように思っている人だ。
「おはようございます、アンナリーザ様」
「おはよう……って、あなたったらこんなに隈を作って……。乳母はどこに行ったの?」
アンナリーザがフィオレの腕から息子を受け取ると、もうすぐ三ヶ月になるライオネルは、満足そうな寝顔でモゾモゾ動いた後、また健やかな寝息を立て始めた。
「乳母殿は、殿下に授乳された後、一度仮眠を取るために寝室へ向かわれました」
ハキハキと答えるフィオレに、アンナリーザは少し困惑してしまう。
フィオレは、ライオネルが生まれてからというもの、ライオネルに付きっきりになってしまったのだ。
まるでアンナリーザではなく、ライオネル専属の女官であるかのようだ。
「……そうだったの。ねえ、フィオレ。乳母がいるのだから、何もあなたまでライオネルの夜泣きに付き合うことはないのよ?」
するとフィオレは「とんでもない!」と顔つきを変える。
「ライオネル殿下にもしものことがあったらどうするのですか!」
「もしものことって……乳母もいるじゃない」
「乳母殿だけでは心許ないですから!」
「そ、そう……」
ここに乳母がいなくて良かった。
「でも、あなたの体が心配よ。昼も夜も起きていて、ライオネルにつきっきりで……それじゃ体を壊してしまうわ」
「アンナリーザ様のお子様のお世話をするのが、私の夢でしたから、これくらいなんともありません! 私は頑丈にできていますから!」
目の下に隈を作りながら笑顔でそう答えるフィオレに、アンナリーザは眉間に皺を寄せて厳しい表情をしてみせる。
「そう言ってくれるのはありがたいけれど、ダメよ。睡眠と食事は健康の基本よ。疎かにする者にちゃんとした仕事はできません。これは命令です、フィオレ。あなたは今日一日、休みを取ってよく眠りなさい!」
「そ、そんな……」
アンナリーザに叱られ、フィオレは愕然とした顔になった。
しょんぼりと肩を下げる様子に、アンナリーザは優しく言った。
「あなたに体を壊されては、私が困るのよ、フィオレ。あなたは私の腹心の女官よ。私を一番理解してくれて、居心地良く過ごせるように全てを整えてくれるのは、あなた以外にいないわ。ずっと傍にいてくれなくては嫌よ。だから、ちゃんと休んでちょうだい」
信頼し、心配しているのだ、と心を込めて伝えると、フィオレは感極まったように涙を浮かべる。
「はい……アンナリーザ様……」
「いつも本当にありがとう。ちゃんと眠ってね」
にっこりと笑って言うと、フィオレは一礼して部屋を辞そうとした。
ちょうどそこへノックの音が聞こえ、カーティスが顔を覗かせる。彼はドアの脇にフィオレが立っているのを見て、形の良い眉をひょいと上げる。
「おや、フィオレか」
「おはようございます、陛下」
フィオレはカーティスにも膝を折って挨拶すると、「失礼致します」と言って、今度こそ部屋を出て行った。
その後ろ姿を見送っていると、歩み寄って来たカーティスが息子を抱き取りながら、面白そうに首を傾げる。
「なんだい? 珍しく、フィオレを叱っていたの?」
「だって、またライオネルの夜泣きに一晩中付き合っていたって言うのですもの。あれじゃ、体を壊すのも時間に問題だわ」
「うーん。そう簡単に壊れるとは思えないけど……」
のんびりとしたことを言う夫に、アンナリーザは目を吊り上げる。
「もう! フィオレは女性なんですから。騎士や兵士のように鍛えているわけではないのですよ? 大体鍛えている人だって、不眠不休で働いていたら、すぐ体を壊してしまうわ。ちゃんと休ませてあげないと!」
「……まあ、そうだね」
「はあ、ライオネルが生まれてからというもの、フィオレが張り切りすぎているようで心配だわ……。まあ、ライオネルはこんなに可愛いのだから、構いたくなるのも仕方ないのかもしれないけれど……」
アンナリーザは、夫の腕の中で眠る息子のほっぺたをツンとつついて微笑んだ。
カーティスの黒髪と青い目を受け継いだライオネルは、このレストニア国民の希望の星だ。
敵国から嫁いできて、敵意の的となっていたアンナリーザだったが、ライオネルを産んだことで国民から認められ始めている。自分の身の安全の確保のために産んだわけではないが、息子のおかげで自分を取り巻く環境が飛躍的に改善したのは事実だ。
「あなたはみんなを幸福にするために生まれてきたのかもしれないわね」
そんな冗談を言うと、カーティスはおやおやというように肩を小さく上げた。
「私はもう十分に幸せだったけれどね」
「あら、そうなの?」
意外な発言に顔を上げると、夫のキスが額に落ちてくる。
「君が傍にいてくれれば、それだけで私は幸せなんだ。愛しているよ、ナリ」
夫だけが呼ぶ秘密の呼び名で呼ばれ、アンナリーザは目を細めた。
「私も愛しているわ、カート」
甘い声で囁くと、夫の青い目が揺らめき、唇が重ねられる。
レストニア国王夫妻の一日は、こうして甘く始まったのだった。