ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

絶倫夫は愛する妻を祝いたい

 凪紗が勤めるジュエリー店は年に数回、従業員に特別休暇を与えてくれる。誕生日や結婚記念日の他に失恋休暇などもあり、恋人との破局だけでなく推しの死や結婚なども休暇対象になるのだ。
 これらは翠川が独自に決めたもので、「記念日に仕事なんかしなくていい」と積極的にリフレッシュするように推奨しており、失恋に至っては「仕事どころじゃないでしょう」という配慮らしい。
 凪紗は失恋休暇を取得したことはないが、毎年誕生日には特別休暇をいただいていた。ひとりで少しいいランチを食べに行ったり、映画館のプレミアムシートを予約してビールを呑みながらポップコーンを食べたりと、自分にご褒美をあげる日にしている。
 ――そういえば、今年は東京に来てからはじめて誰かと一緒に誕生日を迎えるのよね。
 今まで恋人と誕生日を過ごしたこともないのに、いきなり夫となった壱弥と過ごすことになるなんて、去年の凪紗なら信じられない状況だろう。
 慌ただしく八月が過ぎて、気づけば九月も一週目が終わろうとしていた。凪紗が壱弥と結婚してから一か月が経とうとしている。
 凪紗の実家から帰宅後、すぐにでも籍を入れたいとごねる壱弥と、きちんと壱弥の家族に挨拶をするのが先だと主張する凪紗とで少々揉めたが、八月上旬に籍を入れることができた。
 壱弥の両親は愛情深い人たちで、彼が真っすぐに育った理由がよくわかった。
 ――壱弥のご両親も素敵な方たちだったわ。明るくてパワフルで行動力があって。
「壱弥さんを私にください」と言う覚悟で挨拶をしたのだが、その台詞を告げる暇もなく鷹月夫妻から式場とウエディングドレスの提案をされた。
『海外で挙式を挙げて、日本ではまた披露宴だけをするのはいかがかしら。凪紗さんは神前式がいい? でも女の子ならドレスも着てみたいわよね』
『全部やったらいいじゃないか。気になる衣装はどんどん着たらいい。写真を撮るだけでも素敵な思い出になるだろう。そうだ、知り合いに写真家がいるから撮ってもらおうか。いつなら空いているか予定を訊いておこう』
 口を挟む隙がないほど話が進んでしまい、凪紗は完全に置いてけぼり状態だった。大人しくお茶を啜って相槌を打ち、結婚の挨拶をするはずが式場の候補地を数か所提案されることになった。
 ――壱弥も海外で結婚式を挙げてハネムーンを堪能しようと言いだしたから、もう少しゆっくり考えたいって言ったけれど。
 翠川はハネムーンの特別休暇も与えてくれるが、店の繁忙期は避けたい。年末年始のジュエリー店は一番忙しい。今からプランを練っても、最短で来年の春頃になるだろう。
 ――鷹月夫妻は壱弥のご両親って感じがしたわね。
 凪紗には両親がいなかったから、壱弥の両親をお義父さん、お義母さんと呼べることがうれしい。そう正直に告げたときは泣かれてしまい焦ったが、これも素敵な思い出のワンシーンになった。
「凪紗、来週の誕生日は悠斗から休みをもらっているんだよな?」
 夕食後、ソファに座った壱弥に確認された。凪紗は「ありがたいことに特別休暇をもらいました」と報告する。
「定休日と祝日で三連休だな。せっかくだし近場の海外にでも行こうかと思ったんだが」
「え? 海外?」
 ――そういえば次の連休は海外に行こうって、言ってたような……。
 忙しくて忘れていたが、壱弥は覚えていたようだ。有言実行の彼はすぐに凪紗にパスポートを申請させて、無事にはじめてのパスポートを取得している。
「でも三日しかないと行けるところは限られてくるし、移動時間がもったいないんじゃない?」
「ああ、そう思って今回はやめることにした。四連休以上の休みのときは本場の料理を食べに行こう」
 ――あ、よかったわ。考え直してくれて。
 本場の料理という言葉には非常にそそられるが、どこまでを想定しているのだろう。「ナポリまでピザを食べに行こう」くらいは言いそうだ。
「それで都内のホテルを予約した」
「……え? わざわざホテルに泊まるの?」
「ああ、都内に住んでいると泊まることも少ないだろう? 気分転換にいいかと思って。あとなにか誕生日にほしいものはあるか?」
 身体を抱き寄せられる。すっかり壱弥にバックハグをされながら座るのが定番になっていた。
「特にほしいものなんて……壱弥が傍にいてくれたらそれだけ充分だわ」
 彼の腕に頬をすり寄せる。この温もりに包まれているだけで幸せだ。
「今すごくムラッとした」
「え?」
 腰にゴリッとしたものが当たった。欲望の昂りが伝わってくる。
「誘われていると思っていいんだよな? もちろんいいな? ありがとう」
「まだなにも言っていないんだけど? ちょっと壱弥、待って……!」
 ――自問自答じゃ確認になってないから!
 身体を抱き上げられて寝室に連れて行かれる。
 この日は六回目が終わった直後に意識を飛ばしたのだった。

◆ ◆ ◆

 誕生日前夜からホテルに宿泊することになった。壱弥が予約していたのは凪紗も知っているラグジュアリーホテルだ。
「ここはうちの系列会社だから融通が利く」
 ――シレッととんでもないことを言われた気がする。
 まさか特別ななにかをホテル側に依頼したわけではないな? と思うも、確認するのは憚れる。
「疲れただろう。ゆっくりお風呂に入ってきていいぞ」
「ありがとう。じゃあお言葉に甘えて」
「ここのアメニティグッズは種類が豊富だからな。いくつか試してみたらいい」
 前髪をどけて額にキスをされた。一日の終わりにキスをされることを恥ずかしく思いつつも嫌な気持ちにはならない。
 ――なんだか空気が甘いような……今夜もするのかな?
 だがそのつもりなら「一緒に入ろう」と誘うはずだ。ゆっくりホテルの風呂を楽しむような提案はしないだろう。
 少し残念なような、ほっとした気持ちで浴室に入る。シャワーブースとバスタブは別々に設置されていた。
 浴槽にお湯を溜めている間にアメニティグッズを確認する。
「入浴剤だけでもすごいたくさん!」
 パステルカラーが可愛いバスボムや、白いボックスに敷き詰められたバラの入浴剤など、種類が豊富で目移りしそうだ。色合いが鮮やかで、凪紗の乙女心がくすぐられる。
「グラデーションの花びらの入浴剤って泡風呂になるんだ? 気になるけど使うのがもったいないかも」
 白、ピンク、赤色の薔薇が箱に敷き詰められている。贅沢な時間を味わえることだろう。
 ――でも、もったいないって思うのはやめましょう。せっかくの誕生日前夜だもの。
 壱弥からもゆっくりしたらいいと言われているのだ。癒し空間を満喫しよう。
 手早くシャワーを浴びた後、凪紗は浴槽にバラの入浴剤を入れた。芳しい香りが漂ってくる。勢いよくお湯を注ぐと泡になり、もこもこと泡風呂が楽しめるようになるらしい。
「すごくいい香りだわ。贅沢すぎる!」
 見た目もよくて癒される。バスルームにはスピーカーもついており、音楽まで聴けるようになっていた。
 のんびりとバスタイムを満喫して、乾かした髪にヘアオイルをつけた。スキンケアも念入りにしてから浴室を出る。
 ――お風呂気持ちよかった。すっかり長湯しちゃった。
 気づいたら一時間以上も浴室にいたらしい。あと十分ほどで日付が変わる時間になっていた。
「壱弥、お待たせ。お風呂空いたよ」
 スイートルームのリビングへ向かうと、ソファの前のローテーブルには大小さまざまなサイズの箱が並べられていた。
「お帰り。はい、水分補給もするように」
 壱弥はキャップを開けて凪紗にミネラルウォーターを手渡した。
 ありがたくちょうだいし、乾いた喉を潤わす。
「ありがとう、壱弥。……あの、これは一体」
「ああ、凪紗の誕生日プレゼントだ」
 壱弥は満足そうに微笑んでいるが、凪紗は驚き過ぎて固まった。
「え? 私の誕生日プレゼントって」
「あと五分ほどで日付が変わるな。ちょうどいいタイミングだ。シャンパンも準備しているが、これは明日がいいか?」
 寝る直前にシャンパンはもったいないかもしれない。凪紗は「じゃあ明日の楽しみに……」と告げたが、目の前のプレゼントの山から視線が外せそうにない。
「ちょっと待って、まさかこれ全部だなんて言わないわよね?」
「そのまさかだが」
「これいくつあるの? 確実に十個以上あるわよね⁉」
「二十九個だ」
「二十九⁉ なんでそんなに……」
 壱弥の考えは想像がつくが彼の口から理由が聞きたい。
「そんなのは当然、俺が二十九年分の凪紗の誕生日を祝いたいからだ」
「……っ!」
 なにもおかしなことではないと断言された。心の奥がじんわりと温かくなる。
 ――もしかしてホテルに融通が利くと言っていたのは、これの準備を手伝わせたんじゃ……。
 これだけの荷物を運びこむにはひとりでは無理だろう。ホテル側の協力を得たに違いない。
「凪紗が生まれてきてくれてありがとうと思っている男が少なくともひとりはいる。それに結婚して最初の誕生日だぞ? 絶対忘れられない思い出にしたいだろう」
「ありがとう、壱弥。すごくうれしいけれど……あの、やりすぎじゃないわよね?」
 主に値段の意味で不安になってきた。
 ――ジュエリーが二十九個もあったら卒倒するかもしれない……。
 ひとつの単価が非常に気になる。
「さあな。やりすぎかどうかは凪紗が直接確認したらいい。ちょうど0時だな。誕生日おめでとう、凪紗」
「あ、ありがとう……」
 こんな風に祝われながら二十九の誕生日を迎えられるとは思わなかった。大好きな人が隣にいてくれるだけで、凪紗にとっては特別な日になる。
「さて、どれから開ける?」
 ソファに並んで座らされた。凪紗は一番手前にあるプレゼントの包装紙を開く。
「可愛い。これは箸置き?」
「そう、ガラス細工の箸置きだ。縁起がよさそうなモチーフを集めてみたんだが、凪紗が好きと思って」
 カエル、フクロウ、ナス、鯛、打ち出の小槌の五つだ。金箔も貼られていて豪華に見える。
「うれしい、ありがとう。食事が楽しくなりそうね」
 次の箱には色違いのペアのマグカップが入っていた。カップの温度が冷めにくいものらしい。
 ――よかった! こういうものなら安心して受け取れるわ!
 ほっと胸をなでおろした。すべて高価な品だと素直に喜べないが、実用品はありがたい。
 その他はバスソルトや、凪紗が気になっていた化粧品ブランドの化粧水と美容液の詰め合わせも贈られてテンションが上がる。高価な化粧品は買うときも勇気がいるため、このような消耗品は素直にうれしい。
「このリップの色は凪紗に合うと思ったんだ」
「まさか色まで全部壱弥が選んだの?」
「当然だろう。これはすべて俺が直接選んで買ったものだぞ?」
 ――いつの間に! 
 忙しいのに時間を捻出してくれたようだ。その気持ちだけで充分うれしい。
「ありがとう、壱弥。……あ、このヘアドライヤーってめちゃくちゃ高価なやつじゃない? こっちは同じブランドのヘアアイロンも!」
 美容家電もありがたい。肌に潤いを与えるスチーマーは早速試してみたくなる。
 だが箱を開けていくにつれて、少しずつリボンを解くのが怖くなってきた。
「今二十個目か。あと九個だな」
「……宿泊付きのテーマパークのチケットとか、温泉旅館の予約まであるの?」
「体験型もいいかと思って。新幹線のチケットも用意してあるぞ」
 小さな箱を開ける方が緊張する。ハイブランドのイヤリングを貰ったときは悲鳴が出そうになった。
 ――イヤリングだけじゃなくて、この腕時計もいくらしたの……。
 歴史の古いスイスのブランドの腕時計は軽く百万を超えるだろう。
 プレゼントの総額がいくらなのかを考えるだけで恐ろしくなる。
 ――これ以上高価なものは出ませんように!
 最後の箱を開けた。時刻はとっくに夜中の一時を過ぎていた。
「これがラスト……あ、よかった。今度は普通の目覚まし時計ね」
 スマホのアラーム機能ばかり使っていたが、普通の目覚まし時計があるのも便利だろう。見た目はシンプルな造りで、設定も簡単そうだ。
「これは俺の声を録音したものだな。出張で不在中でも、凪紗には俺の声で起きてほしいから」
「……すごいけど、どんなリアクションしたらいいかわからなくなりそう」
 最後の最後にオリジナルの商品がくるとは思わなかった。
 ――いろいろとやりすぎ感はあるけれど、でも全部私のために選んでくれたのよね。
 その気持ちが一番うれしい。壱弥からの贈り物はすべて宝物になる。
「ありがとう、壱弥。全部大事に使わせて貰うね」
「ここには入れなかったが、服と下着は俺が定期的に買うから凪紗は買わなくていいぞ」
「……それはまた協議するとして、今後のイベントのプレゼントはしばらく辞退するわね」
 次にくるのはクリスマスだろう。だがクリスマスプレゼントまで気合いを込められたら少し困る。
「却下。これは今までの誕生日の分なんだ。これからのプレゼントもすべて贈るに決まっているだろう」
「でも、この量の総額はすごい金額だし……」
「まったく大した額じゃない。今まで金の使いどころもほとんどなかったしな」
 ――そういえば、うちの遺産をはした金って言える人だったわ……。
 だが今後は夫婦として、きちんと金銭面の話し合いもしておきたい。凪紗は自分のために高額なプレゼントは避けてほしいと告げる。
「妻のための課金をしてなにが悪い?」
「課金って……」
「凪紗、慣れろ。経済を回すためにも、お金は貯めるよりも積極的に使うべきだ」
 ――それはそうかもしれないけれど!
「クローゼットには明日着る服と下着と靴を一式用意しておいた。サイズもぴったり合うと思うから心配はいらない」
「……」
 ――壱弥は愛をプレゼントにまで込める人だったのね?
 凪紗は反論することもできず、素直に「ありがとう……」と伝えたのだった。

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