風邪をひいた夫が面倒くさい
その日、ルシウスは朝から体調が優れない様子だった。午後になって違和感に気づいたキアラは、明らかにフラフラしていて熱っぽい夫を、ベッドに押し込める。
聞けば前日、山上の要塞で何やら夢中になって作業をしているうちに、身体が冷え切ってしまったので、そのせいだろうという。
「ずっと地下にいたから……。あそこ、完全に石造りだから底冷えがするんだ」
「気を付けてね。来週、誕生日なんだから」
キアラはベッドのすぐ横に置かれた椅子に腰を下ろし、湯たんぽを用意させ、毛布を増やし……と、甲斐甲斐しく夫の看病をした。
「みんなでお祝いをするつもりなのよ。それまでに体調を万全にしておかないと」
そう言いながら、額に置いた濡れ布巾を、新しいものに取り替える。
夕飯時になると侍女がスープを運んできた。オーツ麦と野菜をミルクで煮込んで味付けをしたスープである。食べやすくて滋養がある。
キアラは夫の顔をのぞいた。
「食欲はある?」
「ない。今はいいよ。後で食べるから置いておいて」
「ダメよ。栄養を取らなきゃ治るものも治らないわ。ほら、起きて」
促され、ルシウスは億劫そうにベッドの上で身を起こす。
キアラはワゴンを引き寄せ、侍女が運んできたスープボウルから、少量をスプーンで陶器の碗に移した。
そしてルシウスに向き直ると、碗の中身をスプーンですくい、フーフーと少し冷ましてから、彼の口元に持っていく。
「はい」
「…………え?」
ルシウスは不思議なほどぼんやりとそれを眺めた。キアラはスプーンを、さらに相手のくちびるに近づける。
「ちょっとでもいいから食べて」
「………………うん」
長い時間スプーンを見つめた後、ぱくり、とスープを口に入れて飲み込んでから、夫は真顔で言った。
「え? 何ここ天国?」
「どうして?」
「キアラにご飯を食べさせてもらえるなんて……。実は僕もう風邪で死んでたりする?」
「不吉なこと言わないの!」
キアラは少し照れながら返した。
ルシウスは子供の頃から人形のような召使いか、敵にばかり囲まれていたため、親身に看病された経験がないのだろう。そう思うと、いっそう優しくしてあげようという気持ちになる。
が、表面上は何でもないふうに返した。
「いちおう夫婦なんだから、食べてくれるならこのくらいするわよ」
「風邪、最っっっ高! 一生風邪をひいていたい!!」
「はいはい。さっさと食べないと冷めちゃうわよ」
再びスプーンにスープをすくって口元へ運んだ時、コンコンと扉がノックをされる。開いた扉から顔をのぞかせたのは、ルシウスの側近ユーゼフだった。
「殿下、少々お時間よろしいでしょうか」
仕事の報告だろう。自分は席を外したほうがいいだろうか。
キアラがスープを片付けようとすると、ルシウスがその手首をはっしとつかむ。
そしてぎらりと、刺すような目つきでユーゼフをにらんだ。
「よくない。出ていけ」
「は?」
「食事の最中だ。邪魔をするな!」
語調は激しく、眼差しはキアラまで息を飲んでしまうほど冷たい。
あまりにも邪険な態度に、部外者でありながらついたしなめてしまう。
「そんな言い方ないでしょう?」
その瞬間、ルシウスの眼差しから刺々しさが消えた。それでも彼は、押し殺した声で側近に言う。
「……今どんな状況か、見てわかるだろう。出ていけ」
実際、キアラが手にしたスプーンと陶器の碗とを目にして、ユーゼフは色々と察したようだ。その場で「は」と敬礼する。
「また一時間後にまいります」
簡潔に言い残して側近が出ていくと、ルシウスは口を開けて子供のようにせがんだ。
「まだ食べられるかも。もう少しちょうだい」
食欲があるのはいいことだ。ルシウスの口元に、キアラはスープをのせたスプーンをせっせと運んでいく。まるでひな鳥への餌やりのようだ。
驚いたことに、ルシウスは用意されたスープをすべてを平らげてしまった。
ナフキンで口元をぬぐってやると、彼は至極幸せそうにつぶやく。
「風邪がこんなにいいものとは知らなかった。もっと早くにひいておくんだった……」
「食欲もあるし、ゆっくり休めば明日には元気になるわよ」
「せめてあと数日ひいていたい。明日は栄養のないスープにしてほしいな」
「バカなこと言わないの」
食器を片付けながら、キアラは何気なく背中で訊ねる。
「ところで……昨日は要塞の地下で、寒さも忘れて何をしていたの?」
「地下牢の拷問器具に手を加えていたんだ。木材の角を削って丸くして、鎖を軽い素材にして、拘束具は鉄じゃなくて革にした」
「何のために?」
「僕の誕生日に君を連れていきたくて」
「私を、地下牢に?」
思わず振り向くと、彼はさらりと答えた。
「君と拷問ごっこをしたくて」
「――――……」
つまりキアラを地下牢に連れていき、拷問器具で拘束して遊ぶつもりだったということか。
突然のとんでも発言に、言葉にならない怒りが沸き起こる。
キアラはわなわなと震えつつ声を張り上げた。
「そんなことのために風邪をひくなんてバカじゃないの!? 心配して損した。もう独りで寝てなさい!」
ぷりぷり怒って立ち去ろうとするキアラの手首を、すかさず手をのばしたルシウスがつかんで引き戻す。
「特別な日に、愛情表現としてなら拘束していいって言ったじゃないか!」
そのままベッドに引っ張り込もうとする夫に、全力で抵抗する。
「私が言ったのは、ベッドの上で、リボンで縛る程度の遊びについてよ! 地下室の拷問器具でなんか受け入れるはずないでしょう!?」
「最高に背徳的で盛り上がると思うけどな」
「いやよ、絶対にいや!」
「もちろん痛いことなんかしないよ。当然だけど」
「お断りと言ったらお断り!」
「気持ちのいい、ごっこ遊びをしたいだけだ」
「まだ言うの!?」
「君もきっと気に入ると思うけどな……」
ぐいっと手首を引っ張り、ルシウスはベッドに座る自分の上で、キアラを横抱きにしてしまう。そして耳元で、秘密を共有するようにささやいてきた。
「動けない状態で気持ちいいことされるの、好きだろう?」
「す、好きなんかじゃ……っ」
「でもこの間、そうしてトロトロになった君を普段より乱暴に抱いたら、すごく興奮してたじゃないか」
「――――……!」
先週、彼のクラバットで手首を縛られての情事を思い出し、キアラの顔が真っ赤になる。
それをこんなところで思い出させるなんて!
羞恥にうるんだ目で夫を見つめ、キアラは叫ぶ。
「もう離婚よ!」
しかしその宣言は、ルシウスによる冷静な「それは応じかねる」の言葉に、いつものごとく無力化されたのだった。